マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

苣原・コロナ禍の年中行事は・・

2022年11月07日 22時22分15秒 | 天理市へ
強風に煽られる冷たい風の日。

途中に立ち寄って確認した天理市苣原(ちしゃはら)。

なにかと年中行事を撮らせてもらった地域である。

確認したかったのは、このコロナ禍の状況である。

村の掲示板に記している年中行事。

神社やお寺さんの行事でなく、講とか地域集会もある。

拝見した日程は、1月末までの行事日程である。記載のタイミングは、月末と月半ば。

地域は回覧も廻されているが、日々見ることもあるらしく、重宝している掲示板。

これほど緻密にされている地域は、多くない。

1月1日の元日はともかく、気にしていた年中行事に5日のケイチンがある。

場は元西福寺とされる大念寺本堂。

参集する人らは宮本さん。

平成21年1月5日の取材に平成25年も訪れていた。

以前は11日だったが、今は9日にしているオコナイ(※担昇)は、苣原惣社九頭神社で行われる。

この行事も、また宮本衆とも呼ばれる宮座十一人衆の方たち。

寺行事のケイチンも神社行事のオコナイも、一年の初めに村の安寧を願って祈願する初祈祷行事。

日程は、離れているが神仏習合の行事である。

成人の日の祭日はとんど焼き。

23日は日待講の行事をされているそうだが、未だに取材の日程機会がとれていない。

(R2.12.30 SB805SH撮影)

天理九条・横広の猪子調査

2022年09月18日 06時56分27秒 | 天理市へ
なにをキーにネット検索したのか、さっぱり記憶のない頁が表示された。

それは天理観光ガイド・天理観光協会が、アップしていた「町名の由来」だった。

たまたま出力した民俗の情報に興味をそそられた。

在地は天理の九条の地。

現在表記が、天理市九条町。

元々の検索キーは、地区横広。

旧村に違いないのだが、現在の行政表記には現れない。

調べたい地区は横広。

九条・横広・筑紫の三つの小村(垣内)を集約されて九条町になったそうだ。

ここら辺りは、興福寺領。

かつては荘園の九条庄であった、とある。

出典は、取材にお世話になった天理市杣之内町の住民であるNさんたちが地区で行われている年中行事を調査し、報告書に仕立てた。

最終段階ではないが、集められた年中行事を整備した『(仮)天理市の歳時記』リスト。

頁を繰ったある記事に目が点になった。

行事名は「猪子(いのこ)」。

行事地が天理市横広だった。

その横広に「藁で“デン棒”を作り、各家を叩いて回る/出産・結婚・新築などがあった家には最後に“デン棒”を振り回して祝う/祝い事がなかった年は最後に区長家で暴れる」と、ある。

所作からして、奈良県内の多くの地域で行われていたイノコ行事である。

稲刈りを終えて収穫した新米。

籾を落とした稲藁はさまざまな用途に再利用する。

その稲わらを束つくり。

やや固さをもった稲わら。

民俗語彙では、藁づとと呼ぶことが多いが、地域によって名称は多様である。

奈良県内に今も行われている地域は、大淀町・上比曽のイノコ明日香村下平田のイノコ

平成29年が、最後になった高取町の佐田森地区

呼称のデンボのこともあるが、地面を打ちながら囃すイノコ詞章が大いに妙味をもち、類似例探しにはるばる大阪の南部・北部の調査にでかけたことも。

また、京都南部では、行事名は異なるが、所作が同じ。

詞章も調べたくて訪れた地域の調査。

ある程度の情報が集まったので、イノコモチとの関係はどうなんだ、と思ってまとめた「イノコ行事とイノコモチ

「イノコ行事とイノコモチ」をまとめてから、早や8年。

歳時記にヒントが見つかった。

歳時記記事以外の手がかりは、ない。

所在地さえ存じていない横広。的が外れている可能性もあるが、現地目指して車を走らせた。

思い立った時間が午後だった。

暗くなるまでに到着したい横広(よこびろ)。



集落の位置、建物など風情を感じさせる狭い路に入ってしまった。

南から入って北へ抜けたそこは田園の地。

稲刈りを終えた田畑が広がる。

東西を通す水路近くでひと休みされた1人の男性。

ご高齢な方なら、猪子(いのこ)行事をご存じかもしれない。

そう、思って声をかけた男性は、昭和5年生まれの91歳。

毎日が散歩だ、というHさんに伺った。

猪子(いのこ)か、懐かしいな、というHさん。

少子化の時代、およそ15年前まではしていたそうだ。

「いのこのよさり」と、囃していた子供の行事。

ここ横広の集落。各家を巡り、”デンボ”の名がある藁棒を、地面に向けて打っていた。

大昔は、男の子だけの行事だったが、最後の方には男児に女児もいっしょになって巡っていた。

対象年齢は、小学1年生から6年生までの子どもたちが、「ねーちゃん おきてるけ」、と囃しながら歩いていた。

”デンボ”は、お嫁さんをもらった家の庭を打っていた。(※天理歳時記によれば、結婚に出産。新築建てた祝いごとのある家)

Hさんが、記憶に残る昭和24、5年のころの子どもの人数。

「えろう おった」というくらいに多かった。

私がまだ生まれてもいない時代の子どもたち。

年齢的にいえば、いわゆる戦後生まれの団塊の世代の子たちである。

「ちんこい家やったけど、今は大きなった」横広の集落。

農家の家ばかりだった、という。

昭和36年に発生、9月16日に再度上陸した第二室戸台風

倒木、家屋が飛ばされるなどの被害は大きかった。

自然に向かい合って暮らしてきた農業従事に50年。

今は、こうして毎日が散歩だと、腰をあげたHさん。



杖代わりにしているプラボックスを載せた車を押して、北の方角にむけてとことこ歩いて行った。

田園地に西から東に流れる煙。



そう、稲刈りを終えたその地に、籾殻を燃やしてつくる燻炭。

この時季の風情にシャッターを押したくなる燻炭焼き情景である。

西を向いたそこの稲刈りをした地。遠くに見える藁干し。



その向こうに見える山は、葛城山系。

そろそろ太陽が、西に落ちる。

すぐ横にあった雑木林の下におられた二人の男性。



一人は横広に住まいするHさん。

もう一人は、北方の天理市井戸堂に住むTさん。

昭和13年生まれの80歳。

気が合うのか、ときおりこの場に立ち寄って会話を楽しんでいるようだ。

この地は、帰宅してからわかった九条町・横広の野神の地である。



大樹の下にある石塔は、建造が江戸時代を想定される宝篋印塔。

「この村に財産家がおってな、その人の墓かも・・・」と、いわれている。

Tさんは、元区長。

かつては、筑紫に九条も百軒の村だった。

明治時代の初めのころに九条から出た家々が横広の地に移ったようだ。

九条から見れば、横広は九条の出垣内。

奈良県内には、そういった出垣内は少なくない。

九条町に共同墓地は3カ所。

九条・横広・筑紫それぞれの垣内の墓地がある。

ちなみにTさんもまた、猪子(いのこ)は、15年ほど前までしていた、という。

最後の年の「いのこのよさり」は、5人で回っていた。

最後の年やから、といって思い切り、力を込めて”デンボ”を打っていた、という。

今の子たちは、おそらく猪子(いのこを知らずに育ってきただろう。

二人が会話していた野神の地を自転車が駆けぬけていく。



丹波市境界辺りにある九条池で釣っていた釣竿のバスフイッシングロッドを自転車に挿して走っていった少年たち。

帰宅の道は南の方面。

横広の子どもたちであろうか。



子供たちを見送った二人。

そこそこ迫ってきた夕刻の時間帯。



Tさんは自転車に跨ってきた道を戻っていった。

逆向きのHさんもまたもと来た道を帰っていく。



見送った私も、お家へ帰ろう。

頭に浮かんだカレーの香りが漂い、お家へ帰ろうのコマーシャルソング♪が流れた。

(R2.11. 3 EOS7D撮影)

天理・楊本郷の田園を眺望

2022年07月17日 07時12分34秒 | 天理市へ
「嫁はんの実家の稲作手伝いにきている」と話す男性。

周囲を眺めて、今年は豊作の稲穂・・・・、それとも稲の葉鞘に卵を産み付け、生まれた幼虫が根元を枯らす大量ウンカの動きを見ていたのだろうか。

「だったら、明日は予定より早めて稲刈りせなあかんな」、と呟いた・・・・と、思う。

(R2. 9.27 EOS7D撮影)

柳本町・伊射奈岐神社の綱掛祭に御田植祭の護符調査

2022年07月16日 08時31分36秒 | 天理市へ
天理市柳本町・伊射奈岐神社の栞に年中行事が書いてあった。

中でも気になったのは9月下旬に綱掛祭である。

「往年の注連縄神事は、宮司宅で注連縄を製作して鳥居にかける」と、あった。

下旬であればたぶんに日曜日と判断して出かけた。

今年の1月13日、御田植祭行事の取材に訪れていた伊射奈岐神社。

手水舎手前に架かる橋がある。

ほとんど舗道と区別ない状況につい見逃してしまう、神社に向かう橋は「天神橋」。

伊射奈岐神社は、かつて“楊本の天満社“であった。

天神信仰の隆盛する時代。

『大乗院寺社雑事記』の寛正二年(1461)の記録によれば、中世楊本郷の信仰中心であった”天満社“と書いている。

手水舎右の石段を登って鳥居を潜れば西向きの本社殿が見える。

その鳥居にある注連縄は月日の経過を感じる朽ちる前の状態。

で、あれば、まだ注連縄の架け替えはしていない。

社務所に立ち寄ってみるが、扉は締まって不在。

社務所右隣のお家。

呼び鈴を押して出てこられたK宮司に尋ねた綱掛祭の件である。

これまでは氏子ら有志が社務所で、稲わらを結って注連縄を作っていた。

稲わらはたぶんにモチ藁であろう。

作った注連縄をかける時間帯は夜中。

なんでも人に見られてはならん、と人目を避けてかけていたそうだ。

神事ごとの綱掛祭は、秋の祭り前に新しくかけ直していたが、作っていた人たちが高齢化。

材のモチ藁は生産もしなくなり、入手は困難な時代になっていた。

そういうことで、3年前より地元業者に依頼して作ってもらうようにした。

以前は、4房の下がりであったが、今は3房。

藁束をひっくり返すようにして作っていた房さがりである。

かける場は、西、東の鳥居の他に社務所、末社の稲荷社の鳥居に拝殿や本殿前の鳥居にもかける。

今から頼んでおいて、業者に作ってもらった注連縄ができあがるのは年末。

今は大晦に行なわれる大晦日祭に時期を移したそうだ。

本日に撮った西の鳥居の注連縄が朽ちているが、拝殿や社務所の注連縄はまだまだ新しいように見える。

その理由は天日や雨風など自然の猛威にからしのぎやすい場所であるか、それともまともに当たる位置に晒されている場だから多いか、否かの違いである。

また、神社より下った天理街道、つまり古代の往路である上ツ道と交差する辻にも鳥居があったそうだ。

宮司が赴任する前のころ。

およそ40年前には建っていた鳥居。

車の往来も増えてきた時代の道路拡張工事が持ち上がり、それをきっかけに鳥居を降ろした。

当時の鳥居の柱を載せる台(※礎石、沓石とも)の石は二分割して、遺したという。



それが宮司家のカド、左右に置いてあった。

撮影の了解をいただいて撮らせてもらった鳥居の台石。



文様でわかったが、話を聞いてなければ見落としそうなくらいに、その場に馴染んでいた。

ところで、宮司さんに伺うもう1件。

1月の御田植祭は拝見したものの、肝心かなめの松苗のことである。

豊作を願って奉ると思っていた松苗は見ることがなかった。

その松苗について教えを乞うた。

実は、現在の御田植祭には松苗はなく、護符にしている、という。

当日、はっきりは見えなかったアレが護符だった。

以前は、山から伐り出した松の葉を集め、束にした模擬苗の松苗を作っていた。

山に行っても松が見つからない時代。

材がなければ松苗は作れない。

業者から松を購入する手段にはいかず、祈祷するのは護符だけにしたという。

柳本百選」に載せていた写真に松苗がないのは、そういう事情があったからだ。

その護符を農家の人たちはどのようにしているのか存知ないようだ。

柳本もてなしのまちづくり会が調査し、纏めた「柳本百選」は、ネットに公開されている。

柳本の場合は、苗代つくりのときではなく、“苗代締め”に護符を立てる。

掲載している映像では、田植えもとうに終えて稲がすくすく成長している時季。

「苗代の隅に五穀豊穣のお札と、花、紙袋の中にお米を入れて置く。これを“苗代締め”と云って、今年も無事にお米が獲れますように、田んぼの神さんに祈りを捧げる風習」と書いてあった。

護符にある願文を読めば「祷 天地神 苗代為千穐”アキ“齢 柳本町 伊射奈岐神社」。

この護符は、成人の日に同神社の御田植祭で祈祷されたのち農家に配られ、6月の”苗代締め“に立てるようだ。

奈良平たん部は6月初めころが田植えの時季。

田植えをはじめるまでの育苗は苗代が場。

苗床から移した苗箱すべてを運び出して、田植えを終えた段階で苗代の役目を終える。

苗床は壊して、田んぼにして稲を植える。そのことが”苗代締め“である。

今年の5月31日、奈良市押熊町で田植えのすべてを終えた田主さんのSさんは、苗代に立てていた祈祷札を倒し、さらに苗床もすべて浚えて、余った苗を植えるために耕作地に戻した。

つまりは柳本と同じ考え方の田植え終わりに行なう苗代締め。

また、明日香村上(かむら)に農業を営むF家もまた同じようにしていた、田植え終わりのナワシロジマイ(※苗代締め)であった。

そろそろ稔りの時季がやってくる盆地平たん部。

稲刈りはだいたいが10月中。

田んぼの状況を見ていた男性に声をかけた。

男性が住まいする地域は桜井市。

ここ柳本で稲の耕作をしているのは奥さんの実家の関係。

行事ごとはわからないが、イロバナを立てる光景は見たことがある、という。

聞き取り取材は、ここまで。宮司から聞き取っていた記事のメモを車中でとっていたときである。

若い女性が、天神橋辺りに立ってスマホを見ていた。

参拝者のような雰囲気でもない。

そこへ自転車でやってきた壮年女性。

どうやら落ち合っていたようだ。

二人は手水で清めて神社へ向かっていった。

伺えた様相から参拝者と判断した。



西の鳥居から拝見していた2人の行動は、まさに参拝。

拝殿から手を合わせた本殿。

次に厳島神社、大山祇神社、八坂神社に稲荷神社も参っていた2人。

氏子さんなら御田植祭の松苗も存じていると判断してお声をかけた。

2人は母娘。願掛けに清酒一本を捧げてお願いしていた、という。



以前に見た御田植祭にあったソレは杉葉だったか、それとも松葉であった。

曖昧な記憶だが葉っぱを集めた形だったが、すいぶん前のこと。

モミオトシをした苗代田にあった、という。

うちが農家ではないから、ソレを受け取ることはなかったが、配っていたお伊勢さんのお札は神棚に立てていたようだ。

ここではないが、この娘が小さいころ、田原本町の鏡作神社で田植えの真似事とか、牛面を被って暴れている祭りを見に連れて行っていた、という。

母親の生家は農家。

おじいちゃん、おばあちゃんが農作業をしていた。

私が子どものころの記憶である。

尖った鉄の歯が並んでいた農具に、刈った稲穂を手にして脱穀していた。

名前は知らないその農具は固定していたが、やがて回転する形になった。

揃えた稲穂を、ドラムのように回転するその道具に突き出したら籾がいっぱい獲れた。

その後、その回転式農具は電動式になった。

便利な時代になったと思った。

ハンドルをぐるぐる廻して籾殻を吹き飛ばす唐箕もあった。

当時、使用していた農具はいっぱいあったが、いつしか無用の道具になった。

欲しい人がおれば、あげたらと云われたが・・・。

話題は苗代の護符に戻して、もう一度尋ねたら、最近のことを話してくれた。

住宅地も多いが、柳本駅辺りとか、リカーショップの「やまや」辺りには稲の耕作地がいっぱいある。

その辺りで見た護符は、長めの木材。

まるで割り箸のような支柱に挟んでいた護符を見かけたことがある、と・・・。

私が知りたかった、まさにソレである。

時季は不明であるが、前述したように田植えの時季である。

その1カ月前のGW期間のころも含めて柳本界隈の耕作地を巡回してみるか。

(R2. 9.27 SB805SH撮影)
(R2. 9.27 EOS7D撮影)

福住町中定・十輪寺の地蔵盆

2022年06月07日 07時35分50秒 | 天理市へ
長谷町から南に向かう。

峠を越えたそこは天理市山田町。

そこから西へ車を走らせると同市の福住町に着く。

目的地は中定(なかさだ)の十輪寺。

カーナビゲーションには表示されない寺院を探して集落を動く。

立ち話をされていた二人の男性に尋ねたら、ここがそうだという。

天理市杣之内町に住むN氏が編集の一員としてまとめた『天理市の歳時記』の控えが手元にある。

平成22~23年度・天理市社会教育委員会(生涯学習・人権部会)が編集した史料(仮版)である。

興味をもった中定の8月の地域行事がある。

記事に「無縁仏、水子供養。昔は奉納盆踊りをしていた中定・十輪寺の地蔵盆に、野菜を人形などの形にして供える」とあった。

注釈に「上入田の飾りは見事である」とある。

また「井之市は、現在も盆踊りをされている」とあった。

日程も時間も記されていない歳時記史料。

聞き取りができれば御の字と思って出かけたら、今日だという宮総代他男性2名が教えてくださった中定の地蔵盆。

法要に来られるお寺さんの都合で、この日は午後になるという。

樹木の下、風が吹きく抜ける本堂前に佇んでいた3人。

本堂に掛図をかけているから撮っても構わない、と承諾してくださった。



かつては本堂前境内で盆踊りをしていた。

隣村の井之市もしていた盆踊り。

つい最近の2~3年前に中断したそうだ。

明日24日は、隣村の南田(みのだ)が盆踊りをするそうだ。

今日は村の地蔵盆であるが、掛図の虫干しも兼ねている、という。

表具し直した掛図は何幅あるのだろうか。

本堂すべての壁面にかけていた。



ざっと数えた仏画が8幅。

代々の僧侶だと思われる座像も8幅。

他にも5幅の曼荼羅図が。

ずらりとかけていたその景観に圧倒される。

後日に判明した掛図。

FBに揚げた映像を見てくださったMさんが伝えてくれた「真言八祖」。

聞くのも初めての「真言八相」。

Mさんは、数年前に高野山大学に入山。

得度した仏僧でもあるだけにその道に詳しい。

8幅の映像を見るだけで、言い当てることができる得意分野であろう。

ネット調べに、さらにわかった「真言八祖」。

付法(ふほう)の八祖と伝持(でんじ)の八祖の二つがあり、真言宗のほとんどの寺院は、真言八祖(※伝持の八祖像/龍猛菩薩“りょうみょう”、龍智菩薩“りゅうち”、金剛智三蔵“こんごうち”、不空三蔵“ふくう”、 善無畏三蔵“ぜんむい”、一行阿闍梨“いちぎょうあじゃり”、恵果和尚“けいか”、弘法大師)掛図を本堂などに掲げる特徴があるそうだ。

曼荼羅図もまた「真言八祖」関係があるようだが、その道に詳しくない不知の身。

ここまで、としておく。

十輪寺の本尊は地蔵菩薩立像。

両脇に立つのは不動明王だ。

掛図下のすべてに長机の御供台が並ぶ。

その前に並べた座布団は20枚。

村の戸数でもある。

さて、野菜のお供えである。

史料注釈にあるように「上入田の飾りは見事である」と書いてあった中定からすぐ近くの上入田(かみにゅうだ)は今もなお継承している「御膳」行事がある。

かつて奈良新聞に載っていた囲み記事。

実は、行事の情報を奈良新聞に伝えたことが発端。

伝えた人物は地元民のOさんだった。

その記事を元に直接取材した日は平成19年9月15日

13年も前のことだ。

2年後の平成21年も取材した上入田の御膳行事は存じている。

Oさんは、ここ中定の十輪寺に安置する仏像などを調べたく、天理大学に依頼した、と区長らが話してくれた。

本日の地蔵盆に供える野菜御供である。

村の人が栽培した野菜を持ち寄り、鬼とか人とか、いろんな形にしていた。

上入田の場合は、法会を終えた野菜御供は寄進した村の人に差し上げているが、中定は受け取っても食べることなく廃棄、また受け取る人もいなくなり、どうせ廃棄するなら、形つくりはしなくともいいだろうと、現在は、採れたての野菜そのものを供える形式に替えた、という。

掛図下に並べた長机。

掛図の数だけ竹製の花立を17本も調える。

時間前、今の時季に咲いているお花に自家栽培の野菜を手にした村の人たちがやってくる。

それぞれが、それぞれの場に野菜を供えて飾っていた。



キュウリ、ナスビ、ピーマン、オクラ、インゲンマメ、プチトマト、ゴーヤ、カボチャ、黄マッカにトマなどの御供を並べて午後の法会を迎える。

予定した時間に集まった村の人は14人。

女性も来られるのだろう、と思っていたが、全員が男性。

中定の戸数は20軒。

家の代表者が集まる地蔵盆である。

かつてはお昼も、夜も集まって、香を焚いて飲食していた“講”(※おそらく地蔵講)の行事だった、という。

お寺さんは融通念仏宗派の西念寺の住職。

平成29年4月23日、西念寺の境内に久々に、というか地元有志のMさんが立ち上がって復活した“おつきようかの花まつり“。

その日にお会いした住職は、以前から存じている大和郡山市横田町が本家の西興寺。

西念寺の他、兼務する寺院は多いという。

そのことはともかく、十輪寺の地蔵盆である。

掛図の位置それぞれに蝋燭を灯し、線香をくゆらせてから始まった村の繁栄を願う荘厳。

「なむあみだーぶつ なむみだぶつ なむじぞうぼさつ なむあみだぶつ」と融通念仏勤行を唱える。



裸電球の下で村の人たちは焼香をしていた。

本尊地蔵菩薩立像に荘厳した次は、外の仏さんにも、ということで本堂を下りたその前の行者堂と庚申さん。

今年は新暦閏年の庚申さん。

本来ならば旧暦の閏年に行なわれるのだが、地域によっては4年に1度、オリンピックの年だからわかりやすいと新暦に替えたところがある。

ここ中定も右に倣えの年内実施。

「庚申為南無青面金剛童子前出垣内町内安全五穀成就依願満足之塔」にもう1本は「奥垣内」の塔婆を立て、祈年していたそうだ。

はて、次の新暦閏年の庚申さん行事はいつされるのだろうか。

新型コロナウイルスを避け1年持ち越し。

何事も起きなければ、来年になるが、庚申講の行事は、それからの3年後。

それとも元に戻して2024年にされるのだろうか。

新暦実施に切り替えた各地域の庚申講は、さて、どうされるのか・・。

そのことはともかく、本日は中定の地蔵盆。



外の仏さんにも花を手向けて村の安全、健康ならびに家庭円満を願われた。

法会を終えた西念寺住職。

つい先日には地蔵盆をしていた。

高野豆腐などで五重の塔を造って供えるし、檀家は御膳もある。

また、来月の9月12日は夕刻に始める歯定(はじょう)さん。

是非と云われたが・・。

ちなみに宮総代らは、この日の朝いちばんに氷室神社に出かけた。

垣内ごとに参拝時間を決めて出向くコオリトリ(垢離取り)をしていたと、いう。

(R2. 8.23 SB805SH撮影)

奈良市東部・杣の川町の地蔵さん

2022年05月17日 08時53分20秒 | 天理市へ
旧都祁村・荻の民家で行われた盆の習俗を拝見して山を下る。

西名阪国道に直接戻ることなく、何気に思ったのか、別ルートを走っていた。

せせらぎの流れる村里の小川沿いにある村道を走った。

懐かしい道のどんつき三差路を左折れ。

南に向かって走っていた、側道下の窪みに赤い涎掛けを見た。

ここは奈良市杣ノ川町の北杣の川。

バス停近くにあった窪みの地蔵さん。

停車した車を降りて手を合わせた。

平成22年8月24日のことである。

窪みに地蔵さんに向かって心経を唱えていた婦人たちのお声をかけて撮らせてもらった地蔵盆。

オヒカリが消えるまでここに居ると話していたことを思い出した。

(R2. 8.14 SB805SH撮影)

南六条町・元栁生の先祖迎え・送り盆の場

2022年05月14日 09時15分33秒 | 天理市へ
ほとんどが傘マークだった前月の7月。

それが1日からずっと毎日が晴れマーク。

多少の雲マークがあった日は、1日、2日、3日。以降、6日だけが快晴。

そして14日からはまたまた快晴マークの連続。

つまり、雨降りの日は一度もなかった。

7月ははっきりいって雨ばかりの月であるが、8月は晴れ、晴れのずっと日照り続きだった。

気温が35度超えの日は、4日、5日、8日、9日。10日なんて38度にも上昇した。

続く35度以上の日は、11日、12日、14日、15日。

尤もその日以外は35度に達してなくともより近い気温に熱中症も比例するかのようにうなぎ上りの発症例。

南六条町の溜池も田んぼに水を引かなきゃならない事態になった。

自治会役員に農業委員どころか、地元農家の人たちが気になっていた水不足。

12日の私は数カ月に一度は診察してもらう循環器内科の診断。

それに加えて消化器内科診察も・・・。

半年に一度は、状況、状態の変化を診るため、MRI検査も追加と相成り。

家路の道中にちょっと立ち寄った天理市南六条町・元栁生の環濠。

久しぶりに訪れて見た環濠集落の景観。



その趣き、風情は、県内各地のなかで最も感じるやすらぎの場だと思っている。

8月13日に、先祖さんを迎え、15日に送る場である。

知人のFさんが、報せてくれた南六条のお盆のあり方。

南六条は、ここ北方に南方も、これまで数多くの村行事を取材、記録してきたが、お盆の風習をされていたとはとは・・・。

(R2. 8.12 SB805SH撮影)

下山田・春日神社の門松飾りに七五三注連縄

2021年09月07日 09時24分57秒 | 天理市へ
村の年頭行事がはじまる元日午後の天理市山田町の下山田。

行事の場は寺本堂。

隣接する春日神社に参拝者の姿。

家族揃っての参拝に孫さんも一緒だ。

手水で清めた次は門松に張った七五三注連縄を潜って神さんに手を合わせる家族。

門松に注連縄を架ける県内事例。

県の東山間地によく見かけるが、これまで意識してなかったものだから写真は撮っていない。

映像を見てもわかるが右がオン松に左はメン松。

稀に違う場合もあるが私が見る範囲では専らこれだ。

中央に竹を配して松に梅。

当地はここに南天も。

地域によってはフクラシの木(ソヨゴ)の場合もある。

その下に葉牡丹。

近年になってから多くの地域で見られる葉牡丹。

12月初めから売り出すDIY店舗。

大小さまざまな葉牡丹がいっぱい並ぶ光景は今や年末商いの風物詩でもある。

(R2. 1. 1 SB805SH撮影)

杣之内町の風の祈祷調査

2021年06月21日 08時42分24秒 | 天理市へ
取材の際に拝見した地域行事資料『天理市の歳時記』。

社会教員の一環に天理市の年中行事を調査、編纂の元資料にあった杣之内町の風の祈祷。

ちら見でしか見なかった風の祈祷は、行事日もわからない、行事日もわからない。

現地調査に訪れた天理市杣之内町。

木堂の信号に気づかずに通り過ぎたもう一つの信号。

三叉路から戻ろうと思ったが、時間的に余裕がある日。

間違いも何かの縁だろう、と判断し、集落を東西に走る里道をぬって移動した。

左手に見えた建物は、杣之内町公民館。

その付近に停めて伺った民家。

お声をかけたら婦人の声が・・。

ここは杣之内町。

神社といえば、近距離にある都祁山口神社がある、という。

その神社を訪ねてくる人は、割合に見かけるそうだ。

実は、行事がいつされているのか、わからないが、風の祈祷行事を調べていると、伝えたら屋内屋敷におられるご主人に・・・。

ここは、杣之内町の東垣内(※・旧山口村)。

生まれ育った当地に、風の祈祷とか風祈祷なんてものは聞いたことがない、という。

東垣内に風の祈祷がない、とわかったが、これも縁だと思って教えてもらった東垣内に鎮座する都祁山口神社を参拝することにした。

ここは、もう一つの神社がある、という。

細い村の道であるが、軽バンなら十分に通れる道。

都祁山口神社の先向こうに弁天さんこと厳島神社がある、と。

その神社は、信号杣之内町南から、東へ。

勾田町から山間地の福住に向かう県道25号線バイパス走行中に見える神社。

通るたびに、気になっていた神社への行き方がやっとわかった。

聞き取りしたY家の了解をいただいて、停めさせてもらった杣之内町公民館の駐車場に。

先に目に入ったのは、たくさんの石仏が並んでいた地蔵堂。

出かける前にお聞きした地蔵堂に寄りあうことは・・。

奥さんの話によれば、中学生の娘がいるが、生まれるころから、各地で行わるような地蔵祭りはなかったそうだ。

ただ、それ以前の時代にはしていたようだ、と・・。

地蔵堂の前の道。

急坂の道を登ったところに都祁山口神社の参道がある。

左曲がりの参道道の先に石の鳥居がある都祁山口神社。

掲げる扁額に文字は不鮮明。

風化による欠損なんだろうか。



都祁山口神社と同名の神社が奈良県内にある。

数々の年中行事や造営事業も取材させてもらったことがある旧都祁村・小山戸に鎮座する都祁山口神社。

参拝する人多いらしく、何人かの参拝ブロガーさんが、訪問記をアップされており、「『延喜式神名帳』にある都祁山口神社(大和国・山辺郡)に比定される式内社。近代社格では村社」とある。

また、歴史文化を学ぶハイカーさんも多く、天理駅から丹波市、上ツ道を経て都祁山口神社、旧内山永久寺跡、石上神宮、天理教本部などを散策しているようだ。

神社参拝を終えて戻った坂道の左手。



石段登った一段高い位置に建つ地蔵堂

お堂の前も、際にも、たくさんある石仏群。



板石仏の双体地蔵もまた数多く並べている。



風化激しく、年代不明の石仏群は、他所から運ばれ、寄せられたように思える。

公民館に停めさせてもらった車に乗り、東に向かう村の道。



ぱっと拓けたそこに数台が停められる神社の駐車場が。

ただ、状況によってはチェーンを張り、利用できない日もあるようだ。

石段を登って参拝した厳島神社。

石灯籠に弁財天女の刻印があることから、通称は弁天さんであろう。

神社社殿も鳥居も真新しい造り。

平成拾五年拾二月六日の刻印があった鳥居でわかる真新しさ。



そういえば、ずいぶん前だが、県道25号線バイパスを走っていたときに見ていた厳島神社は、かすかに私の頭の中に映像が残っている神社。

ネットに過去の厳島神社を探してみたが見つからなかった。

散策した集落は、都祁山口神社にいちばん近い東垣内から西に、中垣内、北垣内、南垣内に西垣内。

また、厳島神社が鎮座する地は、谷垣内。

その他に辻垣内や丹後垣内などの垣内名が小字データベースにあった。

建物の立地位置のほぼ全容はわかったが、年中行事については掴めなかった。

一方、戻った木堂である。

信号を右折れした集落入口付近。

池の前にずらりと並べた石仏地蔵群がある。

設えた屋根下に整然と並べた地蔵石仏群。

中央に地蔵菩薩立像を配し庚申石も観られるここ木堂も、東垣内と同様に石仏を1カ所に寄せたのである。

ところで、小字データベースによれば、池の西角辺りに、小字”神縄”表記があった。

”神縄”は、間違いなく集落入口に、勧請縄をかけていた場である。

”神縄”の位置は2カ所。

1カ所は山手川。別途にあった”カンジ・・”場も、山手側に文字表記がある。

集落の奥側にあった小字”堂ノ東”。

他にも小字”北門外”、”北門”、”大門向”、“大門東”。つまりこれらは、かつてあった旧内山永久寺跡の北門、大門跡に違いない。

明治12年、木堂と都祁山口神社が鎮座する山口(山ノ口)、そして内山永久寺が存在していた3村を合わせた杣之内町

村の入り口は、木堂。

つまり元々は関所のような木戸(城戸)口であったのだろう。

(R1. 9. 7 SB805SH撮影)

柳本町・新町中薬師堂の十二薬師

2020年11月06日 11時21分21秒 | 天理市へ
天理市柳本町・新町中に五智堂が建つ。

東の山麓下にある長岳寺の飛び地境内に建つ五智堂

太く丸い(※上部は角形)心柱構造から傘堂(※傘塔とも)、或いは眞面堂とも呼ばれている建物。

明治41年4月23日に指定された国の重要文化財である。

形態が珍しいことから五智堂を訪れる人たちは多く、ブログに取り上げる数も多い。

その五智堂のすぐ傍、同敷地内に建つ小堂はあまり意識されていないように思う。

私もそのうちの一人であるが、1年に2度の開帳、法要をされていたとは・・。

何のキーワードであったのか、まったく覚えていないが、ネットに引っかかったPDFシートに書かれていた情報で、「薬師さん」の存在を知った。

シートのタイトルは「やまとし美し(※うるはし) 柳本」。

柳本町の略歴史に年中行事や観光施設を案内する観光マップ。

柳本町自治連合会町づくり推進委員会と奈良県地域デザイン課が共同作成したマップは平成27年3月に発行したとある。

さて、そのマップに書いてあった年中行事。

7月8日、7月12日は「薬師さん」。( )表記に「五智堂」とある。

五智堂敷地内に建つ薬師堂で行われる「薬師さん」行事は、柳本もてなしのまちづくり会が調査しまとめた『柳本百選』によれば、「薬師如来の縁日に、長岳寺本堂の薬師如来を五智堂に移して祈願する。200年ほど続けてきた行事である。」、とあった。

どなたが祈祷され、どのような形態であるのか、見聞きしたいと思って出かけた

行先は、五智堂の所在地。

近くにあるお店の人に尋ねてわかったことは、毎年の7月8日と12日は薬師さんの縁日であること。

その日は、たくさんの露店が出店。

子どもたちが大勢やってきて愉しんでいたそうだ。

ところが、行き交う車が増えたことによって、子どもたちが危険に晒される。

安全重視、トラブルに巻き込まれるようなことのないように、という配慮から、夜店には行かないように、と教員指導が出たのは昨年だった。

薬師さんが盗まれてはたいへんなことになるから長岳寺に預かってもらい、8日と12日の両日だけに限って、薬師さんは元のお住いの薬師堂に移し、祈願してもらっている、と話してくれた。

だいたいの時間を推測して訪れた12日。

8日に続く縁日の二日目である。

早めに着いて、長岳寺住職を待っていた。

縁日に露店が数店舗。

聞き取りした店主が話していた通りの寂しい縁日。

子どもたちの安全を見守っていると推定される教職員やPTA役員が立ち止まって状況伺い。

薄暗くなる前に、交通整理員を配置するようだ。

予め、薬師如来座像を移していた薬師堂。

幕を張り、蝋燭を立て、提灯を吊るしていた。



大きな西瓜に黄マッカやトマトの他、パンも盛ったお供えも準備済。

薬師さんの縁日に当番の人が供えていたのであろう。

法要前であろうと手を合わせて姉弟仲良く拝む子たちも居る。



じいちゃん、ばあちゃんに両親の教えがわかる幼い姉弟の作法に思わずシャッターを押した。

そのころにやってこられた長岳寺住職に取材主旨を伝えて法要のあり方などを撮らせていただく。

7月8日と12日は薬師さんの縁日

12日は、十二薬師さん。

12日の“12”は、1200年に亘って薬師如来を守ってきた十二神将にちなんでいるが、8日は八日薬師であるが、8日の“8”は、さて・・・と北川慈照住職が話してくださった代わり身の札。

それが何であるのか聞きそびれた。

あらためて調べたネットの情報によれば、「※薬師如来を信仰し、徳を講讃する“薬師講”法会に由来すると考えられおり、薬師経を百座に分けて、講説し、仏讚歎(さんだん)する」ことのようだ

そういえば、奈良県内に薬師さん行事がたくさんある。

1月8日の初薬師を年初に、当該月の8日、12日。

私の知る範囲であるが、1月8日の八日薬師行事は、★東吉野村木津川・薬師堂の八日薬師、上北山村河合・景徳寺の八日薬師、大和郡山市長安寺町・薬師堂の初祈祷、★平群町久安寺・薬師堂のオコナイ、桜井市三輪・薬師堂の初薬師、田原本町唐古・養福寺の初薬師講、★大和郡山市矢田町・東明寺の薬師祈願会、奈良市高畑・新薬師寺の初薬師、東吉野村小・天照寺薬師堂のオコナイ、五條市中之町・草谷寺の八日講などが。

また、1月12日の★奈良市月ヶ瀬嵩・薬師寺の初薬師講がある。

他にもあるので、参考までに列挙しておく。

3月8日は、奈良市奈良阪町・西福寺の薬師如来祈願会。

花祭りが多くみられる4月8日は、★川上村高原・福源寺の薬師観音大祭、桜井市三輪・薬師堂の八日薬師、高取町清水谷・冷水寺西室院の薬師講の薬師如来祈願会。

5月8日は、★天理市楢町・薬師堂の薬師講法会

7月8日は、天理市楢町・薬師堂の初成りかぼちゃ薬師(※法会なし)、★大和郡山市長安寺町・薬師堂の夏の薬師さん、天理市柳本町新町中・薬師堂の八日薬師。

9月8日は、★奈良市南田原町・南福寺薬師堂の八日薬師さんのイセキ(会式)、桜井市脇本・妙楽寺の薬師会がある。

10月8日、桜井市三輪・薬師堂の八日薬師、奈良市西ノ京・薬師寺天武忌(※十二神将練供養)。

毎月8日に講中が営む田原本町唐古・養福寺の薬師講、大和郡山市豊浦町・薬師堂の薬師講もある。

7月12日に、★奈良市中院町・薬師如来の縁日、★天理市柳本町新町中・薬師堂の十二薬師。

9月12日が、宇陀市大宇陀栗野・十二薬師堂の十二薬師さん、★天理市山田町下山田・薬師寺の薬師さんの六日会式(※地蔵会式と合祭されたが元々は12日)、宇陀市大宇陀本郷・薬師寺の十二薬師、★山添村桐山・薬師堂の薬っさんのボタモチイセキ(会式)、★桜井市瀧倉・薬師堂の薬師さん会式、★奈良市都祁相河・薬師さんの薬師ごもり、桜井市修理枝の薬師さん、★奈良市都祁南之庄・歓楽寺のボタモチ籠り薬師会式、★奈良市都祁藺生町・青龍寺の薬師会式、★桜井市小夫・秀円寺の薬師籠り、奈良市月ヶ瀬嵩・薬師寺の薬師会式。

また、県外であるが、大阪府能勢町天王・長杉寺では「八日薬師のトウ(塔)」がある、と聞いている。

存知しないだけで、他にもたくさんの行事があろうかと思う。

さて、長岳寺住職による十二薬師さんの法要がはじまった。



後ろに就いた参拝者。

親子連れなのか、それとも夜店に来ていた子どもたちなのか・・・。



法要の営みを見ていた子どもの親は別だった。

狙いはりんご飴なのか、冷たい氷。それとも当てもん、いや射的なのか。

ごくごく数店舗になった露店の夜店にあれもこれもという愉しみは多くない。



法要を終えた住職は、しばらくの時間は椅子に座って参拝者を待っていた。

参拝に来られる人もまた少ないが、30分ほど経ったころ。



腰をあげた住職は、東に向かって歩いていった。

これより始まる檀家参り。

お家、1軒ごとに出向いて法要をするという。



檀家さんのお家まではついていくわけにはいかず、しばらくは私も参拝者を待っていたが・・。

(※ ★印は取材・ブログ公開中)

(H30. 7.12 EOS7D撮影)