祭りをいつ、どこで、どのように知ったのか、まったく記憶にない。
なにかの折にパソコン画面にでてきた一行に釘づけ。
何らかの行事をしているかもしれないと思った
3月スケジュールメモに記録していたキーワードは「土倉屋敷の地蔵さん祭り」。
メモっていた時代は平成22年だから6年前。
書いてあった行文から推測してメモした行事名は推測である。
場は川上村大滝の土倉庄三郎翁の屋敷跡の裏庭。
小学校跡のように思えた場である。
地蔵さんに供える御供は赤飯のオニギリ。
前日にヨモギ草を混ぜて作るモチ搗きがあるような感じであった。
川上村へ出かけた最後はいつであろうか。
探してみれば平成22年の9月30日だった。
この日の行事は大字高原の宵宮。
十二社氏神神社の宵宮に餅を搗く。
その日以来ばったり途絶えた6年間。
遠ざかってしまったのは他地域の取材が増えたことだ。
増えるだけではなく緊急性を要した取材ばかりであったからだ。
もう一つの理由は平成23年9月4日に発生した台風12号がもたらす大雨の影響で大規模な崩落で道路が塞がったことによる。
役場より北にある山の斜面の崩落で国道169号線が塞がった。
復旧工事はされたものの私の心も塞がったように感じてしまった。
それが突然のごとくに芽吹いた。
きっかけは川上村東川在住のMさんからの賀状である。
そこに書いてあったコメントは「土倉庄三郎100年記念行事」だ。
土倉庄三郎氏の名を知ったのは森林ジャーナリストの田中淳夫氏のブログであった。
その名は川上村大滝にあるそそり立った崖にある磨崖碑にある。
大きな白文字で書かれている(没後4年後の大正十年)ので気づく人も多いだろう。
日本林業の父と呼ばれていた土倉庄三郎は吉野林業の山林王。
詳しいことはここで挙げないが、跡地はどこであるのか、そちらに興味が惹かれる。
記念行事はいつであるのか賀状には書いていなかったが、跡地だけでも知っておくほうが望ましいと思っていた。
前月の3月26日のことである。
「奈良の文化遺産を活かした総合地域活性化事業実行委員会」が主催。
「ねじまき堂」たる名の者が大柳生や吐山、篠原で行われてきた「大和の太鼓踊り」の講演会や体験ワークショップが奈良県立図書情報館で行われると知った。
元京都学園大学准教授青盛透講演もあると案内されていたイベントは是非とも拝見したく訪れた。
その会場におられたのがMさんだった。
Mさんは川上村の森の水の源流館職員のNさんとともに参加していた。
参加の理由は川上村で今でも行われている大古踊りであるが、経年実施ではなく祝い事があれば、である。
電話をするか、Mさん宅を訪ねようと思っていたときに出合った。
土倉庄三郎100年記念行事は来年の平成29年が没後百年目になる記念事業の始まりだった。
一年間の記念事業はこの年の6月19日を皮切りにいろいろあるらしいが発表はその都度だ。
午前に大滝にある土倉家菩提寺の龍泉寺で百回忌法要(主催大滝区)が営まれる。
午後はやまぶきホールで基調講演(主催川上村)がある。
前述した森林ジャーナリストの田中淳夫氏の講演である。
県立図書情報館でお会いしたMさんに知りたかった地蔵尊の行事の件について伺った。
Mさんが云うには毎月の24日にしているようだ、ということだ。
私がこの行事を知ったのは3月24日だったと思っていたが、そうではなかった。
毎月であるなら、百回忌法要が行われるまでに出かけてみようということにしたのだ。
行けばなんらかの手がかりが掴めるであろうと思って車を走らせた。
一応の目安時間は午前10時である。
6年ぶりに走る国道169号線。
崩落した場所はここだと判る状況であるが、道路は復旧していた。
大字の大滝はそこより手前である。
久しぶりの大滝に着くことはできるのか。
不安にかられる空白の6年間。
現地は覚えているが、距離感が掴めない。
大滝はもっと遠くにあるのか・・。
走りながら思いだした大字西河に大名持神社がある。
これまで幾度となく行事を取材した神社である。
ここの行事は西河と大滝から一人ずつ。
一年神主が選ばれる。
一年神主はいわゆる村神主。
一年に一度は交替する。
その引渡し儀式が12月初めの日曜日に行われる。
儀式の基本は神主記録簿の記帳である。
平成19年の12月2日に取材していた。
それより先に取材していたのは十二灯参りだ。
火を点けた大トンドに灯してオヒカリを持ってそれぞれの大字に戻っていく。
オヒカリの火が消えないようにして戻っていくと話していた大滝の人はあの山の方だと云っていた。
その山を示す我が車のGPS。
カーナビゲーションが示す行程を走っていけば山の中。
家は数軒あるが、なんとなく違うように感じた。
集落とは思えない雰囲気をもっていた。
おそるおそる下って国道に戻る。
そして、行きついた大滝は国道筋。
大きなカーブを曲がったところに派出所がある。
そこで聞こうとしたが不在。
隣にある施設は消防団。
郵便局もあるそこはどなたも見かけないがすぐ傍に銅像が立っていた。
銘板によればこの銅像は三代目。
もしかとすればここが土倉家の跡地。
そう思って辺りを見渡せば地蔵尊らしき石仏が立っていた。
たぶんで終わってここを離れるには後ろ髪をひかれる。
実際に地蔵尊を祭る行事があるのか。
あればヨモギの草餅はいつ作っているのか。
祭りをされている人たちはどのような人なのか。
とにかく聞くしかないと思って集落内を歩いてみるが人影は見当たらない。
一周して戻ってきたときのことだ。
消防団員だと思しきお二人が戻ってきたので地蔵尊について伺った。
お一人が反応してくださったその人はここの住民。
辻井酒店の店主だった。
辻井さんが云うには商店筋の6軒が営んでいると云う。
毎年の3月24日の営みを終えたら地蔵尊の前に敷いたゴザに座って直会をしていると話す。
どうやらヨモギの草餅も作っているようだが、詳細は存知していない。
Mさんが云っていたのは毎月。
どうやら間違いであったようだ。
交換した名刺から話題は著書に移った。
辻井さんの父親は二度も本を出版している。
一つは辻井さんが貰ってくださいと云われて受け取った『吉野・川上の古代史』。
サブタイトルに「神武天皇が即位前七年駐在した村」である。
奈良新聞社から平成26年10月に発刊された。
亡くなる直前に発刊された遺言のような本である。
息子さんが云うには「信憑性は判らないから、信用しないように」と釘を刺す。
それはともかくこんな上等な本であるが、ISBN(国際標準図書番号)の日本図書コードは印刷されていない。
これがないことを思えば自費出版。
この本に記した番外土倉家のことが書かれている。
番外はもう一つある。
写真で見る後南朝遺蹟である。
詳しくではないが読みやすい。
お礼にというわけではないが、私の活動の一つを紹介する奈良県立民俗博物館が発行する『私がとらえた大和の民俗―衣―』をさしあげた。
ちなみに百回忌法要をされる龍泉寺はここより上の方である。
辻井さんが指さす方向にあるという。
そこへ行く道は急坂で細い道。
記念事業の日は大勢の人たちが来村するであろうと思われ消防団員は道しるべ。
案内役に就くそうだ。
(H28. 4.24 EOS40D撮影)
なにかの折にパソコン画面にでてきた一行に釘づけ。
何らかの行事をしているかもしれないと思った
3月スケジュールメモに記録していたキーワードは「土倉屋敷の地蔵さん祭り」。
メモっていた時代は平成22年だから6年前。
書いてあった行文から推測してメモした行事名は推測である。
場は川上村大滝の土倉庄三郎翁の屋敷跡の裏庭。
小学校跡のように思えた場である。
地蔵さんに供える御供は赤飯のオニギリ。
前日にヨモギ草を混ぜて作るモチ搗きがあるような感じであった。
川上村へ出かけた最後はいつであろうか。
探してみれば平成22年の9月30日だった。
この日の行事は大字高原の宵宮。
十二社氏神神社の宵宮に餅を搗く。
その日以来ばったり途絶えた6年間。
遠ざかってしまったのは他地域の取材が増えたことだ。
増えるだけではなく緊急性を要した取材ばかりであったからだ。
もう一つの理由は平成23年9月4日に発生した台風12号がもたらす大雨の影響で大規模な崩落で道路が塞がったことによる。
役場より北にある山の斜面の崩落で国道169号線が塞がった。
復旧工事はされたものの私の心も塞がったように感じてしまった。
それが突然のごとくに芽吹いた。
きっかけは川上村東川在住のMさんからの賀状である。
そこに書いてあったコメントは「土倉庄三郎100年記念行事」だ。
土倉庄三郎氏の名を知ったのは森林ジャーナリストの田中淳夫氏のブログであった。
その名は川上村大滝にあるそそり立った崖にある磨崖碑にある。
大きな白文字で書かれている(没後4年後の大正十年)ので気づく人も多いだろう。
日本林業の父と呼ばれていた土倉庄三郎は吉野林業の山林王。
詳しいことはここで挙げないが、跡地はどこであるのか、そちらに興味が惹かれる。
記念行事はいつであるのか賀状には書いていなかったが、跡地だけでも知っておくほうが望ましいと思っていた。
前月の3月26日のことである。
「奈良の文化遺産を活かした総合地域活性化事業実行委員会」が主催。
「ねじまき堂」たる名の者が大柳生や吐山、篠原で行われてきた「大和の太鼓踊り」の講演会や体験ワークショップが奈良県立図書情報館で行われると知った。
元京都学園大学准教授青盛透講演もあると案内されていたイベントは是非とも拝見したく訪れた。
その会場におられたのがMさんだった。
Mさんは川上村の森の水の源流館職員のNさんとともに参加していた。
参加の理由は川上村で今でも行われている大古踊りであるが、経年実施ではなく祝い事があれば、である。
電話をするか、Mさん宅を訪ねようと思っていたときに出合った。
土倉庄三郎100年記念行事は来年の平成29年が没後百年目になる記念事業の始まりだった。
一年間の記念事業はこの年の6月19日を皮切りにいろいろあるらしいが発表はその都度だ。
午前に大滝にある土倉家菩提寺の龍泉寺で百回忌法要(主催大滝区)が営まれる。
午後はやまぶきホールで基調講演(主催川上村)がある。
前述した森林ジャーナリストの田中淳夫氏の講演である。
県立図書情報館でお会いしたMさんに知りたかった地蔵尊の行事の件について伺った。
Mさんが云うには毎月の24日にしているようだ、ということだ。
私がこの行事を知ったのは3月24日だったと思っていたが、そうではなかった。
毎月であるなら、百回忌法要が行われるまでに出かけてみようということにしたのだ。
行けばなんらかの手がかりが掴めるであろうと思って車を走らせた。
一応の目安時間は午前10時である。
6年ぶりに走る国道169号線。
崩落した場所はここだと判る状況であるが、道路は復旧していた。
大字の大滝はそこより手前である。
久しぶりの大滝に着くことはできるのか。
不安にかられる空白の6年間。
現地は覚えているが、距離感が掴めない。
大滝はもっと遠くにあるのか・・。
走りながら思いだした大字西河に大名持神社がある。
これまで幾度となく行事を取材した神社である。
ここの行事は西河と大滝から一人ずつ。
一年神主が選ばれる。
一年神主はいわゆる村神主。
一年に一度は交替する。
その引渡し儀式が12月初めの日曜日に行われる。
儀式の基本は神主記録簿の記帳である。
平成19年の12月2日に取材していた。
それより先に取材していたのは十二灯参りだ。
火を点けた大トンドに灯してオヒカリを持ってそれぞれの大字に戻っていく。
オヒカリの火が消えないようにして戻っていくと話していた大滝の人はあの山の方だと云っていた。
その山を示す我が車のGPS。
カーナビゲーションが示す行程を走っていけば山の中。
家は数軒あるが、なんとなく違うように感じた。
集落とは思えない雰囲気をもっていた。
おそるおそる下って国道に戻る。
そして、行きついた大滝は国道筋。
大きなカーブを曲がったところに派出所がある。
そこで聞こうとしたが不在。
隣にある施設は消防団。
郵便局もあるそこはどなたも見かけないがすぐ傍に銅像が立っていた。
銘板によればこの銅像は三代目。
もしかとすればここが土倉家の跡地。
そう思って辺りを見渡せば地蔵尊らしき石仏が立っていた。
たぶんで終わってここを離れるには後ろ髪をひかれる。
実際に地蔵尊を祭る行事があるのか。
あればヨモギの草餅はいつ作っているのか。
祭りをされている人たちはどのような人なのか。
とにかく聞くしかないと思って集落内を歩いてみるが人影は見当たらない。
一周して戻ってきたときのことだ。
消防団員だと思しきお二人が戻ってきたので地蔵尊について伺った。
お一人が反応してくださったその人はここの住民。
辻井酒店の店主だった。
辻井さんが云うには商店筋の6軒が営んでいると云う。
毎年の3月24日の営みを終えたら地蔵尊の前に敷いたゴザに座って直会をしていると話す。
どうやらヨモギの草餅も作っているようだが、詳細は存知していない。
Mさんが云っていたのは毎月。
どうやら間違いであったようだ。
交換した名刺から話題は著書に移った。
辻井さんの父親は二度も本を出版している。
一つは辻井さんが貰ってくださいと云われて受け取った『吉野・川上の古代史』。
サブタイトルに「神武天皇が即位前七年駐在した村」である。
奈良新聞社から平成26年10月に発刊された。
亡くなる直前に発刊された遺言のような本である。
息子さんが云うには「信憑性は判らないから、信用しないように」と釘を刺す。
それはともかくこんな上等な本であるが、ISBN(国際標準図書番号)の日本図書コードは印刷されていない。
これがないことを思えば自費出版。
この本に記した番外土倉家のことが書かれている。
番外はもう一つある。
写真で見る後南朝遺蹟である。
詳しくではないが読みやすい。
お礼にというわけではないが、私の活動の一つを紹介する奈良県立民俗博物館が発行する『私がとらえた大和の民俗―衣―』をさしあげた。
ちなみに百回忌法要をされる龍泉寺はここより上の方である。
辻井さんが指さす方向にあるという。
そこへ行く道は急坂で細い道。
記念事業の日は大勢の人たちが来村するであろうと思われ消防団員は道しるべ。
案内役に就くそうだ。
(H28. 4.24 EOS40D撮影)