昨今、街道歩きに人気が集まっている。中仙道や甲州街道など、昔の街道とその宿場を歩く歴史散歩は歩くことに加え歴史に触れる郷愁を甦らせてくれる。この地区にはそれほど著名な街道や宿場があるわけではないが、羽州街道や古峠道を整備して歩道にする試みもされているようだ。昨日、訪れた金山峠もそんな街道のひとつだ。「この歩道は環境税によって整備しています」と書かれた看板が立っていた。
江戸の参勤交代について調べて見た。ことの始まりは、豊臣秀吉や徳川家康の覇権の確立に伴っている。諸国の大名は国を取った豊臣氏や徳川氏への「挨拶」のために上京することであった。参覲の覲はまみえるということで、会ってお礼を申し述べることである。特に秀吉の時代は、この参覲が大きい意味を持っていた。大名が挨拶に京都に行かないことは恭順しないことであり、それを理由に討伐戦争が起きた。
徳川の時代になってもこの風潮は残り、諸大名は競って江戸への参覲を申し出た。すると江戸には大名が溢れて居場所が無くなる。そのため江戸へ来た大名へ土地を与えそこに江戸屋敷を建てる指導がされた。ぐずぐずして上京をしないでいると、「そろそろ上京しては」と言われる。このような事態は最悪で、大名たちは最も避けたいことであった。初めは、「願い」を書いて許可をもらうシステムであったが、大名たちの不安を取り除くために制度化されていった。参覲が参勤へと変わっていった。
自発的に参勤するものが先行したが、残りのものもいやいやでも参勤せざるを得ない風潮が広がっていったのである。東国の大名が3月に国許へ帰ると、4月に西国の大名が交代して上京するという風に、いちいち願いを出さないでも交代する制度が確立していった。山中のこのような心細い峠道を、武家の婦女も籠や徒歩で通った。渓流が四方に流れ、雨が降ると道に水も溢れたであろう。まして雪道は通ることも困難であったに違いない。車などが乗り入れることのできない道で初めて当時の人の心中を読むことができるような気がする。
国の母生まれた文を抱きあるき (誹風柳多留120)