いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重に匂いぬるかな 伊勢大輔
子供のころ正月の遊びといえば百人一首のカルタであった。戦中の産めや増やせで兄弟が多く、男兄弟と女兄弟がチームに分かれて札を取るのを競った。取り札は桐の板に判で下の句が押してあった。力強く札を払うように取ると、札が勢いよく飛んだ。慣れれば上の句を少し読んだだけで札に手をかけられるのだが、子供のうちは下の句に読み手がきて初めて取りにいける。そこで作戦は、5枚ほど自分の取る札を暗記して取り札を近くに置いた。それを知ってか大事にしている札を狙っている姉がいた。戦後の混乱した時代に、なぜこんな遊びがはやったのか不思議な感じがする。
こんな状態だから歌の意味など知らずに遊んでいた。もちろんのこと伊勢大輔といっても、男か女かの区別すらつかない。後年、カルタになっている百人一首とは、藤原定家が万葉の時代から定家の時代までの歌人百人を選び、さらにその歌人の一首を選んで筆で書き起こし、息子の嫁の父親に贈った美術品であることを知った。
伊勢大輔は父大中臣輔親が伊勢の祭主を務めていたことから、こう呼ばれた。輔親の妻が藤原道長の5男教通の乳母であった関係で、大輔は中宮彰子の女房にとりたてられたと考えられる。一条天皇の中宮彰子のサロンには、時代をときめく才女がひしめいていた。娘の彰子を華やかにさせようとする親心がこの状況をつくった。道長は才能のある女性を見つけては中宮彰子の女房にした。彰子のサロンにいた才女6人が百人一首に選ばれていることをみても道長の親心がどれほどのものであったか想像がつく。伊勢大輔のほかの5名を記せば、和泉式部、紫式部、大弐三位、赤染衛門、小式部内侍である。大弐三位が紫式部の娘であり、小式部内侍が和泉式部の娘であることを思えば当代一流の歌人、文人がサロン賑わせていた様子がわかる。
伊勢大輔もまた歌の家の人であった。祖父大中臣能宣も和歌をよくし、父輔親も歌人であった。小さい頃から歌に親しんできた大輔は、即興の歌を得意にしていた。古都の奈良には有名な八重桜があった。花弁が大きく豊かに八重に重なって咲いた。ある人がはるばる奈良から取り寄せた一枝の八重桜を天皇に贈った時のことである。居合わせた紫式部が、この花の中継ぎをする者は新参の女房の務めだといって伊勢の大輔を指名した。さらに、「黙って受け取っては礼儀知らずだ。歌をつけよ。」と道長がいう。
一条帝のサロンには、こうした咄嗟の知的練磨の機会が日常的にあった。歌の力をつけていく鍛錬の場である。いにしえときょう。八重と九重(宮中)。大輔は即興で言葉を重ねて、奈良から届いた大ぶりの八重桜を称賛した。そばに居合わせた天皇をはじめとするサロンの人々は、大輔の見事な機知に感嘆の声をあげた。