常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

上杉鷹山

2013年12月04日 | 


キャロライン・ケネディ駐日アメリカ大使の発言で、上杉鷹山米沢藩9代藩主が再び脚光を浴びている。大使の発言は「父(ケネディ大統領)は上杉鷹山を敬愛していた。生前、上杉鷹山の善政と公益への献身を称賛していた。鷹山は質素に生活し、藩校や殖産振興などで未来に投資した。父の有名な公務に関する言葉にも響き合っている。」という内容で、都内の講演でのものだ。この発言を報道で知った米沢の安部市長は、大使を米沢へ招く準備を始めている。

「なせば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」これは上杉鷹山が我が子への教訓として詠み教えたものである。鷹山は寛延4年(1751)日向高鍋藩主、秋月種美の次男として生まれた。 祖母が米沢藩から縁付いていたことから、10歳のとき米沢藩第8代上杉重定の養子となった。名は治憲であった。鷹山は家督を子に譲ってからの名であるが、今日ではこちらの方が親しまれている。

鷹山は17歳にして藩主となり、疲弊した藩の改革にひじょうな決意で臨んだ。大使が触れた殖産興業のひとつに養蚕の振興がある。莅戸善政が中心になってこの事業が推進された。養蚕業を奨励するとともに生糸の販路を江戸、大阪へ広げて収益の増加を図り、同時に藩内では織物を作り、特産品「米沢織」の端緒を開いた。

鷹山に影響を与えた学者に細井平州がいる。鷹山が14歳のとき、江戸桜田邸で平州の講義を聞いて感激したのがことの始まりである。平州は藩の教学振興のため3度米沢を訪れ、農家や婦人にも講義し大きな影響を与えている。質素を重んじる藩の気風は戦後も続き、客のおもてなしに供した砂糖には箸をつけて出した。そのため砂糖には手をつけずに客は帰っていった。普段の生活にも質素を旨とした教えは、米沢の習慣として長く残った。

鷹山が残した遺言ともいうべき「伝国の辞」に、米沢藩の藩主が心得るべき戒めとなる3ヶ条がある。
一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
右三条御遺念有間敷候事
ケネディ大統領が触れた公益への献身とは、この言葉を指しているように思える。
コメント
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