マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

出合町で念願の祝い杉穂のコイノボリ

2016年02月23日 09時00分19秒 | 橿原市へ
知人のMさんから連絡があった。

「橿原のほうに杉の葉があるコイノボリを見た」というのだ。

これは行かねばと思って急行する。

だいたいの地を教えてもらったが判るだろうか。

たしかパン屋の近くだったと云っていた。

ひとまず駐車してみようと思って辺りを見渡せばコイノボリが泳いでいる。

てっぺんは確かに杉の葉っぱがある。

ここはどこだろうか。

もっと近づいてみようと思うが近くに寄れない。

ぐるぐる細い道を通り抜けたら広い敷地。

真新しい支柱は間違いなく杉の木。

話しを伺いたく呼び鈴をピンポーン。

出てこられた奥さんは35歳。

取材目的を伝えて伺う。

これまでマンション住まいだったと話す奥さん。

生まれたときは団地サイズのミニコイノボリを揚げていた。

旦那さんの仕事先の関係もあって広い敷地がある当地に移った。

子供は5歳、2歳の男児に成長していたが、新築した機会に念願の杉穂をつけたコイノボリを揚げることにした。

奈良では誕生祝いに実家が贈る風習がある。

奥さんは長男初誕生に杉穂つきの支柱を立ててコイノボリを揚げる風習を知っていた。

母親に頼んで贈ってもらった。

憧れだったという。

「長年の思いがやっと叶いました」と話す。



コイノボリは真鯉に緋鯉、紺色の長男鯉に緑色の次男鯉も青空に泳いでいる。

丸字にミツガシワは家紋。

コイノボリを製作するお店で作ってもらった吹き流しは親の真鯉とともに大空を泳ぐ。

「広重名所江戸百景」に描かれているコイノボリは真鯉が一尾。

江戸時代はそれだけであったようだとテレビのニュース映像が伝えていた。

子供は成長して幼稚園児になっていたが、念願のコイノボリは彼岸が明けた「いい日(大安)」に揚げたという。



広い敷地に立てたコイノボリ。

距離を離してみても、どこからでも見られる。

幼稚園児らはこの下にゴザを敷いてママ友たちが作ったお弁当を食べていた。

みなが喜んでいたのが嬉しかったという。

コイノボリの支柱の杉葉は時期が終われば降ろして伐りとる。

そして来年は矢車に替えて揚げる。

奈良県内で度々耳にするこれもまた風習だ。

ちなみに奥さんが云うには三重県には子供の名前を記した武者絵のノボリが見られると話していた。

(H27. 4.26 EOS40D撮影)

北妙法寺のツナクミ・蛇巻き

2015年10月24日 08時11分15秒 | 橿原市へ
昭和59年から2年間もかけて調査記録した奈良県教育委員会発刊の『大和の野神行事』報告書がある。

その史料では橿原市北妙法寺町のノガミ行事を「ノガミサン」と書いてあった。

農の神とされるヨノミの木に巻き付けるジャ綱である。

かつては旧暦2月7日であった。

いつしか新暦の正月7日に移った。

今では集まりやすい第二日曜日になったノガミサン行事を村では「ツナクミ」と呼んでいる。



およそ20mの長さの蛇の胴体ができあがれば、耳や口もある蛇頭を取り付ける。

運搬用の金属製梯子の上でぐるぐる巻きにして調えた。

ジャができあがれば公民館で一時間ほどの休憩をとる。



「奉納」文字は幣に括りつける。



まずは見本に隣についたお爺さんがカマやスキ、クワを書いていく。



子供たちは見よう見まねで牛の姿を描く。

双子の女児はツナクミを見ていた二人だ。

小学校低学年の子供の腕では牛に見えるような・・とも言えない牛の姿。

愛嬌がある姿は奉納の絵馬である。



こうでないという特別な決まりもなく子供たちは自由奔放に書をふるう。

枚数も決まりはないが竹の幣に挟める程度にしているようである。

北妙法寺町では今月末に初庚申が行われている。

平成26年1月に取材させてもらったときだ。

気になっていたモノがある。

「和州小泉庚申堂」の文字があった青面金剛像の掛軸の奥にあった木の棒である。



それには「奉修大青面金剛尊七難即滅七福即生交通安全祈攸」の文字があった。

上五段は梵字。

県内事例から推測するに「キャ、カ、ラ、バ、ア」。

「すべては万物から成り立っている」とされる「地、水、火、風、空」であろう。

材は硬いサンショの木に違いない。

現在の庚申講中ではなく、昔の講中がしていたようだとTさんは云った棒は初庚申の際に奉っていたのであろうか。

横に大和小泉庚申堂の祈祷札がある。

かつては小泉の庚申堂に参って受けてきたお札であるが、現在は「ならまち」の庚申堂に参っているようだ。



蛇、幣、絵馬ができあがれば集落南にあるヨノミの大木に運んでいく。

蛇を巻き付ける場は八釣川の畔に立つ巨木のヨノミ。

一年前に掛けた蛇は残したままで外すことはない。

昨年の取材の際に聞いていた道中の在り方。

蛇を巻きつけたままの人を近鉄電車付近にあった壕に放り込んだと話していた。

この日も話題になったかつての在り方。

嫁さんが来た家とか婿養子が来た家に出向いて土足で家まで上がり込んで家人に蛇を巻きつけたそうだ。

隣村の地黄町の近くまで蛇を持ち込んでいたともいう。

昔の蛇運びは夜6時ころだった。

運ぶ際には村人と顔を合わせないように出かけた。

今では公民館前でツナクミをしているが、昔は「トヤ(当家)」の家の前でツナクミ作業をしていた。

トヤ家では接待があった。

子供のころだと思いだす村人の記憶はお神酒にツキダシがあったようだ。

お神酒は蛇の口に注いだ。

蛇がまるで飲むような感じだったそうだ。

着いたらヨノミの木に梯子を掛けて昇って蛇頭をロープで縛るトヤ(当屋)さん。

充てる漢字に変化が見られる。



幣・絵馬はアキの方角に取り付ける。

この年は西南西である。

お神酒を蛇頭に垂らして樹上の作業を終える。



それから胴体をぐるぐる巻きにする。

その姿はまるでジャ(蛇)が天に昇っていくように思えた。



蛇を巻いた場は村の入り口。

疫病が村に入ってこないように、祈願の意味が込められているのだろう。

(H27. 1.11 EOS40D撮影)

北妙法寺の初庚申

2014年07月08日 07時55分45秒 | 橿原市へ
ツナカケ行事の際に話してくださった橿原市北妙法寺の庚申講の営み。

2カ月に一度は集会所に集まって般若心経を唱えていると話していた。

庚申講があることを知ったのは春日神社の境内にあった庚申石の存在だ。

この年の年初めの庚申の日は2月18日であるが、その日は集まらない。

1月末の日曜日に行われる初庚申は新年会を兼ねている。

2月では遅すぎるということだ。

この日であろうと思って出かけた北妙法寺。

集会所は灯りが点いていた。

扉を開けて声を掛けた時間帯は始まる直前であった。

「もう始めるから上がってや」と伝えられて上がった集会所。

床の間に掲げた小さな青面金剛像の掛軸は「和州小泉庚申堂」と書かれてあったが、年代記銘は見られない。

お神酒を供えて1本のローソクに火を点ける。



カセットテープが唱える般若心経に合わせて三巻。

それが終わればご真言を唱える。

北妙法寺の庚申講は10軒。

この日は欠席もあって8人が集まった。

午前中には奈良市のならまち庚申堂に出かけてお参りしてきたと云う。

掛軸は「和州小泉庚申堂」。

大和郡山市の小泉町にある庚申堂ではなく「ならまち」なのである。

かつては小泉の庚申堂に参っていたが、随分前に廃れたことから「ならまち」に替えたと云う。

ちなみに現在の小泉の庚申堂は有志世話人が平成17年に立ちあげ・復活されている。

近年は参拝者も増え、賑わっている現状にあると伝えておいた。

夕刻に再び集まった場が集会所。

般若心経・ご真言の次は、境内にある庚申石に移る。



暗がりの中の庚申石にローソクを灯して、並んだ一同が手を合わせる。

こうして初庚申を終えた講中は、新年会の会場に向かう。

向かうといっても新年会場の「がんこ」店送迎車が待っている処だ。

新年会は18時。

間に合うようにと足早に出かけていった。

(H26. 1.26 EOS40D撮影)

北妙法寺のツナクミ

2014年06月21日 09時08分17秒 | 橿原市へ
昭和59年から2年間をかけて調査記録した奈良県教育委員会発刊の『大和の野神行事』報告書がある。

それによれば、橿原市北妙法寺町で行われていた行事名はノガミサンと書かれていた。

ノガミの場はススツケ祭り(平成23年から中断中)をしていた地黄町より西へ数百メートルの地域だ。

かつて北妙法寺村は土橋村・中曽司村・地黄村・曽我村・五井村・寺田村・慈明寺村・大谷村・小槻村からなる高市郡真菅村に属していた。

明治22年(1889)のころである。

その後の昭和31年に市町村合併によって真菅村の村名は消滅したが、各村の名は橿原市の町名で継続された。

橿原市内に存続するノガミの行事は北妙法寺、地黄町、五井町、四条町、慈明寺町、見瀬町、古川町がある。

東坊城町は形式を替えて出垣内が復活させた。

調査報告書には忌部町もあった。

昭和32年頃には途絶えているというが、私が聞いた話しでは大谷町の八幡神社で農神祭と呼ぶ祭典があるらしい。

それはともかく北妙法寺のノガミサンは村の人曰くツナクミの名であった。

北妙法寺は本村で27戸。

昔からの旧村農家であれば18戸。

そのうちの5戸が専業農家になるそうだ。

旧村を囲むように西、南側は新興住宅地。

建築が増えるにつれて、屋就川(若しくは八釣川)から西側集落の旧村は見えなくなった。

地区の氏神さんは春日神社。

社殿傍に建つ公民館は村の寄り合いにも集まる場である。

この辺りは小字垣内。

昼過ぎともなれば村の男性たちが公民館横の集落道に集まって綱を組み始めた。

長老らが太く結った綱は蛇頭(じゃがしら)だ。

ワラ打ちをすることなく、3本組みに束ねた2本のロープを電信柱に括りつける。

それが蛇胴になる心棒。

三人がかりで結っていく。

藁束をその都度手渡して継いでいく。

三人が持っているのは二本のロープに三本拠り。



長いロープを受け持つ三人はその拠り方を見ながら、お互いが捻じれたロープを手渡していく。

ツナクミをする人たちは長老、年配者ばかりだ。

かつては1月7日がツナクミの日であったが、今では集まりやすい第二日曜日に移したと云う。

昔は綱を結う人とロープを持つ人が掛け合うように声があがっていたと話す。

30分ほどすればおよそ20mの長さの蛇の胴体ができあがった。



長老らが縄を結って作った蛇頭(耳・口もある)を胴体の先端に取り付けて、金属製の梯子にぐるぐる巻きで調えた。



一旦、ジャができあがって一旦は休憩。

公民館に上がって一服する間に子供たちが絵馬を墨書で書いていた。



描くのは牛の姿であるが、小学校低学年の子供の腕では牛に見える・・とも言えない絵馬が愛らしい。

隣についたお爺ちゃんがカマやクワを書いていく。

「奉納」の文字も墨書し、竹で作った幣も調える。

公民館でのひとときは春日神社の新嘗祭に供えたにごり酒やお茶で過ごす。

それは蛇に取り付けるのであるが、明日香村稲渕の行事取材に向かわなくてはならず、断念した。

調査報告書によれば調査年の3年前。

昭和56年頃であろうか。

今では旧村農家全戸の行事であるが、当時は輪番で廻る当屋制度があったようだ。

ワラを持ちよる家は当屋。

長い綱を結って組む際に仲間うちで巻きあったとある。

蛇ができあがれば集落南側を流れる屋就川上流にあるヨノミの木に巻き付ける。

その場に向かう道中では、年内に婿養子と嫁取りした家に出向いて土足で家まで上がり込んで家人に巻き付けたとある。

ジャは梯子に乗せて、当屋、アトサキ当屋、手伝い人らが担いでヨノミの木に巻き付けたようだ。

その場は村の入り口であると書かれていた。

ツナクミの日より二日後に再訪した北妙法寺。



胴体は幹周りが太くなったヨノミの木の下。

上の方には巻き付けた蛇頭がある。

蛇頭を揚げた方角はアキの方。



今年は東北東である。

そこには竹の幣と墨書された牛に農具の絵馬や奉納の書の重ね合わせが見られた。

ツナクミの際に話していた長老の回顧話。

当時は、蛇を巻きつけたままの人を近鉄電車付近にあった壕に放り込んだと話していた。

(H26. 1.12 EOS40D撮影)
(H26. 1.14 EOS40D撮影)

五井町の蛇巻き

2014年06月18日 07時21分30秒 | 橿原市へ
度々訪れていたが、橿原市の五井町で正月初めに行われる蛇巻きの在り方を拝見するには始めてだ。

これまで、見たのは蛇巻きを終えた後日ばかりである。

昨年に訪れたときも終わったあとだった。

蛇巻きの日程決めは水利組合。

それが決まれば春日神社の会所などに張り紙で知らされる。

数日前の正月三日に訪れたときは宮守さんとトーヤさんが元旦祭の片付けをしている最中であった。

その際に聞いた春日神社境内にあるお薬師さんの仏像盗難事件。

盗られてしまったことから、仕方なくお薬師さんは新しくしたと話していた。

今年の蛇巻きは11日の朝8時。

成人の日の前々日だ。

境内にとんど場を設けて火を点けた。

各家で正月を飾った注連縄などを燃やす。

氏子たち20人ばかりが作業を始めてだした。

五井町の水利組合は11戸。

旧村全戸で90戸にもなるが、新町も増えて150戸数にもなると云う。

旧村農家一軒、一軒が寄せたモチワラは30束にもなる。

境内にある樹木の幹とか、座石にバンバン打ちつけるワラ打ち作業。

ワラのシビが飛び散って辺り一面は藁埃だらけになった。

正月飾りもとんどで燃やしているから燃えカスがいっぱい。

風に舞ってこれもまた辺り一面に黒い燃えカスが飛んでくる。

それを避けながら、立ち位置は風が舞う度に移動する。

長老らが藁縄を三本拠って編みだした。

太い藁束に括りつけてできあがったのは蛇頭だ。

両端にある丸めた形が「耳」で、まん中にある一本は蛇の「舌」だと云う。

梯子に掛けて三人がかりで太くしていく。



何度か蛇綱作りは交替する。

力仕事だけに体力が要る。

かつては藁だけで胴体を拠っていた。

今では心棒になる部分に市販のロープを入れて作る。



およそ40分かけて作った蛇の胴は長さが23メートルにもなった。

「いつもそれぐらいや」と云う。



かつては作った胴をU字型に持ちあげて子供らを巻いたそうだ。

その行為を蛇巻きと呼んだのかどうか・・判らない。

蛇ができあがれば直ちに高取川の川堤に運んでいく。



長い蛇はくねくねと動く蛇そのものに見えた。

五井橋付近にある二代目のヨノミの木に登って蛇を巻きつける。



「50年ほど前はもっと太いヨノミで、しかもジャはオス、メスともあった」と云う。

子供に巻き付けていたのも同時代。

この日の蛇巻きには子供の姿が見られなかった。



蛇頭の向きはアキの方角。

今年は東北東。

「あっちや」と下から指示があってその方角に蛇頭を向ける。

幣を数カ所取り付けて、幹周りもぐるぐる巻きにする。

この姿が蛇巻きなのであろう。



サカキを立ててお神酒を蛇にふり掛けて終わった。



手を合わせて拝む。

昭和59年から2カ年かけて調査記録した奈良県教育委員会発刊の『大和の野神行事』報告書によれば「五井のノガミ」はツナクミまたは土橋のノガミサンと呼ばれていたが、蛇を共通項にしているからなのか、どことなくカンジョウナワカケが変化したように思えた五井町の蛇巻きであった。

(H26. 1.11 EOS40D撮影)

北妙法寺のツナクミ

2014年06月06日 08時15分43秒 | 橿原市へ
奈良県教育委員会が発刊したノガミなどの調査史料によれば、橿原市北妙法寺町の行事をノガミサンと呼んでいた。

農の神とされるヨノミの木に巻き付けるジャ綱である。

かつては旧暦2月7日であった。

いつしか新暦の正月7日に移った。

今では集まりやすい第二日曜日になったという。

正式名名称はツナクミと呼ぶそうだ。

春日神社にある公民館横で綱を組む。

できあがれば南の方にあるヨノミの大木に巻き付ける。

その姿はジャ(蛇)のようであるらしい。

八釣川の畔に立つ巨木のヨノミ。

成長が早く落葉も激しくなったことから近隣の迷惑にならないようある程度伐採したそうだが、それでもなお成長したという。

その木の幹回りに掛けるようにあった前年のジャがあった。

(H26. 1. 5 SB932SH撮影)

一町天満山長法寺の牛滝祭

2014年01月15日 07時28分18秒 | 橿原市へ
平成17年に取材したときは大日講の婦人たち数名がお供えをしていた橿原市一町(かずちょう)の牛滝祭。

この日に集まったのは村の婦人たち。

その年以降には5人であった大日講も、一人減り4人。

少なくなった講中も高齢化になった。

決断したのは大日講の解散だ。

そのような状況に村の有志を募った3年前、こうして集まった婦人たちが継承していると話す。

雨天であっても集まって天満山長法寺境内を清掃している婦人たちは、観音堂、地蔵堂、水神さんも奇麗にする。



当地には浄國寺もあるが、もともとここではなく他所にあったお寺を移設したという。

時代は明治の頃の廃仏毀釈。

住職がいない旧長法寺に浄國寺を寄せたという。

一町の婦人たちが管理しているのは旧長法寺大日堂、観音堂、地蔵堂、水神さんに蓮の池も含まれる。

長寶寺(真言宗)とも呼ばれることもある旧長法寺大日堂のご本尊は大日如来座像。

大日さんを敬愛する講であった大日講は、これまで毎月の15日がお勤めであった。

1月、9月の15日は境内を清掃してからお勤めをしていた。

それ以外の月はお勤めだけであった。

一町は高市郡新沢村に属していた一村。

明治時代に完成した大井手(大井出とも)に井堰・水路を造成した。

御所市の柏原から流れる満願寺川と高取町を下ってくる曽我川との合流地点である。

川上にあたる一町が水利権を握っている。

明治十二年は高市郡常門(じょうど)村だった。

かつて高取山城下であった一村辺り、城門(じょうど)があったと伝わる。

城戸、城門、その後に常門(じょうど)村の名に移り替ったと話していたことを思い出す。

常門村は東西にあり、東常門村と西常門村および萩之本を統一合併された。

その「統一」から「一」を村の名にした一村(かずむら)である。

その後の明治22年の町村合併によって一村は観音寺村・北越智村・川西村の三カ村とともに新沢村となった。

長法寺がある小高い山は天満山。

小字でいえば「テンマ」である。

この地にはかつてあったとされる長法寺城跡があるようだ。

境内にある観音堂は一町観音講の人たちが寄進して美しくなった。

昭和60年には36人もおられた観音講中。

継承された地区の総代、区長、評議員ともに観音講世話人らは平成24年1月17日には観音堂に安置されていた仏像を修復された。

美しく目映いて輝きを取り戻された34体の観音さんがずらりと並ぶ。



一方、地蔵堂も清掃される。

そこに安置されている地蔵立像。



周囲には千体仏も安置されている。

それぞれのお堂を奇麗にされたあとは御供作り。



カボチャ、ナガナス、オクラ、サツマイモ、ニンジン、インゲンマメ、ゴーヤ、シイタケ、カンピョウにコンブをお皿に盛る。

お菓子は高杯に盛る10膳のお供えは牛滝祭の御供。



牛滝祭は愛称をこめて「うったきさん」と呼ばれている。

かつては半切りにしたカボチャを土台に串を挿していた。

コンブは帆のように見立てて立てたというから、御供は帆かけ舟のようだったと平成17年の取材の折りに聞いた御供の姿はこの年も見られず平皿に盛った。

本尊の大日如来座像、右・左脇仏の不動明王、牛を象った牛滝さん、弘法大師、薬師仏、3体脇仏の金仏、外に祭った水神さんに観音さんなどに10膳を供える。

ローソクを灯して般若心経を唱える。

毎月の営みは五巻を唱えるが、この月は七巻も唱える。

木魚と太鼓を打つ導師。

それに合わせて般若心経を唱える婦人たち。



本堂に響き渡る音色は一町の佇まいであるようだ。

この日に参拝された村総代の話によれば、かつては農協主催で牛の品評会を境内でしていたと云う。

美しい化粧まわしのような襷を牛の背中に掛けて参っていた。

午前中の早い時間帯だったそうだ。

漫才や浪曲などの演目もあった農協の行事だったようだ。

今では茶場がトイレに移り替ったが、当時はそこでお茶のふるまいもあったと話す。

その後、子供や大人が消防ホースをマワシにして奉納相撲をしていた昭和32年頃の様子を今でも覚えていると云う。

土俵で相撲の取り組みをする人には近在の川西町からも力試しがやってきたそうだ。

勝った人にはヒノキ角材の日の丸御幣を授与したという話しから、その形は今でも行われている膳夫三社神社の望月祭の御幣と同じようである。

ヒノキ角材は床柱にするような丸太もあったそうだ。

本堂外に掲げた絵馬がある。



願主7人の名が並ぶ「奉納 大日如来」の絵馬は明治参拾四年に奉納された。

飼っていた牛に袈裟をかけてお参りする姿である。

牛の品評会が催されていた時期よりももっと以前の時代の様相だと推定される牛参りの絵馬である。

本堂内には数多くの絵馬を掲げている。

常門村講中が奉納した阿吽力士と思われる絵馬は「元禄九年(1696)六月朔」だ。

源平の合戦を描いたと思われる騎馬武者絵は「元禄八年(1695)三月吉日」である。

慶應元年九月吉祥に掲げた二枚の絵馬もあるが、特筆すべきは「正徳四年(1711)」に掲げられた絵馬だ。



大日堂を中央に配した絵馬には蓮池もあれば、観音堂、鐘楼、山門、庫裡や鎮守社の三神社もある。

よく見れば、そこに何人かの人が集まっている。

ゴザを敷いた場には二人の男。

一人は破れ傘を持っている。

左手には扇を持つ。

もう一人は太鼓を打っている。

おそらく太鼓囃しであろう。

それを見ている僧侶や侍。

子供連れの母親もいる。



その様相は大神楽のような大道芸であろうと思った。

本堂階段下では板に並べた白いモノが見られる。

おそらくはダンゴかモチであろう。

細長い白いモノや黒いモノもある。

三角の赤いモノもある。

それらは何か判らないが売り子もいるようだ。

編み笠を置いて手を合わす者もおれば、扇を手にして舞踊する女性もいる。

それより手前には、刀をさした侍に大刀をかたげる奴もいる。

本堂左下にはゴザを敷いた場に男がいる。



独楽を回す男の前には、一、ニ、三、四、六の目がでたサイコロまである「牛ノ八月吉日」と記された絵馬は「うったきさん」こと、旧暦八月当時の「牛滝祭」の様相を描いたものに違いない。

昭和31年に耕運機が導入されたと話す村総代。

それまでは飼っていた牛の力で田畑を耕していた。

牛使いが得意だったと云う。

牛滝参りはかつて橿原市の五条野にもあったことを思い出した。

昭和30年のころまであった牛滝参りの場は素盞鳴神社だった。

幟を立てて、牛には綺麗な衣装を纏い、牛の品評会や草相撲などが行われていた。

とても賑わっていたと平成20年2月に取材した初庚申の際に話していた講中の記憶である。

般若心経を唱えて営みを終えた村有志婦人たちは頼んでおいたパックの膳をいただく。

雨は降りやまず、お堂でひとときを過ごす。

「貴方の分もあるから食べていきなさい」と伝えられてありがたく一町の村総代とともにおよばれ。



柿の葉寿司、いなり寿司、巻き寿司もあるパックのお膳は小ぶりながらも揚げもの、煮ものに焼き魚もある豪華版。

たしか柿の葉寿司のヤマトであろう。

どれこれもとにかく美味しいのである。

この場をお借りして厚く御礼申し上げる。

村総代のお話はかつての牛滝参りの様相や農家の営みもある。

春、苗代作りをしていた。

その場にはツバキの葉に、家で炊いたアズキガユを盛っていた。

先祖さんの墓や三神社にも供えていたと云う。

苗代の水口にはツツジの花を立てた。

1月14日の晩は茅原の大トンドがある。

一町の各大字でもトンドをしているが、上垣内は15日の朝にしている。

もらってきた茅原のトンド火は翌日の朝、竃に火を移してアズキガユを炊いた。

アズキガユを食べる箸は穂付きのススキ。

いわゆるカヤススキである。

カヤススキの茎は堅い。

それを箸のようにして使って、一口、二口に食べていた。

竃が消えてからはしなくなったと話す。

会食を済ませた数時間後は観音堂の営みをされる。

金ピカに光り輝く観音さんの前で唱えるのは西国三十三番のご詠歌であるが、後日に再訪することにしてお堂をあとにしようとした際に気が付いた柱の奉納物。



納められてから相当な年月が経っているそれは紙に包まれたキリだそうだ。

今では奉納されることもなくなったが、耳の神さんとして崇められている本尊の大日さん。

耳の通りがよくなるように、工具のキリ(錐)に願をかけていた痕跡が残っている。

(H25. 9.15 EOS40D撮影)

五井の蛇巻

2013年04月24日 06時54分23秒 | 橿原市へ
橿原市五井町で行われる正月行事。

五位のノガミ或いは五井の蛇巻きと呼ばれている。

この訪れた時間は夕刻近い時間帯。

三叉路をぐるり廻れば高取川土手のヨノミの木に巻きつけた蛇巻きがあった。

蛇巻きを作るのは春日神社の境内。

水利組合の3人の役員が居られた。

五位のノガミは旧暦の1月15日であった。

いつしか新暦の1月15日になった。

その日は成人の日の祝日。

祭りごとには相応しい日であったが、ハッピーマンデーが施行されてからは毎年替る成人の日。

前日の場合もあれば当日の場合もある五井のノガミ

いつもすれ違う五井のノガミは掛け終わったばかりであった。

夕陽に赤く染まった蛇巻きはまるで天を昇るように掛けられた。

美しい姿に圧倒される。

蛇は龍とも。

水神には違いない。

農耕に必要とされる天からの恵みは雨である。

それをもたらすのが蛇であり龍でもある。

そういうことから五井のノガミは水利組合の人たちの行事であろうと思うのである。

(H25. 1.12 EOS40D撮影)

太田市天満神社ツナクミ

2012年02月26日 08時00分56秒 | 橿原市へ
大和郡山市の井戸野町を経て天理市を南進する。

櫟本町、喜殿町、前栽町、東井戸堂町、備前町、武蔵町を貫く真っすぐな道を抜けると田原本町になる。

そこは村屋神社が鎮座す藏堂町。

さらに南進して東味間を抜ければ橿原市の太田市(おだいち)町に入る。

この道は古代の官道の一つに挙げられる中ツ道である。

その地を南下する道はない。

どうやら中ツ道はそこで消えているらしい。

それはともかく寺川流域になる鏡川(かがり)川の西側にあるのが天満神社だ。

一段と高い地に鎮座しているのは、かつてそこが古墳であったのだとT総代が話す。

いつの頃か判然としないが前方後円墳だったそうだ。

前方墳は削られて残された後円墳に神社が祀られたという。

昨年に立ち寄ったときの神社の社そうは鬱蒼としていた。



本殿後方にあった樹木が奇麗に刈りとられていやにすっきりしている。

総代の話によれば白いサギが住みついて樹木が白い糞だらけになったという。

その糞は本殿屋根にも広がってきた。

それ以上の影響はご免こうむりたいと枝を掃ったそうだ。

ご神木であるだけに宮司に祓ってもらってから刈ったという。

どうりで。

明るく開放的になった境内には村人30人ほどが集まって鳥居に掛ける綱を結っている。

この日はツナクミの日で村人総出の作業。

村入りするにつれて増えていった太田市は45戸。

かつては30軒の農村だったそうだ。

旧村にあたる家の代表者がワラスリ、ワラウチ、ツナクミなど作業を分担して進められる。

ツナクミは正月明けの成人の日の前日。

5、6年前までは8日と決まっていたが集まりやすい日に移したという。

ワラスリ、ワラウチとも回転式の機械を使って作業する。

ツナクミの日程が変更される前まではヨコヅチ(槌)でモチワラを叩いて藁屑を取っていた。

手がかかるからと言って機械化された。



藁はワラスリと呼ぶ回転筒式の機械に当てて屑を取る。

筒には尖がったクギのようなものが付いているからそれに当てるとさばかれるのだ。

度々目にするイネコキの道具。

手で藁をひっかくようにして藁屑を取る道具だ。

それが回転式になった。

その効率は大幅にあがった。



次にローラー型の機械に藁を通す。

ローラーの圧力をかけて何度も通していく。

ベルトで動くハンマーだと言っていたワラウチの機械だ。

かつては石にバシバシと打って藁を強くしたワラ打ち作業は短時間で、しかも労力がかからずラクになったと話す。

こうして出来上がった藁は綱を組む人たちに渡していく。

太い藁束を継ぎ足して三本撚り。

張りを得るために男3人が力を合わせて結っていく。

力仕事であるが掛け声もなく淡々と作業を進める。

女性たちは出来上がった綱をハサミで奇麗にしていく。

太田市の綱はそれだけで終わらない。

県内の注連縄や勧請縄に特異な形の房をぶら下げる地域が散見される。

特異としたのは男陰、女陰と呼ばれる両房を綱に取り付けるのだ。

男陰は他所でも見られるようなフングリとよく似ている。

表現しづらいがタマタマと呼ぶそうだ。

さて、女陰といえば、7品種の木の枝を束ねて綱に取り付ける。

松、竹、梅、椿、樫、杉や境内に生えるつる(蔓)性植物である。

つるはつる状であればどのような品種でも構わないそうで、つた(蔦)でも構わない。

雌雄両陰の房は総代や長老らの手によって作られる。



こうして出来上がった綱はとぐろ状に巻いて本殿前に供えられる。

その上には男陰、女陰が置かれた。

そして総代は前に立ち村人たちが並ぶ。

手を合わせて綱が出来上がったことを神さんに報告する。

ツナクミは神事であろう。

こうしてようやく綱が掛けられる。

綱を掛けるのは神社両端にある大木のムク。

南側のムクは甘い実ができる。

熟した実は皮がシワシワ。

その頃が美味しいのだ。

味といえば干し柿のような甘さだ。

北側のムクは羽子板の羽根に使われたと言う。

羽根の下にある黒い堅い玉である。

昨年に聞いたIさんによればその木はゴボゴボの木だという。

ゴボゴボは泡。であるとすれば石鹸の木。

そうであれば北側がムクロジで南側はムクノキだと思われるがどちらも現地では「ムク」と呼んでいる。

その木にアルミの梯子を掛けて綱を巻きつける。

まずはムクロジの木だ。

昔は木の梯子で3間もあったそうだ。

それを登って掛けるのはとても怖かったと年配の総代は話す。



ほぼ中央辺りに男陰と女陰を括りつける。

それらには紙垂れと細い藁を挿し込む。

そうして南側のムクノキに巻きつける。



そろそろと引き上げて丁度、鳥居前に落ちついた男陰と女陰。

こうしてツナクミを終えた村人たちは会所でささやかな直会。

慰労会のようだった。

総代の了解を得て合祀されている子安神社を拝見した。

とは言っても本殿内である。



案内されたのはその下に置かれている砂。

それは安産祈願をする砂であった。

お腹が孕んだ家では、その砂を半紙に包んで神棚に供える。

子供が無事に生まれればその砂を返す。

「そんな風習がある村なのです」と、直会を婦人たちも話していた。

その砂は「安産祈願御授砂」。

砂を扱う風習はここにもあった。

(H24. 1. 8 EOS40D撮影)

飯高子部神社お綱祭

2011年04月18日 08時13分29秒 | 橿原市へ
古来、子部(こべ)の里と呼ばれた橿原市飯高(ひだか)町。

大和武士豪族であった飯高氏の本拠地で、菩提寺本堂は重要文化財に指定されている瑞花院(ずいけいん)だ。

その西隣りに子部(こべ)神社が鎮座している。

3月の第一日曜日は46軒からなる明神講の人たちによるお綱祭りが行われている。

幕を張った公民館(昭和59年建築)に集まって宴を広げている。

かつてはトヤ(当家)の家が会場であったが負担が大きくなってきたことから公民館に場を替えた。

神社の年中行事を手助けする役目は年禦(ねんぎょ)と呼ばれる五人の人たち。

家の順と決まっている5軒の年禦。

およそ9年で一回りする。

公民館の2階は宴の場。パック詰め料理とこの日のつきもののぜんざいをよばれる。

モチ入りぜんざいの支度など料理手伝いをするのは年禦の家族。

夫婦で祭りの手伝いをしているのだ。

年禦たちはその公民館でモチワラ綱を撚ってお綱祭りの綱を作ってきた。

20mほどの細長い綱は、雨を呼ぶ水の神さんだといい、蛇を現しているそうだ。

お祭りはまず始めに1階で出発の儀式を行う。

八幡大神、天照皇大神、春日大神が上段に。

下段には子部大神と豊受大神が書かれた掛け図の前に集まった明神講の人たち。

図下の祭壇には年禦が作った蛇綱や大きな鏡餅やモチ撒きに放られるモチなど神饌が並べられた。

祓えの儀、祝詞奏上など出発の儀式を終えた一行は多坐弥志理都比古(おおにますみしりつひこ)神社の宮司を先頭に歩き出した。

神饌をもつ自治会長や年禦たち。

その後方に並んだ男たちは蛇綱を掴んでいる。

人数が多いわけだから綱の姿は見えにくい。



カセットテープが囃す伊勢音頭の唄に合わせたいものだが酒が入った男たちはあっちへヨレヨレ、こっちへヨレヨレ。

先頭を行く人たちは力がこめられて少しずつ進んでいく。

先を行った宮司や役員たちとは距離が徐々に離れていく。

それもそのはず綱は後ずさりもしていたのだ。

行ったり戻ったりでなかなか進まない。

鳥居付近まで来たらズルズルーと後ろへ下がった。

時間をかけて神社にあがるのがしきたりなんだという。

蛇綱は鳥居横にある大きなケヤキの幹に巻き付けられる。

弊が取り付けられている蛇綱。

ケヤキに巻き付ける行為といいノガミの一種とも想定できるが明解な答えは持ち合わせてはいない。



綱掛けを終えると神社で五穀豊穣を願って神事が行われた。

そのころにはお綱のお渡りに付いてきた婦人や子供たちが境内に集まってきた。

中央に櫓を立ててそこから投げられるモチ撒き。

昔には拝殿の屋根から投げていたという。



その拝殿にはたくさんの絵馬が掛けられている。

それは宮参りをしたときに奉納されたものだ。

その子が成人するまで掲げられているそうだ。

多神社で焼き納めをする希望者は少なくなったとはいえ処狭しに掲げられている。

その子供たちが手に入れたモチは袋いっぱいになった。

昨年は雨天のお綱祭でたいへんだった。

今年はモチ撒きを終えた直後に降りだした。

なんとかもったようでその後はほん降りになった。

(H23. 3. 6 EOS40D撮影)