集落戸数が8軒の新庄町鉾立。
大和郡山市内ではあるが隣村が天理市の上総町寄り。
古代の街道でいえば中ツ道と業平道が交差する地区にある。
鉾立に鎮座する神社はその名も地名を冠にした鉾立神社だ。
かつては太い街道のホコノモリにあったと云う。
その街道が中ツ道。
南へ100mほど下った処だそうだ。
東側には鉾立池がある。
その辺りに元社を示す文久三年(1863)建之の石碑が今でもあると話す今年の当屋にあたったのはI氏。
二反の神田(ジンデン)があったと話す。
当屋の回りは早い。
8年ごとに回ってくる。
「年老いた人ばかりが住んでますんや」と云う。
この日は宵宮。
当屋家を出発した紋付きの和服姿の男性たち8人は御幣持ちを先頭にお渡りしてきた。
先日にM氏からお聞きした時間よりも早めて出発した一行は鳥居を潜って本殿前に並ぶ。
一歩前に出たのが当屋。
I氏の息子さんである。
親父さんは当屋を委ねて息子に裏方につく。
鉾立神社は三社ある。
春日神社と熊野神社も祀っている。
それぞれの神さんの前に立って御幣を左右に振る。
いわゆる奉幣振りの作法なのであろう。
神さんに供えたのは紅白の水引紐で締めた巻き昆布、スルメ、ホウレンソウ、コーヤドーフ(祭りにはタイ、マツタケも)などである。
参ったあとは参籠所で当屋が接待する会食をよばれる男性たち。
御供を下げてお酒をと共に飲食をする。
昆布は大まかに切って直会で食べる。
かつては畑で作ったアゼマメを参拝者に食べて貰っていたそうだ。
マツリの日にはモチを搗いていた。
モチはアンコロモチにして親戚筋に配っていたと話す。
今ではパック詰め料理で会食する宵宮の籠り。
陽が落ちる頃には鳥居に掲げた提灯に火を灯す。
その頃には村の人たちがやってきた。
予めに掲げていた各家の提灯に火を灯す。
提灯は御神燈。
それぞれの家の家紋がみられる。
当主の名もあるから我が家の提灯。
それを確認してローソクに火を灯す。
丸に立ちオモダカ(沢瀉)紋、丸に梅鉢紋、丸に三つ割りかたばみ(片喰)紋、丸に剣かたばみ(片喰)紋、丸に四方剣かたばみ(片喰)紋などがみられた提灯灯し。
立ち話を済ませて村へ戻っていくが宵宮の籠りは以降も続く。
I氏が話す鉾立の行事。
8軒の祭りの営みは今月1日がツイタチ座。
おそらく朔座をいうのであろう。
明日は秋祭りでお渡りに孫が担ぐ稲担ぎ。
前当屋にアト当屋も参列するお渡りに扇を三つ括った日の丸御幣は当屋が持つ。
御幣には青と白色の2枚重ねの幣だそうだ。
その話を聞いて思い出した。
新庄町の本村に鎮座する素盞嗚神社。
そこでも御幣を持つお渡りがある。
トーヤ(当舎)が持つ御幣と同じであった紺と白の混色であった。
衣装は烏帽子を被ってソウを着る。
氏子たちは和服姿だそうだ。
祭りを済ませば次の当屋が受ける当屋受けもある。
宵宮に先だってM氏が話していた大晦日の行事。
I氏も同じようなことを話す。
それは特に砂撒きとは云っていない。
神さんが通る砂の道だと話していた。
鉾立神社の東側には地蔵寺がある。
真言のお寺であるが無住寺。
檀家をもつ寺ではないが、7月23日には鉾立の住民が清掃をしている。
その日に行われる地蔵会式があるからだという。
そこで会式を勤めるのは小林町の新福寺住職。
法要をするそうだ。
後日に伺ったお寺。
その通りだと話していた。
大日講もあるという地蔵寺。
毎月15日がお勤めの日。
おばはん講と呼ばれる婦人たちが寄りあう。
都合でその日の前後になるらしい。
昼食を食べてから集まる講はキリコ餅も供えていたようだ。
(H24.10. 6 EOS40D撮影)
大和郡山市内ではあるが隣村が天理市の上総町寄り。
古代の街道でいえば中ツ道と業平道が交差する地区にある。
鉾立に鎮座する神社はその名も地名を冠にした鉾立神社だ。
かつては太い街道のホコノモリにあったと云う。
その街道が中ツ道。
南へ100mほど下った処だそうだ。
東側には鉾立池がある。
その辺りに元社を示す文久三年(1863)建之の石碑が今でもあると話す今年の当屋にあたったのはI氏。
二反の神田(ジンデン)があったと話す。
当屋の回りは早い。
8年ごとに回ってくる。
「年老いた人ばかりが住んでますんや」と云う。
この日は宵宮。
当屋家を出発した紋付きの和服姿の男性たち8人は御幣持ちを先頭にお渡りしてきた。
先日にM氏からお聞きした時間よりも早めて出発した一行は鳥居を潜って本殿前に並ぶ。
一歩前に出たのが当屋。
I氏の息子さんである。
親父さんは当屋を委ねて息子に裏方につく。
鉾立神社は三社ある。
春日神社と熊野神社も祀っている。
それぞれの神さんの前に立って御幣を左右に振る。
いわゆる奉幣振りの作法なのであろう。
神さんに供えたのは紅白の水引紐で締めた巻き昆布、スルメ、ホウレンソウ、コーヤドーフ(祭りにはタイ、マツタケも)などである。
参ったあとは参籠所で当屋が接待する会食をよばれる男性たち。
御供を下げてお酒をと共に飲食をする。
昆布は大まかに切って直会で食べる。
かつては畑で作ったアゼマメを参拝者に食べて貰っていたそうだ。
マツリの日にはモチを搗いていた。
モチはアンコロモチにして親戚筋に配っていたと話す。
今ではパック詰め料理で会食する宵宮の籠り。
陽が落ちる頃には鳥居に掲げた提灯に火を灯す。
その頃には村の人たちがやってきた。
予めに掲げていた各家の提灯に火を灯す。
提灯は御神燈。
それぞれの家の家紋がみられる。
当主の名もあるから我が家の提灯。
それを確認してローソクに火を灯す。
丸に立ちオモダカ(沢瀉)紋、丸に梅鉢紋、丸に三つ割りかたばみ(片喰)紋、丸に剣かたばみ(片喰)紋、丸に四方剣かたばみ(片喰)紋などがみられた提灯灯し。
立ち話を済ませて村へ戻っていくが宵宮の籠りは以降も続く。
I氏が話す鉾立の行事。
8軒の祭りの営みは今月1日がツイタチ座。
おそらく朔座をいうのであろう。
明日は秋祭りでお渡りに孫が担ぐ稲担ぎ。
前当屋にアト当屋も参列するお渡りに扇を三つ括った日の丸御幣は当屋が持つ。
御幣には青と白色の2枚重ねの幣だそうだ。
その話を聞いて思い出した。
新庄町の本村に鎮座する素盞嗚神社。
そこでも御幣を持つお渡りがある。
トーヤ(当舎)が持つ御幣と同じであった紺と白の混色であった。
衣装は烏帽子を被ってソウを着る。
氏子たちは和服姿だそうだ。
祭りを済ませば次の当屋が受ける当屋受けもある。
宵宮に先だってM氏が話していた大晦日の行事。
I氏も同じようなことを話す。
それは特に砂撒きとは云っていない。
神さんが通る砂の道だと話していた。
鉾立神社の東側には地蔵寺がある。
真言のお寺であるが無住寺。
檀家をもつ寺ではないが、7月23日には鉾立の住民が清掃をしている。
その日に行われる地蔵会式があるからだという。
そこで会式を勤めるのは小林町の新福寺住職。
法要をするそうだ。
後日に伺ったお寺。
その通りだと話していた。
大日講もあるという地蔵寺。
毎月15日がお勤めの日。
おばはん講と呼ばれる婦人たちが寄りあう。
都合でその日の前後になるらしい。
昼食を食べてから集まる講はキリコ餅も供えていたようだ。
(H24.10. 6 EOS40D撮影)