マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

中ノ川町観音寺初祈祷

2012年04月07日 08時07分37秒 | 奈良市(東部)へ
春日山から柳生へ向かう街道。

日本最古の歓喜天(かんぎてん)を祀る興福寺別院(歓禅院)があるそうだ。

そこから北へ直線にして1.5km。

かつては興福寺の末寺として栄えたとされる奈良市中ノ川町の観音寺がある。

当屋の五人衆の話では、子供のときに住職が存在していたがいつしか不在となって無住寺。

そのころに途絶えたかどうか判らないが、同寺では毎年の2月18日に十一面悔過法要のオコナイが行われていた。

享和二年(1802)に記された講式によれば初夜道(導)師作法と後夜道(導)師作法の法要が行われていた。

花持・散華、梵音、咒願、念誦発願、應用念誦、大懺悔の後にある乱聲(声)。

いわゆるランジョーの作法だ。

カワヤナギの枝木で縁叩きをした個所だ。

住職が不在となってからは奈良市鳴川町の徳融寺から住職を迎えて法要がなされる。

「かつて東大寺の長老が、中ノ川のオコナイ(初祈祷)は二月堂の修二会と同じ作法でされていたであろうと話していた」と住職は言う。

今年も一年が無病息災、家内安全、五穀豊穣を願う。

日本国で観音さんが一番多いと云う修正会は村々に下りてオコナイと呼ばれるようになった。

観音さんは三十三の姿になって困っている人に、その人に相応しい姿となって願いを叶える。

三十三は数値ではなく無数だという住職の語り。

あらゆる人の修業を救うという。



ランジョーの声を発することなく立つ住職。

それが合図だといってカワヤナギで板を叩く。

二月堂では履いた下駄で床を打つように足音をたてる。

唐招堤寺の餅談義ではシバで地面を叩く。

いずれも悪魔祓いの作法である。

中ノ川ではカワヤナギ叩きとともに太鼓を打ち鳴らしホラ貝を吹く。

大きな音をたてることで村から悪魔を追い払うのである。

初夜道師、後夜道(導)師作法、神名帳の神名発願、佛名、教化、謹奉厳、佛名・教化、教化、讃歎申、諸人勧仕帳・花餅帳、佛名、教化、頭番千年ヲ畳ミ給、神分、祈願大般若経、九條ノ錫杖、佛名、教化、牛王加持、寶印護持発願、乱聲(声)・・・と長々と続く悔過法要。

享和二年の講式と同じようにオコナイをされたかどうか判らなかったがランジョーの作法は3回行われた。

かつては鼓を持って踊っていた。

弓も引いていたという。

それは子供のころのこと。

カワヤナギの縁叩きも経験していたという。

永らく途絶えていたオコナイは復活されて随分と経つ。

大正時代に途絶えたカンコ踊り(雨乞いの太鼓踊り)も復活も願われたが・・・。

こうして長丁場の悔過法要のオコナイを終えると社務所に吊るされた大太鼓をドン、ドンと打ち鳴らす。



村人への合図である。

それを聞いた人たちが一時間後ぐらいに風呂敷を持ってきた。

ゴクサンを風呂敷に包む座の人。

ご加持された牛王札とともに持ち帰るのだ。



お札は苗代作りの際に立てられる。

ツツジやツバキの花を飾って水口の虫除けに挿すのだというが農業を営む人は少ない。

すべての座中が取りにくるまでは座敷で語らい。

女人の入堂は禁じられている。

(H24. 2.18 EOS40D撮影)

中ノ川町観音寺初祈祷の牛王版木刷り

2012年04月06日 06時47分22秒 | 奈良市(東部)へ
初祈祷(オコナイとも)が営まれる前に集まってきた当屋の五人衆。

そこは奈良市中ノ川町の観音寺。

氏神座流の人たちがあがる三社神社社務所に兼用されている建物である。

古くから使われている版木を取り出した。

墨を塗っては刷る道具は長年の使用に黒光りする。

それには「牛王 ○○ 観音寺」と彫られている。

○○は梵字であるだけに判読できない。

刷毛で墨を塗っていく。

かつては摺った墨であったが現在は墨汁だ。

量が多ければ滲むので余分な墨汁は刷毛で拭いとる。

半紙をそろりと上から下す。

そうすれば牛王の文字が現れていく。



20枚ほど摺ったお札に朱印を押す。

場所は三か所だという。

向きは決まっているので見本通りの方向に押していく。

牛の蹄(ひづめ)だという朱印押し。



一枚、一枚丁寧に押していく。

そのお札は竹に挿す。

ネソジクと呼ばれている細い竹だ。

ジクンボとかシノブダケと呼ぶ人も居たがその名は聞いたことがないと反論する当屋頭。

行事資料にもそれは書かれていないとTさんはいう。

ネソジクの先を三つに割いて挿す。

先を広げなければ挿せないから二人がかりの作業である。

中ノ川は戸数20。

その数の枚数を作るが、余分にということで27枚。

座(数え15歳以上の男性)に入っている数だという。

その座中名が記されている木札。

年齢順かと思えばそうではなく座入りした順だ。

その並びで当屋の五人衆が決まる。

つまり行事ごとに五人ずつ移動していくのだ。

当屋は御田祭(初祈祷のこと)と秋のマツリの2行事。

それぞれに五人衆の組み合わせがあるが、若干のズレがあるために両行事とも当たることがあるといい、何時の年度にどちらの当屋を担うのか柱にその名が記されている。

尤も上から順の五人は長老とも呼ばれている中ノ川の座中である。



五人衆は初祈祷に供えるモチも作る。

各戸から集めたモチゴメ。

二合枡で計量して集める米は座の人数分。

穢れのあった家は集めないが総量6升にもなるという。

前日に当屋頭(五人衆の年長者)の家で搗いたモチは2種類。

一つは丸いモチ。半紙の上にヒノキの葉を置く。

お皿のようである。

モチは6段の重ねモチ。

初祈祷というだけに、おそらく花餅(けひょう)であろうがゴクサン(ゴコクとも)と呼んでいる。

もう一つはコジュウタ(コージブタ;麹蓋)いっぱいに敷き詰められた四角いモチ。

キリモチと呼ぶモチは取り出して包丁で切っていく。

四十等分に切り分けるキリモチは男しか食べることができないという。

それを6段重ねのモチの上に乗せていく。



かつては神社に供えたキリモチ。

時代を経て供え方が変化したようだ。

(H24. 2.18 EOS40D撮影)

北村町戸隠神社氏神祭りの相撲

2011年11月16日 06時44分57秒 | 奈良市(東部)へ
今座の人たちの話によれば神主が居る場合は行司と大(お)ずも(相撲)を担う。

いない場合は小(こ)ずも(相撲)となる。

また、警護の弓持ちは大座から一人で今座若しくは千座から一人となる。

相撲の場の蓆両側には「ワキ(脇)」と呼ばれる二人が立つ。

その人たちは紋付の羽織袴姿で登場する。

その選出は弓持ちと同じであって弓持ち、ワキ(脇)ともに2年間勤める。

行司、小ずも、大ずもら5人の演者が揃うと行事を先頭に古墳とされる山ノ神へ参る。

一人はセキハンを中に入れたスグリワラを手にする。

その後に続く人は細かくしたモチ片とセキハンを手にする。

その後ろにもスグリワラを持った人が続く。

式次第を詠みあげる人も後続につく。



山ノ神のお供えを持った人たちだ。

頂上が山ノ神とされる岩。

そこで時計回りにぐるぐると三周する。

そしてモチ片とセキハンをその岩に置かれて一同は拝礼して下っていった。



神主は御幣を手にして階段に立つ。

その前に立ったのが二人の弓持ち。

弓を射る格好で立つが矢は放たない。

真新しい狛犬を挟むように蓆(ムシロ)を敷いた。

その両側に立ったのが脇の殿(千座は脇の当と呼ぶ)。

そうして始まった氏神さんに奉納する相撲。

北村町ではそれを「小ずも」、「大ずも」と呼んでいる。

両ずもの所作には式次第がある。

それに沿って力士が相撲の役目を担う。

最初の是よりすもうの次第とあり、「行司壱人、すもうとり 四人共、土俵へ入り致す 神主、脇の殿(千座は脇の当と呼ぶ) 御前にて、三べん回る 一礼致して楽屋へ引く」所作は行司、小ずも、大ずもが土俵に出てそれをする。

いわゆる土俵入りの儀であろう。



第壱番は「小ずも、手を振り出る 礼を致し 行司共かけ声の次第 手を組み よいよい やーやーと致し楽屋へ引く」とあり、そのように所作をする。

第弐番の次第では小ずもが登場して「太刀をかたげ出る 脇の殿の前にて、腰より抜く手品にて、脇の殿の前に置く 三足後へ引く 神主の右の者かしこまり 左の者まいったと申し肩を壱打つ 相方一礼を致し、手を組み よいよい やーやーと申し 太刀をかたげて楽屋へ引く」とあり、そのように所作をする。



第参番の次第では小ずもが登場して「行司すもうとり 小矢をかみ(神であろう)に差し出る その時、脇の殿 扇を広げ前に置く すもうとり かみにさしたる小矢を 脇の殿 扇に打ち立つ 三足後へ引く 左の者かしこまり まいったと申し 右の者より、背を一つ打ち 一礼を致し 手を組み よいよい やーやーと申し楽屋へ引く」とあり、この次第の通りに小ずもの所作をする。



続いて大ずもの二人が手を振って登場する。

行司のかけ声で手を組んで「よいよい やーやー」の掛け声。

一旦楽屋へ引いて弐番の所作が始まる。

太刀をかたげて出てきた大ずもは腰より抜いて脇の殿の前に置く。

右の者はかしこまり、左の者が負ったと申して肩を打つ。

今度も手を組んで「よいよい やーやー」と申して楽屋へ引く。



なんとも不思議な勝ち負けの動作である。

参番は小矢を耳に挟んで土俵入りする大ずも。

「かみに差し出る」というからに紙ではなく神さんのことであろうか。

扇を蓆に広げて小矢を投げ入れる。



またもや勝負がついて、今度は左の者が畏まり負ったと申して肩を打つ。

そして三度目の「よいよい やーやー」と申して楽屋へ引く大ずもの所作であった。

式次第に書かれていた「これにてすもうの次第 打ち止めといたす」は詠まれなかったが、一連の所作を滞りなく北村町戸隠神社秋の氏神祭りの奉納相撲を終えた。

このように蓆に扇を置いて矢羽根を投げつける所作は奈良市西九条町の倭文(しずり)神社で行われる「角力の矢相撲」と同じような所作と思えた。

また、小ずも、大ずもとも紙片を右耳に挟む所作は奈良市下狭川の九頭神社で行われる「タチハイ(太刀拝)」や同市誓多林町の八柱神社での秋祭宵宮に奉納される相撲と同じようである。

ちなみにそれぞれの座には当屋が決められている。

今座では家の順で決められているものの12月に行われる霜月座でその引き継ぎがあるようだ。

大座帳によればそのときの座の膳はすき焼きに寿司、吸い物がだされる。

そこにはサバの祝い鉢があるらしい。

大座も順は決まっているが家並びでなく不規則だという。

千座といえば2軒しかないことから引き継ぎというよりも毎年交替というわけだ。

なお、座入用帳を判読したが山ノ神に参る件が見られなかった。

また、所作では使われなかった古い鉦と太鼓もそうだ。

これはどういうことなのだろうか。

大座の人の話では昭和四十二年に新調された入用帳とは別にボロボロになったもっと古い文書があるという。

もう少し北村の祭りのことを調べなくてはならない。

(H23.10.10 EOS40D撮影)

北村町戸隠神社氏神祭り

2011年11月15日 08時30分15秒 | 奈良市(東部)へ
セキハン(若しくはモッソ)と呼ばれる氏神祭りの御供は本殿、若宮神社、白山神社、山ノ神へ供えられる。

本殿には大座(中央)が2膳で今座(左)、千座(右)とともに1膳ずつ。

若宮神社へはそれぞれの座(左から今、大、千座)が1膳ずつ。

白山神社は大座(左)、今座(右)ともに1膳ずつで山ノ神が大座であった。

ヒトシオサバとも呼ばれる生サバはそれぞれ2尾ずつ本殿に吊り下げる。

大座ではこれを「掛魚」と称していた。

そして2年任期の村の神主が本殿に登って神事を始められた。



三座の人たちや村の人も参列されての氏神祭りは村の五穀豊穣を願う祝詞を奏上されて終えた時間帯は丁度昼時。

三つの座中はそれぞれの仮屋で会食をする。

いわゆる直会である。

今座の人に聞いた話では当屋(当家とも)は豆、ゴボウ、コンニャクを炊いた三種とパック詰め料理を出す。



数年前まではサバ寿司と巻き寿司もだしていたそうだ。

汁ものはトーフ汁と決まっている。

それらの膳の料理を肴にお酒など酌み交わしてしばらくは座中の憩いの場。

それぞれの座中の語らいが1時間ほど営まれる。

それぞれの座中には座中記録帳がある。

年号の古いものから順に今座の「今座入用帳 天保十二年(1841)九月吉日祭座」、千座の「千座講中簿 昭和十六年(1941)新調」、大座の「奈良市北村町 大座帳 昭和四十二年(1966)十月新調」とある。

今座入用帳には「神宮様 もそ三枚 酒三合 かます二枚・・・」、「若宮様 もそ二枚 なすび いも」、「神様御でま志」、「加ん○志」などの文字が記されている。

どうやら祭典の在り方や御供の内容が書かれているようだ。

それには「十一月座」とあり「大座と當屋分」の文字があることから両座で営まれていたようだ。

また、「おかぐら」の文字もあることから神楽舞がされていたようだ。

安政二年(1855)、四年・・・文久元年(1861)、二年・・・における当屋氏名とか「ヤト」の文字もある。

「まつりとや」とか「まつり座をつとめる」とあるから、当時は当屋の家が「ヤド」となって営みをしていたようだ。

その今座入用帳の中には「天保十年(1839)八月 加利やたて」があることからその時期に仮屋(千座入用帳では籠所)が建てられたようだ。

昭和三十四年に記された大座入用帳では千座のことを新座と呼んでいたことから三番目の座中と思われる。

氏神祭りは昭和61年までは10月17日で、その後は10日(平成5年から11年)であった。

平成12年に制度化されたハッピマンデーの関係で現在は体育の日にされている。

今座のほうでは座中に神主が居る場合において前日に宵宮(夜宮とも)が行われていた。

大座中ではその夜宮で御供搗きがされていたようだ。

その御供搗きは神主の次にあたる一老と二老がしていたらしい。

現在はなくなったが当時は芋、焼き豆腐、鯖、青菜、松茸、ズイキ和え、猪、蒟蒻、牛蒡、蓮根などの献立膳があったようだ。

また、山ノ神に供える餅を「犬ノ舌」と称していた。

ちなみに現在の北村町の軒数は24。

座中の軒数といえば大座が10軒、今座は4軒で千座は2軒である。

村を出たりして徐々に減っていったと話す。

(H23.10.10 EOS40D撮影)

北村町戸隠神社氏神祭りの御供造り

2011年11月14日 06時42分33秒 | 奈良市(東部)へ
大座(だいざ)、今座(いまざ)、千座(せんざ)の三つの座がある北村町戸隠(とがくし)神社の氏子たち。

早朝から集まって氏神祭りに使われる道具類を作っていく。

その道具と言うのは午後から行われる相撲のことだ。

村の神主とともに並ぶ二人は警護の役目。

その警護が持つ弓と矢を造る。

弓はシブの木で矢はネソと呼ばれる竹だ。

シブの木は夏の頃に白い花を咲かせるそうだ。

シブの木は毒性があるというNさん。

翌年にお会いしたときにこの木のことを聞いた。

根かもしれないが、と前置きして語られたシブの木は川に入れたら魚が浮くくらいだという。

シブの木で作る弓は毒をもって清める意味があるかも知れないという。

少なくなったシブの木は将来に亘って行事で使うことができなくなると危惧される。

そんな時代がくれば作り物の弓になってしまうかも知れないと話す。
(H24. 3.16 追記)

矢は細い竹で先の方は円錐形で尖らしている。

それは栗の木を細工したもので、竹は交差させて支柱にする。

これには意見がでて「矢を置く台ではなかろうか。持つ位置は逆なのでは」と話す大座と村の神主。

結論は見出せなくてこの年は支柱となった。

この道具を作るのは神主が座中に含まれる座で造られる。

相撲では担いで登場する刀と矢羽根を造る。

刀の材料は弓と同じシブの木である。

羽根は十数センチの長さで白い紙で羽根を取り付けた。

それらの道具は大座の人らが作っていた。

三つの座はそれぞれの座中が座る各々の仮屋(座の館)がある。

その仮屋には座中の名称が書かれてある提灯を掲げ注連縄が張られる。



それを作っているのは今座の人たち。

千座は特に造る様子は見られなかったが、それぞれの座中は氏神さんに供える御供を造る。

千座の場合は枡に詰めたセキハン(赤飯)や栗、リンゴ、スルメの御供だった。

セキハンは4合枡と思われる木の枡にすりきりいっぱい詰め込んで上から蓋を押してできあがる。

それは家で作ってきたそうだ。

神さんが食べられるようにと箸は栗の木を削って造った。

中央は白い紙で巻いている。

折敷に載せてできあがる。

今座の御供もほぼ同様だが魚はカマスで果物は葉付きのカキにエダマメ(大座ではナリマメと称す)だった。

今座ではセキハンのことをモッソと呼んでいた。

千座と同様に枡に押し込んで作ったという。

箸は同じく栗の木だが持つ部分を白い紙で巻いている。



大座の場合はセキハンではなく二段重ねの餅だった。

大きなカシライモ、コヨリで括った二段重ねのナスビにエダマメで果物はナシだった。

半紙に包まれた削りカツオもある。

平成14年まではカツオを削っていたのだが手間がかかるためパックで売っている削りカツオにしたそうだ。



セキハンは大重(重箱)に詰められている。

箸は同じく栗の木だが持つ部分を白い紙で巻いている。

大座のお供えは他にもある。

スグリワラと呼ばれる藁束の中に押し込んだ大きなオニギリのような形のセキハン。

そこへ大きなモチを加えるとスグリワラの中のセキハンは見えなくなってしまった。



これは山の神に供えるというが、年代ものの桶は持っていかない。

それには「新調 東里村大字北 大座中御供桶 明治二十八年十月」の文字が墨書されていた。

また、小さな鋲打ち太鼓や紐で繋がれた鉦があった。

年代を示すものは見つからなかったが相当古いものに違いない。

鉦は鳴る音から「チャウン チャウン」と呼んでいるが両方ともの鳴りもの道具は行事には使われない。

何らかの念仏行事があったものと考えられるが座中の人たちは記憶にないという。

三つの座に共通していた御供には「ヒトシオサバ」がある。

単に「サバ」とも呼ぶヒトシオサバは尻尾のほうに藁を括って本殿に吊り下げる。



三座とも2尾ずつである。

こうして氏神さんに供える御供ができあがったころになれば神事が執り行われた。

(H23.10.10 EOS40D撮影)

阪原長尾神社戻りジンパイ

2011年11月10日 06時45分07秒 | 奈良市(東部)へ
南明寺にある長尾神社のお旅所祭で田楽舞を奉納した人たちは出発地の神社に戻ってくる。

奈良市阪原町の氏神さんだ。

柳生の里と大柳生の間にある阪原は田園風景が美しい。

秋祭りにはオーコで担ぐ太鼓台もでる。

そこには子供たちが太鼓を叩いていた。

お祭りの間のその子たちは一度も地面に立たない。

戻ってくるときには大人に肩車されて帰ってくるのだ。

南明寺から長尾神社まではおよそ1kmもある。

太鼓台のお練りもたいへんだが肩車で戻ってくるのも同じこと。

法被姿の子供が戻ってくる前にはお旅所で奉納舞を演じていた舞(令)人たちが舞殿で田楽舞をされている。

太鼓やササラに笛を奏でる人たちである。

舞台中央に御輿を配し左右に二人の弓打ち。

矢を射ることなくただ立つだけだ。

笛奏者は右に立って、鼓、ササラ、太鼓は左に座る。彼らはそれぞれ二人ずつだ。

ピー、ピー、ピーに合わせて打つ鼓、太鼓。ササラも同じくシャッ、シャッ、シャッと三拍子。

笛の諧調はときおり上がり下がりがある節だ。

奏者はそれぞれ鳴り物道具を手にして時計周りに舞台を三周する。

三拍子目のときは足を止める。

その際、田楽の舞人たちは「ハァッ」とか「ホォッ」のように聞こえる掛け声をかける。

最後はピロピロッと止めのひと吹きだ。

そして舞人は扇を手にして御輿の前に立つ。

扇を広げ、両手は大きく広げて前に被さるように2回し。

そして今度は外へ回して「オゥー」と言いながら上体を反らせばパチパチと拍手喝さい。



次は逆時計周りに三周して終える。

この所作を鼓、ササラ、太鼓役が繰り返していく。

その次に登場したのが褌姿の二人の力士。

お互いは刀を左の肩にかけて担ぐ格好だ。

舞台袖に立つ力士は「ヨイ、ヨイ、ヨイ、ヨイ」と掛け声をかけて御輿の前に進んで刀を置く。

今度は両手で尻を叩きながら「ヨイ、ヨイ、ヨイ、ヨイ」と後ずさり。

この間は笛や太鼓は鳴らさない。

次の所作では両手を交互に前へ波打つような格好で押し出していく。

まるで押し出し相撲のような格好で「ヨイ、ヨイ、ヨイ、ヨイ」と前に進む。



そして再び尻を叩きながら戻っては両手の押し出し。

なんとも奇妙な相撲の所作である。

そうして二人の力士は手を握り合って大きくあげた。

ここで舞人と同じように両手は大きく広げて「ヨーイ、ヨーイ」の2回。

3回目は大きく回して「ワァーイ」と言いながら上体を反らすように両手を上へあげた。

まるでバンザイをしている格好だ。



なんとも滑稽な所作の相撲であった。

こうして舞人たちはすべての奉納を終えたのである。

そのころには肩車に乗った太鼓打ちの子供が神社に戻ってきた。

鳥居を潜るときにはその勢いはダッシュ。



神子はようやく地面に降り立った。

(H23.10. 9 EOS40D撮影)

誓多林八柱神社秋祭宵宮

2011年11月09日 06時42分14秒 | 奈良市(東部)へ
奈良市の東山間部にある誓多林町では年中行事が行われている。

トーヤ制度もある誓多林の八柱神社の行事。

かつては八王子神社と呼ばれていたのであろう灯籠にはそれを物語る刻印(明治四十年)がみられる。

以前は数多くの行事があったが村を出る人もあって負担感が増えていった。

「行事なんかやめたほうが・・・」の声が高くなり次第に止めていったそうだ。

昭和40年代後半のころに上誓多林の宮さんを中誓多林に合祀された八柱神社。

それからは上(10軒)、中(7軒)、下(12軒)誓多林地区の合同行事となった。

祭りは10月15日と決まっていたが体育の日の前日に替った。

祭りのヨミヤである。

氏子たちは昼頃に集まって千本搗きをしている。

長老、消防団の若い男たちに婦人たちも交替して搗くというから村あげての秋祭りである。

6臼も搗くという。

相撲の神さんやからゴク(御供)を搗くのだという。

かつてはそのあとに昼寝をして相撲の儀式をしていたそうだ。

社務所には氏子たちがあがって会食をしている。

お酒を飲むなど会話は盛り上がっている。

普段見掛けない若い人たちに小さな子供までいる。

千本搗きといえば唄が出る。

モチツキの唄だというI長老。

「・・・おもしろや はぁーなんじゃいのぉーぉ ひょうたんや イントセー イントセー」を繰り返すモチツキ唄の唄声に合わして千本杵でモチを搗く。

ゆったりとした唄の調子に合わせて搗く。

「ほんまはもっと早めだと思うのだが・・」と話す。

好いた お方に サカズキ さされ 飲まぬうちかぁら はぁ 桜色 おもしろや はぁー なんじゃいな イントセー イントセー」

「おまえ百まで わしゃ九十九まで はっ ともにいきなら こえるまで おもしろや はぁ なんじゃいなぁ ひょうたんや イントセー イントセー」

ここのヤカタは 目出度いヤカタ はぁ 鶴が御門(ごもん)で ほら 巣をかける おもしろや はぁなんじゃいなー ひょたんや イントセー イントセー」などの唄を即興で歌ったI長老は79歳。

その唄は生まれ育った長谷町で覚えたそうだ。

当地では正月行事のコンピラサンで千本搗きをしている。

「毎年していたので耳が覚えてしまった」そうだが全文の歌詞を聞き取れなかった。(※ 下線部は田原の里の歌詞資料を参照し補完した)

搗いたモチは千本杵で持ち上げることなく婦人たちが手で丸めていく場に移された。

キナコを塗したできたてのモチは柔らかい。

八柱神社のヨミヤの行事といえば相撲である。



土で固めた土俵を作り真新しい俵が丸い円を描く。

周囲240cmほどの長さになる。

中央にはサカキが挿されている。

相撲が始まるころには箒で奇麗に掃いていく。

その土俵の前に2枚のムシロ(蓆)を敷いて朱塗りの盆に刀が置かれた。

そこには白い紙片がある。

選ばれた二人の力士は社務所で相撲取りの格好をする。

六尺褌を身につける力士。

その姿を見る婦人。



のどかな村の行事の始まりだ。

本来の力士は褌姿であったが、今は下着の上から付ける。

そうして登場した二人の力士。

上、中誓多林のトーヤ家の若い男性だ。

かつて13歳になった人が村入りした。

その順でトーヤになれる資格を得る上、中誓多林。

祭りのトーヤになるのは家の順だが、下誓多林ではクジ占いで決めるそうだ。

まずは紙片を右耳に挟む。

紙片はどうやら幣のようだ。

ムシロに置いた刀を手にしてその周りを一周する。

東の力士は時計回りで西の力士は逆回り。

刀を置いて土俵にあがる。

東の力士を「アニ」と呼び西は「オトウト」と呼ぶ。

見合っての行司の掛け声が飛ぶ。

手を広げる相撲の作法にぶつかり合うような所作までだ。



そのあとは小さな子供力士が土俵に登場する。

衣装を着た長老はソウに烏帽子姿。

足元は雪駄履きだ。

軍配を手にして子供に優しく相撲を教える。

初めての体験だけにきょとんとした表情の子供たち。

はっけいよいと押せ押せの相撲取り。

押し出し一本、勝ちー。

母親がその様子を見て笑顔になった。

子供相撲を終えると再びムシロに登った力士。

同じように幣を耳に挟みぐるぐる回る。

2回目の作法では東が逆時計回りで西は時計回り。

そして刀を担いで土俵にあがり作法を終えた。

このように刀を置いて紙片を耳に挟む所作は奈良市下狭川の九頭神社で行われる「タチハイ(太刀拝)」と同じだった。

ガチンコ勝負をしようと大人も飛び入り。

そのよう様子を赤幕が張られた拝殿から見る長老たち。

以前は六人衆と呼ばれていた年寄りたちだ。

特別の観覧席であろうが大半の氏子たちは社務所からそれを観覧する。

昔は真っ暗な夜に行われていた神さんに奉納する神事相撲はまだ陽があるうちに終えた。

ドラム缶の火で身体を温めた。

(H23.10. 9 EOS40D撮影)

北村戸隠神社のスモウとは

2011年11月01日 06時43分03秒 | 奈良市(東部)へ
奈良市北村町に鎮座する戸隠(とがくし)神社では、人足たちが清掃をしたり提灯を掲げるなど明後日の祭りに際して作業をされていた。

なんでも神社の向い側にある小高い丘は古墳だと言って山の神に参るそうだ。

集落の西北の山は山城があるそうで地名を城山と呼んでいる。

ときおり探索に来る人たちが見られるという。

それはともかく神社の傍には公民館があり、そこには観音堂の建物がある。

あるにはあるが行事はないと話す。

ただ、前にある役の行者石仏の前では少ないが参る人もいるらしい。

9月8日のことだそうだ。

長寿を記念して狛犬が奉納された戸隠神社。

明後日には白い幕が下されていることだろう。



さて、神社の祭礼と言えば気にかかっていた神事相撲のことだ。

作業にあたっていた人足の方からその様子を伺った話では次のようなことを聞いた。

朝から相撲に使う道具を作っていく。

村の神主と弓を持つ二人の前で扇子を持つ二人が相撲を演じるらしい。

相撲といっても大相撲のような取り組みではない。

行司が立つ前で二人は相手の手を掴んで格好をするだけだという。

ぐるぐると一周した後は刀を担いで現れる。

そのときも同じように行司の前で作法をする。

そのときには「ヨイヨイセー」と掛け声をかける。

二人とも同じ方向に立って一方の人が肩に手をあてて「マイッタ」という。

それで勝負がついたという相撲の作法である。

その後に矢を持つ二人がぐるぐる回り、本殿前で扇を広げて矢のように投げる。

北村町は24軒。

三つの座があり、それぞれに座の名がある。

一つは大座(だいざ)で10軒。

もう一つが今座(いまざ)で4軒。

三つ目が千座(せんざ)で2軒。

昭和24年の千座は8軒だった。

村を出たりして徐々に減ってとうとう2軒になったそうだ。

そのような状況の千座であるが今後も続けていきたいとDさんは話す。

その三つの座ではそれぞれが異なるお供えを作るらしい。

そのお供えが出来上がれば神さんに供えて神事が行われる。

ここで一旦はそれぞれの座に着いて会食をする。

その料理も違っていたそうだが現在はパック詰め料理の会食となった。

しばらくの時間は座ごとの語らいの場。

頃合いを見計らって神主が始めようと声がかかると神事相撲をするというから決まった時間ではない。

ちなみにそれぞれの座には当屋が決められている。

今座では家の順で決められているものの12月にはその引き継ぎがある。

大座も順は決まっているが家並びでなく不規則だという。

千座といえば2軒しかないことから引き継ぎというよりも毎年交替というわけだ。

このようなお話を聞いたままにしておくのは申しわけない、と思って祭りの日は優先順位を繰りあげてスケジュールオンしたのは言うまでもない。

(H23.10. 8 SB932SH撮影)

別所町極楽寺の行事

2011年10月14日 07時53分10秒 | 奈良市(東部)へ
10月10日はコンピラサンの祭りで、翌日の11日は六社権現の祭りがある。

コモリをされたトーヤは祭りの前日までにモチを搗く。

数多くのモチで、コンピラサンは重ねモチ。

六社権現では4段重ねのコモチとなる。

参拝する各社やカイトノモリ(鎮座地は杣ノ川町で社は別所町)に奉るゴヘイも作ってモチを供えるそうだ。



その六社権現を祀る金刀比羅神社には極楽寺の名がある神宮寺がある。

本尊の木造阿弥陀如来坐像に地蔵菩薩立像と不動明王立像が安置されている。

昭和52年に県文化財に指定された仏像は大切にしなければとセキュリティで守られた蔵に納められている。

その仏像はたびたび開帳される。

月の数参りをされた日を含め、3月のお釈迦さん、4月のお大師さん、8月の二日酒、11月の十夜(堂年如の交替)となる。

かつては3月と11月は子供涅槃があった。

少子化に伴い子供が村からいなくなった。

が、お釈迦さんの掛け図は吊り下げられるとい、米の粉を挽いたものをイ(亥であろうか)の神さんに供えたそうだ。

気にかかるのは8月の二日酒(ふつかざけ)。

永禄年間に辰市の役で活躍した山田道安の弟の別所宗治の供養だそうで「殿さん供養」とも呼んでいる行事は太鼓と鉦を叩いてナンマイダを3回唱える。

「ナムアミダ」とドンドン、カンカンの連唱だそうだ。

墓地に向かってお念仏をするのだという二日酒。

昔はどっぷりと酒を飲んでいたことから「ケンカザケ」とも呼ばれていたそうだ。

「奉遷宮六社権現国家安全五穀成就村中祝 (右)弁財天女宮 大阿闍梨憲達 (左)金剛童子宮 神主儀右衛門 善右衛門」とある板書が立てられていた。

もう一枚には「奉修造宮六社権現宮国家安全五穀成就村中祝 (右)神野寺何某 (左)金剛童子宮 神主庄左衛門 長善右衛門」とある。

それには元治二年(1865年)四月六日と記されている。

かつては真言宗豊山派だった極楽寺。

僧侶名と神主名が連名で記されていることからその時代には神仏混合で造宮行事がされていたと思われる。

(H23. 9.16 EOS40D撮影)

別所町金刀比羅神社月の数参り

2011年10月13日 06時42分12秒 | 奈良市(東部)へ
平成21年4月26日に造宮された奈良市別所町の金刀比羅(ことひら)神社。

真新しい朱塗りの本殿が美しい。

六社権現を祀る神社であったが、明治以降はコンピラさんを祀ることになったそうだ。

神社行事を司っているのは一老から四老。

五老や六老も居るらしいが神主成を勤めるのは一老。

毎月の朔参りには境内に祀っている三輪大明神さんの棚にお供えをしてお参りをしている。

この日は朝早くから同町と杣ノ川町との境界にあるカイトノモリで参拝をしていた。

そして再び金刀比羅神社に集まった氏子総代の長老たち。

本殿に向かって拝礼を済ませた一同は砂利を敷いた境内中央で○型の円を描きだした。

そこには直線の筋も書く。

そうして円を中心にぐるぐると右回り。

一周する度に一枚のサカキの葉を落としていく。

どうやら数を数えているようだ。



その行為は12周も回って終えた。

無言で回る回数は月の数だという。

閏年はそれが13周になるそうだ。

かつては境内に生えていた木の周りを回っていた。

それは台風で倒れてしまった。

本殿や舞殿には倒れずに境内側だったそうだ。

倒れたご神木は高値で売られて神社の社務所になった。

ありがたい大杉だったという。

その名残の跡をぐるぐる回る作法には名が付いていない。

元にあった大杉を示すのに○型の円を描いたということだった。

直線と言えば、それはスタートライン。

こうしておかないと回った回数がわかなくなるのでそうしているそうだ。

一年の月数を回り地区の安全を祈願しているのだろうか。

お百度参りでもなく、風祈祷のような垢離取りでもなく、ただひたすら無言でぐるぐる回る不思議な作法はカイトノモリの参拝でもそれをされた。

「月の数だけ回るんじゃ」というだけに「月の数参り」と呼びたい。

前夜は布団持ち込んでミヤゴモリをしていた。

マツリの人(4人のトーヤ)だけが泊るという。

その翌朝が「月の数参り」。

当日の昼は再び社務所に集まる。

気のあったものだけが会食する日送りだという。

もしかとすれば月の数参りは日送りの作法であったのだろうか。

(H23. 9.16 EOS40D撮影)