世界遺産登録の見通しが開けた「富岡製糸場」。このゴールデンウィークには多くの人が訪れているようです。
以前、元職場の人達と一緒に訪れたことがあるので載せることにしました。
富岡製糸場は、明治初期の殖産興業の代表的な工場。フランス人ポール・ブリュナが指導者として雇われ、
建設事業から製糸の先進的な的な手法を教えました。フランスの製糸技術など産業全般がいかに高度だったか
も知ることが出来ます。
入口から入ると正面にあるのが重要文化財の「東繭倉庫」で、明治5年の建築で、木材の骨組みの間に煉瓦積みを並べる「木造煉瓦造」
の珍しい建物です。また長さは104.4m、はば12.3m、高さ14.8mでかなり大きい。
その東繭倉庫前での記念写真。
この建物、正面向かって右手内部は、ガイダンス展示となっています。さらに正面通路を通り抜けると奥には
同規模の「西繭倉庫」があり、これも重要文化財となってます。
そして、富岡製糸場の最も重要な建物である繰糸場。これも重要文化財になっています。
建物規模は長さ140.4m、幅12.3m、高さ12.1m。
繰糸場の内部。繰糸場は繭から生糸を繰る作業が行われていた場所で、創業当初はフランス式の製糸器300釜が設置され、
世界最大規模の工場でした。現在の機械は昭和40年代当時のものが置かれています。
建物の屋根の部分は「トラス構造」になっていて、当時の日本の建築技術にないものでした。
「女工館」は重要文化財で、日本人の工女に糸繰りの技術を教えるために雇われたフランス人女性教師の住居です。
天井は格子状に組まれたり、二階のドアなどは西洋風で、当時の日本建築にはないものでした。
他にも、検査人館、指導者ポール・ブリュナが家族とともに暮らしていたブリュナ館が重要文化財となっています。
製糸工場というと「ああ、野麦峠」などで知られる「女工哀史」など暗いイメージが頭に浮かびます。ここを訪れる多くの人々
と同様に富岡製糸場についても、同様のイメージを、持っていました。
しかし、ここ富岡製糸場は国営で、武家の子女などを採用、全国各地の製糸場の指導者を育てる役割を担っていたようです。
指導者のポール・ブリュナが住んでいたブリュナ館。後に学校となりました。ここで、読み書き、洋裁などを教え、企業内教育の先駆となりました。
労働条件も日曜日は休み、月給制などが採用されるなど良好だったようです。 右端に写っているのは、富岡製糸場のガイドさん。
診療所や病室なども設けられていて、西洋の当時の良好な工場が再現されていました。 こうした良好な職場環境があり、一方で岡谷の製糸工場などでは劣悪な職場環境下、 「女工哀史」と呼ばれる悲劇が起こった歴史があるのは残念なことです。
(追記)日本初の官営工場として富岡製糸場は1972年(明治5年)開業しましたが、1892年(明治25年)に民間に払い下げられました。
その後は、徐々に労働環境は悪化していったようです。