白い顔の能面は買ってきたという人もいる。
30年も前から勤めている八条町の宮司の話によれば古い翁の面の他に能面もあったという。
小林町の隣町の今国府町に住む人が見つけた天からの贈り物は翁の面。
天から降ってきたとされる耕地は小林町の田園。
翁面が降ったとされる面塚と呼ばれる地は小高い墳丘のようだ。
翁の面を見つけた今国府町。
面塚の所在地は小林町。
両町に関係する翁の面は天保三年(1832)に両村それぞれに鎮座する杵築神社の宮座で共有することになったと伝えられている。
古い面相は目、鼻、口に特徴があり福々しいお顔の翁の面。
春日神社の若宮おん祭や興福寺薪能で翁猿楽を演じてきた長命家<ちょうめいけ>伝来の翁面だそうだ。
長命茂兵衛旧蔵文書が三点。
寛政元年(1789)七月「差入申一札之事」、寛政元年七月「覚」、天保四年(1833)八月「義定証文之事」があり、面とともに平成7年3月に奈良県の文化財に指定されている。
今国府のお渡りは昨日だった。
かつては10月10日だったが現在は体育の日の前日。
それを終えれば翁の面は小林町に戻ってくる。
届けられたとも、受け取りにいったとも云うが目撃した人がいないから真相は不明だ。
それはともかく翁の面は白い面相の能面とともに並べている。
お渡りが始まる前は会所にある。
箱から取り出して上に置いた。
今国府町では翁の面を着装してお渡りをしているが、小林町では面を着けることなく箱の上に乗せて抱えながら歩く。
左座の人が持つのが翁の面で右座は能面だ。
納めてあった箱はさほど古くない。
時代的には近年と思われる作風である。
マツリを終えた後日に左座の一老が話した能面の件。
右座の長老が左座の持つ翁の面に対して右座も恰好をつけて所有したいと願って買ったのが能面だったという。
昭和の時代に村で買ったと伝わっているようだ。
さて、小林町のマツリが始まった。
杵築神社へ向かうお渡りである。
かつてはゴクツキから始まる10月14日、15日、16日の三日間だった。
その間に翁の面を手渡していたと一老は話す。
いつしか時が流れてマツリの日が変わった。
昭和41年に施行された体育の日である。
それに伴って8日、9日、10日になった。
今国府町のお渡りを取材した平成17年は10月9日だった。
そのときに聞いた話では翁の面は両町で毎年交互に使いあっていたと聞いた覚えがある。
平成12年にハッピーマンデーが施行されて体育の日は月曜日に移った。
今年はといえば今国府が昨日。
小林はこの日。
一日違いである。
今国府のマツリを終えた翁の面は小林に渡された。

それが小林の公民館で拝見した翁の面である。
マツリが行われた年代によって翁の面のあり方が違っていたのである。
それはともかくお渡りが始まった小林のマツリ。

先頭を担う人はサカキの葉を水につけながら左右に撒きながら歩く。
「祓いたまえ、清めたまえ」と声を上げながら歩む。
椎木町のお渡りと同じように神さんが通る道を祓い清めていると思われるツユハライの作法。
次に大御幣を抱えて歩く人。
神主が随行する。
神さんのサカキを持つ左座、右座のトーヤ(当屋)が続く。
その次が面を持つ人だ。
左座は翁の面で右座が能面である。
その次はヤナギの木と根付き稲を持つ人。
お神酒を持つ人に続いて白装束のソウ(素襖)を身につけた一、二の三老。
そして氏子たちが続く行列だ。
公民館からそれほど遠くない杵築神社。
数分で到着する。
お渡りを勤める人は神さんのサカキを持つトーヤ(当屋)は決まっているが、ツユハライ、御幣持ち、面抱えなどの人たちに決まりはない。
誰でも構わないとHさんは話す。
一の鳥居を潜る前に立ち止ったお渡りの行列。
ここで一旦止まって左座、右座の列は入れ替わるのであったが、この年は入れ替わることはなかった。
本来は右座、左座の列なのであるが、出発する段階から左座、右座の行列になっていたわけだ。
拝殿に入る直前の様子を捉えた。

手前が左座で翁の面を抱えながら歩くHさん。
向こう側が能面を抱える右座の人だ。
納めていた箱に乗せてお渡りをしてきた。
箱の外観をみれば一目瞭然。
翁のほうは古く、能面は新しい。
時代年月は明らかに異なる。
拝殿の前には布団太鼓がある。
小林町では大太鼓と呼ばれている太鼓台だ。

かつてはこの場で翁面を被った男性が舞っていたという。
烏帽子を被った翁は祭典を終えてから蓆の上で舞っていた。
衣装は自前だったそうだ。
一老の話によれば城下町郡山の矢田筋に住んでいた雑貨屋の主人だったそうだ。
子供の頃に舞っていたのを見ていた一老。
主人が亡くなる直前まで舞っていたというからおよそ70年以上も前。
昭和20年辺り。
戦前、戦中、或いは戦後間もない頃であろうか。
当時は翁舞が行われていたという記憶である。
その件は小林町で生まれ育った尼講の一人も記憶していた。
当時の翁面は白い髭が長くて掴めるほどの長さだったそうだ。
子供らはそれを見て怖がっていた。
幼稚園、或いは保育園児だった頃の思い出は「怖かっても見たかった」そうだ。

神事を終えれば氏子たちが両拝殿の中央に並ぶ。
左座、右座に分かれて列を組む。
先頭に立つのは現当屋。
御幣を三回左右に振る。
そして揃って唱和。
「ホーイ」と声を上げながら上方に手を大きく揚げる。
まるでバンザイをしているように見える。

「ホーイ」はトリオイと呼ぶ作法。
実った稲に集まってくるスズメを追いやる作法だと話す宮司。
次に右座の当屋も作法をする。
そうして役目を終える。
次に登場したのが新当屋。
同じように御幣を振れば、揃って「ホーイ」を発声。
左座の新当屋もその作法をする。
次の当屋に受け渡された儀式である。
その作法を拝見して思い出したのが馬司町杵築神社の秋祭りである。
お渡り道中の際に一老が発声する「オォーーー」の掛け声に合わして後続の人たちが揃って「オォー」と発声する。
これを「トリオイの唄」だと云っていた。
鳥を追うように発声するから「トリオイの唄」だと云うのである。
小林町の「トリオイ」を見て感じた馬司町の「オォーーー」。
もしかとすればだが、「ホォーイ」の「ホ」を発音されることなく「オー」だけになったのではないだろうか。
さらに思い出したのが奈良豆比古神社のスモウの作法の際に発声される力士の「ホォーオイッ」である。
翁舞で名高い神社の祭りは宵宮。
翌日の例祭の夜に行われているスモウである。
ここで聞いた話では、稲穂が実って「ホォーオイッ」と掛け声をする。
つまり、穂が多いということである。
これら三つの事例は掛け声が違っているように思えるが同じであったかも知れない。
実りの稲は穂が多い。
豊作を祝った唄ではないだろうか。
小林町の伝聞「トリオイ」、馬司町の「トリオイの唄」。
奈良豆比古神社のスモウの掛け声。
鳥を追うトリオイの発声はホーイ・・・ホーオイ・・・穂追い・・・オーィ。
小林町の「ホーイ」と同様にすべてがトリオイではなかろうか・・・と思ったのである。
(H24.10. 8 EOS40D撮影)
30年も前から勤めている八条町の宮司の話によれば古い翁の面の他に能面もあったという。
小林町の隣町の今国府町に住む人が見つけた天からの贈り物は翁の面。
天から降ってきたとされる耕地は小林町の田園。
翁面が降ったとされる面塚と呼ばれる地は小高い墳丘のようだ。
翁の面を見つけた今国府町。
面塚の所在地は小林町。
両町に関係する翁の面は天保三年(1832)に両村それぞれに鎮座する杵築神社の宮座で共有することになったと伝えられている。
古い面相は目、鼻、口に特徴があり福々しいお顔の翁の面。
春日神社の若宮おん祭や興福寺薪能で翁猿楽を演じてきた長命家<ちょうめいけ>伝来の翁面だそうだ。
長命茂兵衛旧蔵文書が三点。
寛政元年(1789)七月「差入申一札之事」、寛政元年七月「覚」、天保四年(1833)八月「義定証文之事」があり、面とともに平成7年3月に奈良県の文化財に指定されている。
今国府のお渡りは昨日だった。
かつては10月10日だったが現在は体育の日の前日。
それを終えれば翁の面は小林町に戻ってくる。
届けられたとも、受け取りにいったとも云うが目撃した人がいないから真相は不明だ。
それはともかく翁の面は白い面相の能面とともに並べている。
お渡りが始まる前は会所にある。
箱から取り出して上に置いた。
今国府町では翁の面を着装してお渡りをしているが、小林町では面を着けることなく箱の上に乗せて抱えながら歩く。
左座の人が持つのが翁の面で右座は能面だ。
納めてあった箱はさほど古くない。
時代的には近年と思われる作風である。
マツリを終えた後日に左座の一老が話した能面の件。
右座の長老が左座の持つ翁の面に対して右座も恰好をつけて所有したいと願って買ったのが能面だったという。
昭和の時代に村で買ったと伝わっているようだ。
さて、小林町のマツリが始まった。
杵築神社へ向かうお渡りである。
かつてはゴクツキから始まる10月14日、15日、16日の三日間だった。
その間に翁の面を手渡していたと一老は話す。
いつしか時が流れてマツリの日が変わった。
昭和41年に施行された体育の日である。
それに伴って8日、9日、10日になった。
今国府町のお渡りを取材した平成17年は10月9日だった。
そのときに聞いた話では翁の面は両町で毎年交互に使いあっていたと聞いた覚えがある。
平成12年にハッピーマンデーが施行されて体育の日は月曜日に移った。
今年はといえば今国府が昨日。
小林はこの日。
一日違いである。
今国府のマツリを終えた翁の面は小林に渡された。

それが小林の公民館で拝見した翁の面である。
マツリが行われた年代によって翁の面のあり方が違っていたのである。
それはともかくお渡りが始まった小林のマツリ。

先頭を担う人はサカキの葉を水につけながら左右に撒きながら歩く。
「祓いたまえ、清めたまえ」と声を上げながら歩む。
椎木町のお渡りと同じように神さんが通る道を祓い清めていると思われるツユハライの作法。
次に大御幣を抱えて歩く人。
神主が随行する。
神さんのサカキを持つ左座、右座のトーヤ(当屋)が続く。
その次が面を持つ人だ。
左座は翁の面で右座が能面である。
その次はヤナギの木と根付き稲を持つ人。
お神酒を持つ人に続いて白装束のソウ(素襖)を身につけた一、二の三老。
そして氏子たちが続く行列だ。
公民館からそれほど遠くない杵築神社。
数分で到着する。
お渡りを勤める人は神さんのサカキを持つトーヤ(当屋)は決まっているが、ツユハライ、御幣持ち、面抱えなどの人たちに決まりはない。
誰でも構わないとHさんは話す。
一の鳥居を潜る前に立ち止ったお渡りの行列。
ここで一旦止まって左座、右座の列は入れ替わるのであったが、この年は入れ替わることはなかった。
本来は右座、左座の列なのであるが、出発する段階から左座、右座の行列になっていたわけだ。
拝殿に入る直前の様子を捉えた。

手前が左座で翁の面を抱えながら歩くHさん。
向こう側が能面を抱える右座の人だ。
納めていた箱に乗せてお渡りをしてきた。
箱の外観をみれば一目瞭然。
翁のほうは古く、能面は新しい。
時代年月は明らかに異なる。
拝殿の前には布団太鼓がある。
小林町では大太鼓と呼ばれている太鼓台だ。

かつてはこの場で翁面を被った男性が舞っていたという。
烏帽子を被った翁は祭典を終えてから蓆の上で舞っていた。
衣装は自前だったそうだ。
一老の話によれば城下町郡山の矢田筋に住んでいた雑貨屋の主人だったそうだ。
子供の頃に舞っていたのを見ていた一老。
主人が亡くなる直前まで舞っていたというからおよそ70年以上も前。
昭和20年辺り。
戦前、戦中、或いは戦後間もない頃であろうか。
当時は翁舞が行われていたという記憶である。
その件は小林町で生まれ育った尼講の一人も記憶していた。
当時の翁面は白い髭が長くて掴めるほどの長さだったそうだ。
子供らはそれを見て怖がっていた。
幼稚園、或いは保育園児だった頃の思い出は「怖かっても見たかった」そうだ。

神事を終えれば氏子たちが両拝殿の中央に並ぶ。
左座、右座に分かれて列を組む。
先頭に立つのは現当屋。
御幣を三回左右に振る。
そして揃って唱和。
「ホーイ」と声を上げながら上方に手を大きく揚げる。
まるでバンザイをしているように見える。

「ホーイ」はトリオイと呼ぶ作法。
実った稲に集まってくるスズメを追いやる作法だと話す宮司。
次に右座の当屋も作法をする。
そうして役目を終える。
次に登場したのが新当屋。
同じように御幣を振れば、揃って「ホーイ」を発声。
左座の新当屋もその作法をする。
次の当屋に受け渡された儀式である。
その作法を拝見して思い出したのが馬司町杵築神社の秋祭りである。
お渡り道中の際に一老が発声する「オォーーー」の掛け声に合わして後続の人たちが揃って「オォー」と発声する。
これを「トリオイの唄」だと云っていた。
鳥を追うように発声するから「トリオイの唄」だと云うのである。
小林町の「トリオイ」を見て感じた馬司町の「オォーーー」。
もしかとすればだが、「ホォーイ」の「ホ」を発音されることなく「オー」だけになったのではないだろうか。
さらに思い出したのが奈良豆比古神社のスモウの作法の際に発声される力士の「ホォーオイッ」である。
翁舞で名高い神社の祭りは宵宮。
翌日の例祭の夜に行われているスモウである。
ここで聞いた話では、稲穂が実って「ホォーオイッ」と掛け声をする。
つまり、穂が多いということである。
これら三つの事例は掛け声が違っているように思えるが同じであったかも知れない。
実りの稲は穂が多い。
豊作を祝った唄ではないだろうか。
小林町の伝聞「トリオイ」、馬司町の「トリオイの唄」。
奈良豆比古神社のスモウの掛け声。
鳥を追うトリオイの発声はホーイ・・・ホーオイ・・・穂追い・・・オーィ。
小林町の「ホーイ」と同様にすべてがトリオイではなかろうか・・・と思ったのである。
(H24.10. 8 EOS40D撮影)