葛城市の大字寺口の行事は十二灯提灯を献灯する博西神社や地区ごとに行われるダイジングサンの献灯などを取材してきた。
「寺口」をキーワードにネットを検索していたときだ。
お薬師さんの会式が行われている置恩寺を紹介する葛城市HPの観光にそれがあった。
本堂で當麻寺の僧侶らと村人による法会である。
機会があれば訪ねてみたいと思っていた。
退院後のリハビリ運動の経過状況を鑑みながら出かけるか、それとも否かを決断せざるを得ない日々の身体状況。
川上村大滝の下見では特に発症することもなかった。
これなら行ける、と踏んで行先は吉野町、下市町、御所市から葛城市。
着いた時間帯は12時半。
午後1時からとHPが伝えていた始まる時間より少し前だった。
なんとか間に合ってはみたものの僧侶や村人たちは寺務所で会食をされていた。
ご挨拶は会食を終えてからになった。
神社行事ではたいへんお世話になった区長や神社役員にこの日の取材をお願いすれば、本堂に上がっても構わないと云う。
村人や一般の参拝者も来られるような状況にまずは遠慮。
というよりも行事の全容を知るには一歩引いた方がよかろう、である。
村人が誘われたのかどうか知らないが、少人数のハイカーらしき人たちもいる。
本堂には白い幕が張ってあった。
「昭和60年4月吉日 観音講一同」とある。
高野山真言宗派の置恩寺のご本尊は薬師如来坐像である。
観音さんを信仰するのは村の観音講。
現在は11人が毎月の17日に集まってお勤めをしている。
朝早くに集まり御詠歌を唱えると話す。
御詠歌はおそらく西国三十三番の御詠歌であるだろうと思った。
観音講の件はいずれ取材したいものだが、この日の行事に話しを戻そう。
本来、薬師会式は25日であったと話す。
現在は村の人らが集まりやすい直前の日曜日。
同寺には檀家が存在しない。
法会は13院からなる當麻寺の塔頭(真言宗5院・浄土宗8院)の一つにある高野山真言宗中之坊の僧侶によって行われる。
会食を終えて装束を着替える間に場を設営される村の人。
古くから伝わる六百巻からなる大般若経を納めた経箱。
蓋を開ければ積み重ねた大般若経典が現われる。
経箱は12箱。
本尊の目の前に座る僧侶が唱える箱は四箱。
左右の内陣にはそれぞれ4箱ずつ。
村の人がそこに座るから合計で12人。
六百巻をそれぞれ一人ずつ担うわけではなく一人50巻ずつ分担するのだ。
ご本尊のお供えに立てた採れたてタケノコが目立つ。
太めで大きなタケノコは緑色も突出する。
少し育ち過ぎたと云われるが、いただくには十分な値打ちもの。
果物のお供えもあるが、洗い米、カンピョウで括ったコーヤドーフ、エノキ・シイタケの生御膳に調理御膳の煮物のカボチャもあれば盛り塩もある。
お花を立ててローソクに火を点ける。
導師が中央に座ってご真言。
5人の僧侶が揃ってあげられる声明のが本堂に響き渡る。
ときにはジャン、ジャーン。大きな椀型のリンの音も響き渡る。
そして始まったはらみたきょう・・・ とう(唐)のげんじょうさんぞう(玄奘三蔵)ぶじょやーく だーいはんにゃはらみたきょう・・・」と大きな声で読誦(どくじゅ)しながら手にした大般若経を取り上げて上方にあげながら広げて、下方に流す。
経典の流し詠みのようなさまは転読。
60億40万字の経典を短時間で誦(ずうず)する。
それはあたかも経典一巻のすべてを詠んだことになる。
パラパラというかバラバラーというような感じで経典が下方に流れていく。
まるで開いたアコーデオンを閉じていくさまのように見える。
一巻を詠み終えるたびに経典を机(箱)に打ち当てる。
バーン、バシーと勢いのある打ち方である。
大きな声と叩く音。堂内にそれが響き渡り、その度に背筋は引き締まってシャンとする。
その動きを始めて見たかのように見入る子どもの姿もあれば、物珍しそうに拝観する人もいる。
導師が手にした大般若経の一巻に「大般若波羅蜜多経巻第五百七十八 大唐三蔵法師玄奘奉 ・・・」の文字が読めた。
また、第一百一十の巻には「新庄東町 施主 悦□善兵衛」や「新庄東横町施主 □□□□」の文字もある。
六百巻の大般若経典を寄進した施主名であるが、年代墨書はどこにあったのか、カメライアイでは見つからなかった。
ありがたい大般若経の転読法要をもって営まれる薬師会式の締めは般若心経である。
これもまた、重厚な声明。
ありがたく手を合わせる。
ご真言を唱えた僧侶たちは頑丈に建てた観音堂(収蔵庫)に移る。
お堂は狭いから僧侶しか入ることはできない。
村役も村人たちもお堂の外で佇みながら拝聴する。
この日は特別のご開帳。
檜一木造りの十一面観音立像に向かってお経(観音経かも)を唱えられる。
法会が終われば村人楽しみのモチマキだ。
本堂や観音堂からモチを撒く役員さんの前に立って待ち構える。
境内は溢れんばかりの盛況。
いつの間にこれほどの人たちが集まってきたのだろうか老若男女。
だれもかれもナイロン袋を手にしてモチを拾う。
観音堂を見れば先ほどまで大般若経を転読していた中之坊の僧侶たちだ。
笑顔に応えて前日に搗いた4斗(150kg)のモチを笑顔で撒く。
モチを手に入れて解散。
村人からの直接的な話しを伺える余裕もなかった寺口の薬師会式。
葛城市のHPによれば、会式が終われば初夏。
農作業は本格的になり忙しくなる、とか。
また、古くから土地の人たちは“山登り”と云って、裏山の薬師山の三宝池まで登った。
遠方から帰郷した親戚らとともにその場でご馳走を食べた。
歌も唄った“山登り”の様相はまるでレンゾのようだ。
田の作業が始まる前に一息つけて山を登る。
當麻の山口辺りでは“岳のぼり”。
當麻のお練りの日は付近の村でも“レンゾ”。
いわゆる當麻のレンゾである光景はどこの村でも同じようであった寺口の“山登り”は昭和40年代のころまで。
今では家ごとに屋内でよばれると書いてあった。
(H28. 4.24 EOS40D撮影)
「寺口」をキーワードにネットを検索していたときだ。
お薬師さんの会式が行われている置恩寺を紹介する葛城市HPの観光にそれがあった。
本堂で當麻寺の僧侶らと村人による法会である。
機会があれば訪ねてみたいと思っていた。
退院後のリハビリ運動の経過状況を鑑みながら出かけるか、それとも否かを決断せざるを得ない日々の身体状況。
川上村大滝の下見では特に発症することもなかった。
これなら行ける、と踏んで行先は吉野町、下市町、御所市から葛城市。
着いた時間帯は12時半。
午後1時からとHPが伝えていた始まる時間より少し前だった。
なんとか間に合ってはみたものの僧侶や村人たちは寺務所で会食をされていた。
ご挨拶は会食を終えてからになった。
神社行事ではたいへんお世話になった区長や神社役員にこの日の取材をお願いすれば、本堂に上がっても構わないと云う。
村人や一般の参拝者も来られるような状況にまずは遠慮。
というよりも行事の全容を知るには一歩引いた方がよかろう、である。
村人が誘われたのかどうか知らないが、少人数のハイカーらしき人たちもいる。
本堂には白い幕が張ってあった。
「昭和60年4月吉日 観音講一同」とある。
高野山真言宗派の置恩寺のご本尊は薬師如来坐像である。
観音さんを信仰するのは村の観音講。
現在は11人が毎月の17日に集まってお勤めをしている。
朝早くに集まり御詠歌を唱えると話す。
御詠歌はおそらく西国三十三番の御詠歌であるだろうと思った。
観音講の件はいずれ取材したいものだが、この日の行事に話しを戻そう。
本来、薬師会式は25日であったと話す。
現在は村の人らが集まりやすい直前の日曜日。
同寺には檀家が存在しない。
法会は13院からなる當麻寺の塔頭(真言宗5院・浄土宗8院)の一つにある高野山真言宗中之坊の僧侶によって行われる。
会食を終えて装束を着替える間に場を設営される村の人。
古くから伝わる六百巻からなる大般若経を納めた経箱。
蓋を開ければ積み重ねた大般若経典が現われる。
経箱は12箱。
本尊の目の前に座る僧侶が唱える箱は四箱。
左右の内陣にはそれぞれ4箱ずつ。
村の人がそこに座るから合計で12人。
六百巻をそれぞれ一人ずつ担うわけではなく一人50巻ずつ分担するのだ。
ご本尊のお供えに立てた採れたてタケノコが目立つ。
太めで大きなタケノコは緑色も突出する。
少し育ち過ぎたと云われるが、いただくには十分な値打ちもの。
果物のお供えもあるが、洗い米、カンピョウで括ったコーヤドーフ、エノキ・シイタケの生御膳に調理御膳の煮物のカボチャもあれば盛り塩もある。
お花を立ててローソクに火を点ける。
導師が中央に座ってご真言。
5人の僧侶が揃ってあげられる声明のが本堂に響き渡る。
ときにはジャン、ジャーン。大きな椀型のリンの音も響き渡る。
そして始まったはらみたきょう・・・ とう(唐)のげんじょうさんぞう(玄奘三蔵)ぶじょやーく だーいはんにゃはらみたきょう・・・」と大きな声で読誦(どくじゅ)しながら手にした大般若経を取り上げて上方にあげながら広げて、下方に流す。
経典の流し詠みのようなさまは転読。
60億40万字の経典を短時間で誦(ずうず)する。
それはあたかも経典一巻のすべてを詠んだことになる。
パラパラというかバラバラーというような感じで経典が下方に流れていく。
まるで開いたアコーデオンを閉じていくさまのように見える。
一巻を詠み終えるたびに経典を机(箱)に打ち当てる。
バーン、バシーと勢いのある打ち方である。
大きな声と叩く音。堂内にそれが響き渡り、その度に背筋は引き締まってシャンとする。
その動きを始めて見たかのように見入る子どもの姿もあれば、物珍しそうに拝観する人もいる。
導師が手にした大般若経の一巻に「大般若波羅蜜多経巻第五百七十八 大唐三蔵法師玄奘奉 ・・・」の文字が読めた。
また、第一百一十の巻には「新庄東町 施主 悦□善兵衛」や「新庄東横町施主 □□□□」の文字もある。
六百巻の大般若経典を寄進した施主名であるが、年代墨書はどこにあったのか、カメライアイでは見つからなかった。
ありがたい大般若経の転読法要をもって営まれる薬師会式の締めは般若心経である。
これもまた、重厚な声明。
ありがたく手を合わせる。
ご真言を唱えた僧侶たちは頑丈に建てた観音堂(収蔵庫)に移る。
お堂は狭いから僧侶しか入ることはできない。
村役も村人たちもお堂の外で佇みながら拝聴する。
この日は特別のご開帳。
檜一木造りの十一面観音立像に向かってお経(観音経かも)を唱えられる。
法会が終われば村人楽しみのモチマキだ。
本堂や観音堂からモチを撒く役員さんの前に立って待ち構える。
境内は溢れんばかりの盛況。
いつの間にこれほどの人たちが集まってきたのだろうか老若男女。
だれもかれもナイロン袋を手にしてモチを拾う。
観音堂を見れば先ほどまで大般若経を転読していた中之坊の僧侶たちだ。
笑顔に応えて前日に搗いた4斗(150kg)のモチを笑顔で撒く。
モチを手に入れて解散。
村人からの直接的な話しを伺える余裕もなかった寺口の薬師会式。
葛城市のHPによれば、会式が終われば初夏。
農作業は本格的になり忙しくなる、とか。
また、古くから土地の人たちは“山登り”と云って、裏山の薬師山の三宝池まで登った。
遠方から帰郷した親戚らとともにその場でご馳走を食べた。
歌も唄った“山登り”の様相はまるでレンゾのようだ。
田の作業が始まる前に一息つけて山を登る。
當麻の山口辺りでは“岳のぼり”。
當麻のお練りの日は付近の村でも“レンゾ”。
いわゆる當麻のレンゾである光景はどこの村でも同じようであった寺口の“山登り”は昭和40年代のころまで。
今では家ごとに屋内でよばれると書いてあった。
(H28. 4.24 EOS40D撮影)