実に6年ぶりに訪れた川上村の高原。
平成22年9月30日に行われたマツリの宵宮に搗くモチツキ。
翌日のマツリも訪れたが、その日はマツリを終えた午後4時過ぎ。
前日のお礼を兼ねて訪れたのを最後に高原行きは永らく中断した。
その理由は台風12号襲来によって起こった巨大な深層崩落による土砂崩れだった。
崩落の規模は高さが300mで幅は100mにもおよぶようだ。
人的な被害はなかった崩落だったので救われるが、高原入りが遠のく一因でもあった。
遠のく因はもう一つある。
遠出がなかなかできなくなった時代を迎えたのだ。
翌年の平成23年1月に奈良県教育委員会文化財課職員から奈良県緊急伝統芸能調査を頼まれたことである。
県や在住する大和郡山市から委嘱された調査は3カ年。
精魂込めて調査した。
すべてが終わって分厚い報告書が発刊されたのは平成26年6月。
調査員の仕事はやっとのことで解放された。
が、翌年の平成27年は大病。
長期間に亘る闘病生活が待っていた。
完全復帰でもない身体になったが、動ける範囲内で調査取材を続けていくことにした。
思いもかけない写真家Kとの出会いが端を発してこれまで伺った取材先に再訪する機会が与えられた。
この日に訪れた高原もその一つである。
昭和44年の高原住民は480人になっていた。
それより10年前の昭和34年9月。
伊勢湾台風によって800人も住んでいた高原は壊滅的な被害に遭遇した。
土地が崩落して土砂で埋もれた神社傍の谷会いに被害にあった村人が静かに眠っているという。
そのような経緯もあった高原。
当時の戸数は73戸。
正月のときに一軒、一軒に御供を配っていたという。
高原は曹洞宗派。
曹洞宗、臨済宗などの中国禅宗五家の一つ。
日本では曹洞宗の他に日本達磨宗、臨済宗、黄檗宗、普化宗がある。
本日、行われる高原の行事は十二社氏神神社の夏季大祭に村神主の引継ぎがある鍵渡しである。
神社には4人の男性がおられた。
うち、一人のお顔は存じている。
かつて行事取材にお世話になった元区長のUさんだが、すっかりお忘れになられたようだ。
他の3人は初めてお会いするが、一人は顔を覚えている。
何度も、何度も繰り返して拝見していたマツリのときに行われる人寄せの御供撒きである。
掛け声をかけながら先頭を走る男性の顔はすっかり目に焼き付いている。
もしかとして平成15年10月1日に撮っていた携帯電話の動画を見てもらう。
なんとなくそうだと云う男性はNさんだった。
ところでこの日に渡したい写真があった。
それは平成22年9月30日に行われたマツリの宵宮に搗くモチツキの様相である。
搗いたモチを棒のような長細いモチにしている写真である。
それを見たOさんが云った。
「その棒モチは「ネコモチ」と呼ぶ。ネコモチを包丁で切断しているのが私だ」と云った。
良き出会いの写真に喜んでもらった。
この日、夏季大祭後に引継ぎされるアニ神主。
オトウト神主のUさんとともに一年間の神社行事に祭祀される二人だった。
そういう話しをして旧来から取材していたことに納得された現アニ神主のOさんは区長も兼務されている。
もう一人は現オトウト神主のOさん。
アニとオトウトと呼ぶのは年齢が単に年上・年下であるということだ。
かつては55歳になれば神主役を務めていたようだ。
許可をいただいて取材に上がらせてもらった参籠所。
この部屋だけは絶対に入ってはならないと釘をさすその場は神饌などを調製する部屋。
神聖な場所は神主しか入ることのできない神饌所である。
「干時文久二歳(1862)壬戌 祝 八月新調」の墨書文字が見られる御供箱。
オカモチ風の御供箱は寄進した三人の名(神主 善兵衛 長右衛門 四□左衛門)がある。
その反対側には12人の名を墨書した十貮人の連名がある。
驚くべきことに12人とも名字があったからそれぞれが特定家であったようだ。
それはともかく、神饌所は炊事場でもある。
大きな炊飯器で炊いたご飯は器に詰め込む。
器の形は尖がりのない三角錐。
径の広い側から詰め込む形になっている。
詰め込んだ器は高坏に盛る。
これを「タキゴク」と呼ぶ。
「タキゴク」を充てる漢字は「炊き御供」に違いないが、枠に詰め込んで型をとる形態から申せば、多くの県内事例でみられる「モッソ」である。
充てる漢字は物相。地域によっては「モッソウ」の呼び名もある「モッソウ飯」である。
「タキゴク」を運ぶための道具がある。
いわゆる御供箱であるが、それには江戸時代末期の「干時文久二歳(1862)八月新調」の墨書があった。
オカモチ風の取っ手があるから運びやすい。
三つ作ればもう人揃えの「タキゴク」も調製する。
これら六つの「タキゴク」は上に低い高坏、下に高い高坏を並べて本殿下の祭壇に供える。
御供は他にもある。
前日に4人の村神主が搗いた餅は大鏡餅に小鏡餅がある。
本殿は大鏡餅であるが小宮さん、八幡さんなどの末社は小鏡餅になる。
これらの餅は神主家で搗いた。
前日の餅搗きは杵搗き。
宵宮の場合と同じの杵搗き。
用意したモチゴメは9kg。
二臼も搗いたと云う。
御供にもう一つ。
県内事例ではあまり見ることのない「カケダイ」がある。
充てる漢字は「掛鯛」。
そのものであるが、同じような形態で行事の際に供える地域は極めて少ない。
私が拝見した事例は2地域。
一つは奈良市川上町の祇園社ならびに川上蛭子神社の蛭子祭。
もう一つは田原本町蔵堂の恵比寿社の三夜待ち。
いずれもエビスサンを祭る行事である。
高原の氏神神社には恵比寿社の存在がないようだけに特別なものを感じる。
カケダイの姿も含めてご厚意で撮らせていただいた。
なお、カケダイはこの日の夏季大祭だけでなく元日祭祀の元旦祭やマツリの秋季大祭にも供えられるようだ。
かつては11月の霜月大祭にもあったが、である。
こうしてすべての御供の調整が終われば本社、末社など神饌御供を並べて夏季大祭の神事が行われる。
参拝者の姿は見られず四人の村神主が粛々と行われる。
その際にはカケダイを供えた本殿に御簾を下ろされる。
一人の現神主が本殿に上がって神事をする。
神主はアニにオトウトの二人。
神事ごとは交替しているという。
本殿に向かって一同は拝礼する。
始めに拝殿で禊ぎ祓い。
次は本殿に登って大祓詞。
本殿に登るさいには草履を脱いで左足を先に社殿に登り、御簾を上げる。
次は夏季大祭の大祓奏上。
次は「皇社皇宗遥拝所」の場に移って「天地一切清浄祓」を奏上する。
村神主曰く神武天皇以下の第五十五代文徳天皇までの天皇を遥拝する場であると云う遥拝所前に供えた二段重ねの小鏡餅は六つ。
小宮は六社。
太政大臣、中納言、少将、中将・・など六人を祀る。
そこも同じように六つの二段重ねの小鏡餅を供えていた。
「皇社皇宗遥拝所」の次は小宮に移る。
唱える詞は「六根清浄大祓」。
次は二社さんと呼ばれる社殿に移って「一切成就祓」になる。
こうして神事を終えた四人は揃って直会の会食。
頼んでおいたパック詰め料理でお神酒をいただく。
十二人衆のミナライに4人の継後(けいご)が存在する。
4人は年齢順に繰り上がって十人衆を務めていた。
今日の勤めをした四人の神主は平成12年に務めた十二人衆。
年齢が近いこともあって四人の仲が良いという。
それから数時間後。
直会を終えた神主は鍵渡しをする。
とはいっても神事は夏季大祭と同じように大祓などを奏上するだけある。
始まるまでの空いた時間。
神饌所にある今では使っていない器があると棚から下ろしてくださったコジュウタに「上平四□(郎)右衛門寄進」の墨書がある。
何代も前の上平家の名だという。
その箱にはさまざまな形、大きさがある陶器を収めていた。
色合い、くすみの様相から材は明らかに古いように思えるカワラケがある。
裏面を返せば墨書文字があった。
「天正十三年(1585) 自天親王神社甲 五個ノ内四号」であろうか。
「乙酉」の文字でもあれば実証できるのだが・・・。
後年に書かれたような筆跡であるように見受けられるが、否定も肯定もこの段階ではできない。
同じ大きさのカワラケに「天正十三年(1585) 自天親王神社 五個ノ内三号」があることから5枚であったろう。
他にも古い器があるが年代を示すものはなかった。
なお、この箱の蓋に「薬師御□帳入」の墨書があった。
もしか、であるが、「薬師」の文字から思うに、薬師観音本尊を安置する福源寺の什物であるかも知れないが、たぶんにお盆に「ちゃんごかご」行事をされる神社隣接の元安楽寺の薬師堂である可能性が高い。
なぜなら、福源寺に伝わる本尊薬師如来座像は神仏分離令が飛び交う明治時代に元安楽寺薬師堂から移したという座像。
胎内に「藤原宗高大施主 仏師僧禅大法師 応徳二年(1085)十一月日」と書かれた墨書があるそうだ。
その本尊を尊ぶ薬師観音大祭の営みがある。
平成20年の4月8日に取材させてもらった行事である。
歴史を知るかつての什物に感動しておれば「予定していた時刻を過ぎてしまった」という神主。
そろそろ始めたいと云って鍵渡しの神事に入った。
神事に大祓などを奏上するのは現村神主のオトウト。
夏季大祭と同じように神事が行われるが、一般的にみられるサカキは高原に登場しない。
夏季大祭に供えた御供は下げずに行われる。
粛々と始められる鍵渡しの神事であるが、夏季大祭と同様に拝殿に向かって大祓の奏上。
「皇社皇宗遥拝所」の場に移って「天地一切清浄祓」を奏上。
小宮に移って「六根清浄大祓」。
二社さんに「一切成就祓」を奏上して終える。
本殿などの鍵はこうした神事を終えて引き受ける次神主に引き継がれる。
かつては神事があったという。
この日の夜中にしていた。
本殿の前に座って黙々と引き継がれた。
この日まで務めた神主は引退する旨を引き受ける神主に言い渡された。
鍵渡しと呼ぶ神主の引継ぎはこの日の夏季大祭以外にもうひとつある。
それは11月に行われる霜月大祭の日。
アニとオトウト神主揃って引継ぎではなく、例えば1回目は夏季後にアニ神主とすれば2回目の霜月後はオトウト神主となる。
もっとややこしいのは夏季大祭に受けた神主が次に引き渡すのは翌年の霜月大祭の日。
の霜月大祭に受けた神主が次に引き渡すのは翌々年の夏季大祭。
つまり一年間でなくそれ以上の期間を勤める二人神主制なのだ。
滞りなく引継ぎされると『高原氏神正一位十二社権現 神主記録』帳に日付、曜日、天候、氏名、特記事項などを記載されて役目を終えた。
ところでこの日に引退されたアニ神主のOさんは「ゲー」を切る作法があったと云う。
それは「ゲイキリ」とも呼んだ作法。
三日三晩、清めに籠った。
三日間とも籠るに食事がいる。
その料理は籠る神主が作った。
一人で調理して一人でいただく潔斎籠り。
サカキの葉を口に銜えて高原にある地域の神さんすべてを巡ってお参りをする。
衣装は裃と決まっていた「ゲイキリ」の作法であるが、今は見られない。
(H28. 6.10 EOS40D撮影)
平成22年9月30日に行われたマツリの宵宮に搗くモチツキ。
翌日のマツリも訪れたが、その日はマツリを終えた午後4時過ぎ。
前日のお礼を兼ねて訪れたのを最後に高原行きは永らく中断した。
その理由は台風12号襲来によって起こった巨大な深層崩落による土砂崩れだった。
崩落の規模は高さが300mで幅は100mにもおよぶようだ。
人的な被害はなかった崩落だったので救われるが、高原入りが遠のく一因でもあった。
遠のく因はもう一つある。
遠出がなかなかできなくなった時代を迎えたのだ。
翌年の平成23年1月に奈良県教育委員会文化財課職員から奈良県緊急伝統芸能調査を頼まれたことである。
県や在住する大和郡山市から委嘱された調査は3カ年。
精魂込めて調査した。
すべてが終わって分厚い報告書が発刊されたのは平成26年6月。
調査員の仕事はやっとのことで解放された。
が、翌年の平成27年は大病。
長期間に亘る闘病生活が待っていた。
完全復帰でもない身体になったが、動ける範囲内で調査取材を続けていくことにした。
思いもかけない写真家Kとの出会いが端を発してこれまで伺った取材先に再訪する機会が与えられた。
この日に訪れた高原もその一つである。
昭和44年の高原住民は480人になっていた。
それより10年前の昭和34年9月。
伊勢湾台風によって800人も住んでいた高原は壊滅的な被害に遭遇した。
土地が崩落して土砂で埋もれた神社傍の谷会いに被害にあった村人が静かに眠っているという。
そのような経緯もあった高原。
当時の戸数は73戸。
正月のときに一軒、一軒に御供を配っていたという。
高原は曹洞宗派。
曹洞宗、臨済宗などの中国禅宗五家の一つ。
日本では曹洞宗の他に日本達磨宗、臨済宗、黄檗宗、普化宗がある。
本日、行われる高原の行事は十二社氏神神社の夏季大祭に村神主の引継ぎがある鍵渡しである。
神社には4人の男性がおられた。
うち、一人のお顔は存じている。
かつて行事取材にお世話になった元区長のUさんだが、すっかりお忘れになられたようだ。
他の3人は初めてお会いするが、一人は顔を覚えている。
何度も、何度も繰り返して拝見していたマツリのときに行われる人寄せの御供撒きである。
掛け声をかけながら先頭を走る男性の顔はすっかり目に焼き付いている。
もしかとして平成15年10月1日に撮っていた携帯電話の動画を見てもらう。
なんとなくそうだと云う男性はNさんだった。
ところでこの日に渡したい写真があった。
それは平成22年9月30日に行われたマツリの宵宮に搗くモチツキの様相である。
搗いたモチを棒のような長細いモチにしている写真である。
それを見たOさんが云った。
「その棒モチは「ネコモチ」と呼ぶ。ネコモチを包丁で切断しているのが私だ」と云った。
良き出会いの写真に喜んでもらった。
この日、夏季大祭後に引継ぎされるアニ神主。
オトウト神主のUさんとともに一年間の神社行事に祭祀される二人だった。
そういう話しをして旧来から取材していたことに納得された現アニ神主のOさんは区長も兼務されている。
もう一人は現オトウト神主のOさん。
アニとオトウトと呼ぶのは年齢が単に年上・年下であるということだ。
かつては55歳になれば神主役を務めていたようだ。
許可をいただいて取材に上がらせてもらった参籠所。
この部屋だけは絶対に入ってはならないと釘をさすその場は神饌などを調製する部屋。
神聖な場所は神主しか入ることのできない神饌所である。
「干時文久二歳(1862)壬戌 祝 八月新調」の墨書文字が見られる御供箱。
オカモチ風の御供箱は寄進した三人の名(神主 善兵衛 長右衛門 四□左衛門)がある。
その反対側には12人の名を墨書した十貮人の連名がある。
驚くべきことに12人とも名字があったからそれぞれが特定家であったようだ。
それはともかく、神饌所は炊事場でもある。
大きな炊飯器で炊いたご飯は器に詰め込む。
器の形は尖がりのない三角錐。
径の広い側から詰め込む形になっている。
詰め込んだ器は高坏に盛る。
これを「タキゴク」と呼ぶ。
「タキゴク」を充てる漢字は「炊き御供」に違いないが、枠に詰め込んで型をとる形態から申せば、多くの県内事例でみられる「モッソ」である。
充てる漢字は物相。地域によっては「モッソウ」の呼び名もある「モッソウ飯」である。
「タキゴク」を運ぶための道具がある。
いわゆる御供箱であるが、それには江戸時代末期の「干時文久二歳(1862)八月新調」の墨書があった。
オカモチ風の取っ手があるから運びやすい。
三つ作ればもう人揃えの「タキゴク」も調製する。
これら六つの「タキゴク」は上に低い高坏、下に高い高坏を並べて本殿下の祭壇に供える。
御供は他にもある。
前日に4人の村神主が搗いた餅は大鏡餅に小鏡餅がある。
本殿は大鏡餅であるが小宮さん、八幡さんなどの末社は小鏡餅になる。
これらの餅は神主家で搗いた。
前日の餅搗きは杵搗き。
宵宮の場合と同じの杵搗き。
用意したモチゴメは9kg。
二臼も搗いたと云う。
御供にもう一つ。
県内事例ではあまり見ることのない「カケダイ」がある。
充てる漢字は「掛鯛」。
そのものであるが、同じような形態で行事の際に供える地域は極めて少ない。
私が拝見した事例は2地域。
一つは奈良市川上町の祇園社ならびに川上蛭子神社の蛭子祭。
もう一つは田原本町蔵堂の恵比寿社の三夜待ち。
いずれもエビスサンを祭る行事である。
高原の氏神神社には恵比寿社の存在がないようだけに特別なものを感じる。
カケダイの姿も含めてご厚意で撮らせていただいた。
なお、カケダイはこの日の夏季大祭だけでなく元日祭祀の元旦祭やマツリの秋季大祭にも供えられるようだ。
かつては11月の霜月大祭にもあったが、である。
こうしてすべての御供の調整が終われば本社、末社など神饌御供を並べて夏季大祭の神事が行われる。
参拝者の姿は見られず四人の村神主が粛々と行われる。
その際にはカケダイを供えた本殿に御簾を下ろされる。
一人の現神主が本殿に上がって神事をする。
神主はアニにオトウトの二人。
神事ごとは交替しているという。
本殿に向かって一同は拝礼する。
始めに拝殿で禊ぎ祓い。
次は本殿に登って大祓詞。
本殿に登るさいには草履を脱いで左足を先に社殿に登り、御簾を上げる。
次は夏季大祭の大祓奏上。
次は「皇社皇宗遥拝所」の場に移って「天地一切清浄祓」を奏上する。
村神主曰く神武天皇以下の第五十五代文徳天皇までの天皇を遥拝する場であると云う遥拝所前に供えた二段重ねの小鏡餅は六つ。
小宮は六社。
太政大臣、中納言、少将、中将・・など六人を祀る。
そこも同じように六つの二段重ねの小鏡餅を供えていた。
「皇社皇宗遥拝所」の次は小宮に移る。
唱える詞は「六根清浄大祓」。
次は二社さんと呼ばれる社殿に移って「一切成就祓」になる。
こうして神事を終えた四人は揃って直会の会食。
頼んでおいたパック詰め料理でお神酒をいただく。
十二人衆のミナライに4人の継後(けいご)が存在する。
4人は年齢順に繰り上がって十人衆を務めていた。
今日の勤めをした四人の神主は平成12年に務めた十二人衆。
年齢が近いこともあって四人の仲が良いという。
それから数時間後。
直会を終えた神主は鍵渡しをする。
とはいっても神事は夏季大祭と同じように大祓などを奏上するだけある。
始まるまでの空いた時間。
神饌所にある今では使っていない器があると棚から下ろしてくださったコジュウタに「上平四□(郎)右衛門寄進」の墨書がある。
何代も前の上平家の名だという。
その箱にはさまざまな形、大きさがある陶器を収めていた。
色合い、くすみの様相から材は明らかに古いように思えるカワラケがある。
裏面を返せば墨書文字があった。
「天正十三年(1585) 自天親王神社甲 五個ノ内四号」であろうか。
「乙酉」の文字でもあれば実証できるのだが・・・。
後年に書かれたような筆跡であるように見受けられるが、否定も肯定もこの段階ではできない。
同じ大きさのカワラケに「天正十三年(1585) 自天親王神社 五個ノ内三号」があることから5枚であったろう。
他にも古い器があるが年代を示すものはなかった。
なお、この箱の蓋に「薬師御□帳入」の墨書があった。
もしか、であるが、「薬師」の文字から思うに、薬師観音本尊を安置する福源寺の什物であるかも知れないが、たぶんにお盆に「ちゃんごかご」行事をされる神社隣接の元安楽寺の薬師堂である可能性が高い。
なぜなら、福源寺に伝わる本尊薬師如来座像は神仏分離令が飛び交う明治時代に元安楽寺薬師堂から移したという座像。
胎内に「藤原宗高大施主 仏師僧禅大法師 応徳二年(1085)十一月日」と書かれた墨書があるそうだ。
その本尊を尊ぶ薬師観音大祭の営みがある。
平成20年の4月8日に取材させてもらった行事である。
歴史を知るかつての什物に感動しておれば「予定していた時刻を過ぎてしまった」という神主。
そろそろ始めたいと云って鍵渡しの神事に入った。
神事に大祓などを奏上するのは現村神主のオトウト。
夏季大祭と同じように神事が行われるが、一般的にみられるサカキは高原に登場しない。
夏季大祭に供えた御供は下げずに行われる。
粛々と始められる鍵渡しの神事であるが、夏季大祭と同様に拝殿に向かって大祓の奏上。
「皇社皇宗遥拝所」の場に移って「天地一切清浄祓」を奏上。
小宮に移って「六根清浄大祓」。
二社さんに「一切成就祓」を奏上して終える。
本殿などの鍵はこうした神事を終えて引き受ける次神主に引き継がれる。
かつては神事があったという。
この日の夜中にしていた。
本殿の前に座って黙々と引き継がれた。
この日まで務めた神主は引退する旨を引き受ける神主に言い渡された。
鍵渡しと呼ぶ神主の引継ぎはこの日の夏季大祭以外にもうひとつある。
それは11月に行われる霜月大祭の日。
アニとオトウト神主揃って引継ぎではなく、例えば1回目は夏季後にアニ神主とすれば2回目の霜月後はオトウト神主となる。
もっとややこしいのは夏季大祭に受けた神主が次に引き渡すのは翌年の霜月大祭の日。
の霜月大祭に受けた神主が次に引き渡すのは翌々年の夏季大祭。
つまり一年間でなくそれ以上の期間を勤める二人神主制なのだ。
滞りなく引継ぎされると『高原氏神正一位十二社権現 神主記録』帳に日付、曜日、天候、氏名、特記事項などを記載されて役目を終えた。
ところでこの日に引退されたアニ神主のOさんは「ゲー」を切る作法があったと云う。
それは「ゲイキリ」とも呼んだ作法。
三日三晩、清めに籠った。
三日間とも籠るに食事がいる。
その料理は籠る神主が作った。
一人で調理して一人でいただく潔斎籠り。
サカキの葉を口に銜えて高原にある地域の神さんすべてを巡ってお参りをする。
衣装は裃と決まっていた「ゲイキリ」の作法であるが、今は見られない。
(H28. 6.10 EOS40D撮影)