出雲ぶれーど・うの手打ちうどん屋さんからほんのすぐ近く。
今年も矢が打たれたのかと思って神社に向かう。
ここは桜井市白河(しらが)の秉田神社。
2年前に訪れたときに拝見した鬼的や弓矢。
今年も行事が行われたようで祭り用具が残されていた。
「鬼」の的を射止めたのはたぶん2月11日。
行事日程が替わってなければその日だろう。
それから1カ月も経過したこの日の「鬼」の的の紙は雨に打たれて破れていた。
もしかと思って訪ねた家。
2年前に訪れたときは区長役をされていた家だが、ご主人とは尾お会いしていない。
たまたま畑に居られた婦人は区長の奥さんだった。
在室されていたら3月に行われる「シンコ」行事のことも聞きたくて再訪した。
玄関を入って出てこられた奥さんは顔をみるなり「電話をすれば良かった・・」だった。
例え、電話を貰っていてもそのころはここまで出かけられる状態ではなかった。
外出は心臓病後の診察しか出ることはない。
電話を架けて貰えば逆に申しわけないと伝えたであろう。
鬼を射止める行事は「華鎮」とも書かれる「鬼鎮」。
詠み名は「ケイチン」である。
「ケイチン」は正月初めに行われる村行事。
オコナイ行事のなかで見られる鬼的打ちである。
県内事例は40件ぐらいもある。
調べてみればもっと多くの事例がありそうだ。
今年の「ケイチン」は私ともう一人の女性が打ったのですと3枚の写真を見せてくださる。
撮り手は村の女性。
観光協会に所属しているようだ。
記念になった3枚の写真に写る二人は今年の輪番。
白河には昔から廻り当番を務める6軒のトーヤ(頭屋)がある。
これまで6軒で務めていたが、1軒は身体的事情で辞退されている。
一年に一度の廻りは2軒の輪番、よほどのことがない限りずれることはない。
輪番2軒は行事ごとに主役、脇役になるようだ。
鬼鎮のときは訪問した家が主だった。
この年の3月に行われる「シンコ」は脇役のトーヤ(頭屋)家が主となって「シンコ」を作れば、マツリの御供は逆になる。
そういうことらしい。
昔の「シンコ」は粳米をウスヒキで挽くことから始めたそうだ。
粉にした米を水で練って細長い団子状にする。
それをひと捻りして茹でた小豆を塗す。
塗すと云う状態は全面的なのか、一部なのか現物を見るしかない。
そう思って「シンコ」作りの様子を拝見したかったが、もう1軒の輪番さんが年寄りなので気を遣うということで断念した。
「シンコ」団子は彼岸の中日に作ると書いてあったのは昭和56年発刊に発汗された『桜井市史 民俗編』だった。
「三月二十日の彼岸の中日に頭屋へ各垣内から二人ずつ手伝いに来てシンコ作りをした。まず、粉はたきをして昼風呂に入り、素襖を着て重ねこしき(甑)で蒸してゴク(御供)作りをした。これに小豆餡をつけるのが難しい」と書いてあった。
実は「鬼鎮」のことも書いてあったのだ。
「頭屋は旧一月十一日の昼すぎ、神社で鬼鎮めといって、鬼という字を半紙に書き、これを梅の新しい枝を曲げて作った弓で打つ。この日にはゴク(御供)餅を供え、村人による相撲の奉納もしていた」とあった。
それら記事を見つけて2年前に訪れたがときすでに遅し、で終わっていたのだ。
翌年の行事日は何をしていたのだろう。
振り返ってみれば送迎ドライバーの仕事があったのだ。
「鬼鎮」は午前中の輪番都合の時間帯。
とてもじゃないが間に合わない時間帯だけに諦めた。
今年は心臓病後で外出不可。
来年こそは、と思っている。
それはともかく今年は「シンコ」に集中する。
「シンコ」と呼ばれる行事は輪番の二人が揃って神社に参って供えることにある。
神職や村人は登場しない6軒トーヤ(頭屋)の行事である。
「シンコ」を供えるのは二人の婦人。
男性はなぜか出仕しないようだ。
ちなみに出仕したくとも出られないご主人。
なんでも一カ月前に足を怪我したそうで歩くこともままならない。
そう話すご主人は21日が「シンコ」の日であるという。
彼岸の中日は春分の日。
特定日ではなく数年に一度が20日で、だいたいが21日である。
固定日の21日なのか、それとも彼岸の中日の翌日なのかもう一度、念押しの確認をしなければならない。
とにもかくもこの年は二日後の21日。
輪番の二人は10時に参るそうだ。
ところで隣村の榛原角柄のゾーク祭典の話題から宇陀市榛原檜牧の御井神社のゾークの件を尋ねた。
そう、昨年11月に拝見ゾークの大きな弓矢である。
その話しをそれば今年のようだとご主人が云った。
早いうちに日程を調べなくてはならない。
話題は広がって奥さんの出里になる同市大宇陀の田原の火祭りに移った。
今では提灯になったが、かつてはオガラの小松明があったと懐かしいそうに話される。
(H28. 3.19 SB932SH撮影)
今年も矢が打たれたのかと思って神社に向かう。
ここは桜井市白河(しらが)の秉田神社。
2年前に訪れたときに拝見した鬼的や弓矢。
今年も行事が行われたようで祭り用具が残されていた。
「鬼」の的を射止めたのはたぶん2月11日。
行事日程が替わってなければその日だろう。
それから1カ月も経過したこの日の「鬼」の的の紙は雨に打たれて破れていた。
もしかと思って訪ねた家。
2年前に訪れたときは区長役をされていた家だが、ご主人とは尾お会いしていない。
たまたま畑に居られた婦人は区長の奥さんだった。
在室されていたら3月に行われる「シンコ」行事のことも聞きたくて再訪した。
玄関を入って出てこられた奥さんは顔をみるなり「電話をすれば良かった・・」だった。
例え、電話を貰っていてもそのころはここまで出かけられる状態ではなかった。
外出は心臓病後の診察しか出ることはない。
電話を架けて貰えば逆に申しわけないと伝えたであろう。
鬼を射止める行事は「華鎮」とも書かれる「鬼鎮」。
詠み名は「ケイチン」である。
「ケイチン」は正月初めに行われる村行事。
オコナイ行事のなかで見られる鬼的打ちである。
県内事例は40件ぐらいもある。
調べてみればもっと多くの事例がありそうだ。
今年の「ケイチン」は私ともう一人の女性が打ったのですと3枚の写真を見せてくださる。
撮り手は村の女性。
観光協会に所属しているようだ。
記念になった3枚の写真に写る二人は今年の輪番。
白河には昔から廻り当番を務める6軒のトーヤ(頭屋)がある。
これまで6軒で務めていたが、1軒は身体的事情で辞退されている。
一年に一度の廻りは2軒の輪番、よほどのことがない限りずれることはない。
輪番2軒は行事ごとに主役、脇役になるようだ。
鬼鎮のときは訪問した家が主だった。
この年の3月に行われる「シンコ」は脇役のトーヤ(頭屋)家が主となって「シンコ」を作れば、マツリの御供は逆になる。
そういうことらしい。
昔の「シンコ」は粳米をウスヒキで挽くことから始めたそうだ。
粉にした米を水で練って細長い団子状にする。
それをひと捻りして茹でた小豆を塗す。
塗すと云う状態は全面的なのか、一部なのか現物を見るしかない。
そう思って「シンコ」作りの様子を拝見したかったが、もう1軒の輪番さんが年寄りなので気を遣うということで断念した。
「シンコ」団子は彼岸の中日に作ると書いてあったのは昭和56年発刊に発汗された『桜井市史 民俗編』だった。
「三月二十日の彼岸の中日に頭屋へ各垣内から二人ずつ手伝いに来てシンコ作りをした。まず、粉はたきをして昼風呂に入り、素襖を着て重ねこしき(甑)で蒸してゴク(御供)作りをした。これに小豆餡をつけるのが難しい」と書いてあった。
実は「鬼鎮」のことも書いてあったのだ。
「頭屋は旧一月十一日の昼すぎ、神社で鬼鎮めといって、鬼という字を半紙に書き、これを梅の新しい枝を曲げて作った弓で打つ。この日にはゴク(御供)餅を供え、村人による相撲の奉納もしていた」とあった。
それら記事を見つけて2年前に訪れたがときすでに遅し、で終わっていたのだ。
翌年の行事日は何をしていたのだろう。
振り返ってみれば送迎ドライバーの仕事があったのだ。
「鬼鎮」は午前中の輪番都合の時間帯。
とてもじゃないが間に合わない時間帯だけに諦めた。
今年は心臓病後で外出不可。
来年こそは、と思っている。
それはともかく今年は「シンコ」に集中する。
「シンコ」と呼ばれる行事は輪番の二人が揃って神社に参って供えることにある。
神職や村人は登場しない6軒トーヤ(頭屋)の行事である。
「シンコ」を供えるのは二人の婦人。
男性はなぜか出仕しないようだ。
ちなみに出仕したくとも出られないご主人。
なんでも一カ月前に足を怪我したそうで歩くこともままならない。
そう話すご主人は21日が「シンコ」の日であるという。
彼岸の中日は春分の日。
特定日ではなく数年に一度が20日で、だいたいが21日である。
固定日の21日なのか、それとも彼岸の中日の翌日なのかもう一度、念押しの確認をしなければならない。
とにもかくもこの年は二日後の21日。
輪番の二人は10時に参るそうだ。
ところで隣村の榛原角柄のゾーク祭典の話題から宇陀市榛原檜牧の御井神社のゾークの件を尋ねた。
そう、昨年11月に拝見ゾークの大きな弓矢である。
その話しをそれば今年のようだとご主人が云った。
早いうちに日程を調べなくてはならない。
話題は広がって奥さんの出里になる同市大宇陀の田原の火祭りに移った。
今では提灯になったが、かつてはオガラの小松明があったと懐かしいそうに話される。
(H28. 3.19 SB932SH撮影)