桜井市の横柿に鎮座する戸隠(とがくし)神社を探していた。
これより一週間前にも探していた。
集落民家におられた若い男性に尋ねたが「判らない」と云う。
この日は婦人がおられた。
マツリに出ることもない婦人も所在地を知らないという。
おそらく山の上の方であろうと判断して歩いた。
林道らしき舗装された山道がある。
そこを登っていく。
歩くこと30分、峠になるような山道の先は袋小路だ。
どことなく見渡せば、さらに奥深い処に真新しい坂道があった。
神社に向かう参道である。
階段は整備された木道である。
さらに登っていけば、注連縄を張った朱塗りの鳥居があった。
注連縄は左右二本の竹に掛けてあった。
竹の下を見れば何日か前に降った雨で弾けた泥がついていた。
そこが戸隠神社である。
本殿はご神体のイワクラに建てている。
ひっそりと佇む神社には誰一人いない。
辺りを見渡せば、拝殿前に山の仕事道具を吊り下げていた。
カマ、オノ、ヨキ、ノコギリに2枚のクワの歯。
それぞれ杉板で象った道具である。
その下には昨年のものと思われる山の仕事道具がある。
これらは「亥の子マツリ」に寄せた山の神へ捧げる「七つ道具」であろう。
神社の様相を見届けて登ってきた林道を下る。
傍らには道祖神を祀ったと思われる石仏、地蔵仏などが並んでいた。
村の人たちが安置した石仏群は優しいお顔。
思わず手を合わせた。
尋ねた婦人が云うには今年の当屋さんは区長家。
川向こう岸にある家がそうだと聞いて訪ねた。
当屋家には79歳の母親がおられた。
本来なら亥の子マツリの七つ道具を奉じるのは6日であるが、サラリーマンであるゆえ平日は休むことができずに直近の日曜日にされたと云う。
7日は山の神さんの日。
大昔は山へ伐りだしにでかけていたが、今は山へ行くこともないし、山の仕事もしない。
7日は山の神さんも山仕事を休む日であるから、山師もしっかり休んで英気を養う日だと云う。
この日拝見した注連縄張りの青竹は当屋家の手伝いさんが立てたそうだ。
母親のマツリ話しはさらに続く。
マツリ前日の5日は、竃で小豆餡をこしらえて、炊いたウルチ米に塗して親戚中に配っていた。
トウノイモの頭はヤツガシライモ。
さいの目切りにして細かくしたイモは繋ぎにする。
「半ゴロシ」と云ってイモを半分ぐらいに潰す。
それをウルチ米・餅米とともに入れて炊いた。
小豆餡は砂糖と水飴を入れて作る。
八木の町で勤めていたおじいさんが饅頭屋だった。
そこで手に入れた水飴を入れるとテリ(照り)がついて奇麗にできたと話す。
秋の収穫が終わって作っていた小豆餡はヤツガシライモで炊いたメシに塗した。
収穫が無事に終わったという印に親戚じゅうに配ったと母親が話した食べ物の姿。
おそらく亥の子の日に作って食べるイモボタであると思ったが、その在り方は随分前に途絶えたようだ。
亥の子マツリの日の夕ご飯はトウノイモの頭と炊いたコンニャク、ゴボウを交互に竹串に挿して入れ物に置いた。
それが亥の子マツリのお供えで、下げて夕ご飯のおかずにしたそうだ。
山の弁当だと云うホオの葉に包んだ俵型に作ったオニギリも作って神社に供えていた。
終秋にはホオの葉がない。
仕方ないから採ってきたバランを敷いてオニギリを供えようとしたが、息子の当屋が断ったと云う。
村には宝積寺(ほうせきじ)がある。
集会所が完成して、預けてあった仏さんを移す作業もあって何かと忙しい区長役だそうだ。
さて、10月27日は村の座をしたマツリやったと話す婦人。
上の神さんと呼ばれる戸隠神社、下の神さんと呼ばれる御年(みとし)神社のマツリはかつて別々に行われていた。
「どっちの神さんか判らんけれど、道にしまわれているので」、遅れて帰って祭っていたが、過疎化した今では第三日曜日に移して二社祭典として一緒にするようになったと云う。
ある記録によれば現在地に鎮座する戸隠神社はかつて御年神社であったが、大正七年頃に分霊を勧請し下に祀った神社を御年神社と呼ぶようになり、旧社地を戸隠神社としたようだ。
昭和32年に発刊された『桜井町史続 民俗編』によれば、今では戸隠神社と呼んでいる九頭神さんに参っていたとある。
訪ねた当屋家は今年が当たり年だったそうだ。
8年に一度の村の廻りの八講さんの講(談山権現講であろうか)も勤めたと云う。
かつてはお寺(宝積寺であろうか)に(藤原鎌足像の)掛軸を掲げて礼拝していた。
8年前に勤めた区長が持っていた謡い(高砂・四海楼であろう)のテープを流して礼拝するが、今では談山神社で行っていると云う。
隣村の大字北山は過疎化によって継続することが難しくなりいち早く逃げたと云う。
同市周辺大字の生田(おいだ)、浅古(あさこ)、下(しも)、倉橋、下居(おりい)<針道・鹿路ともに>、今井谷(いまいだに)、大正九年に大字北音羽が退いて八講入りした多武峰(とおのみね)・八井内(やいない)・飯盛塚(いいもりづか)の各村が毎年交替して礼拝する八講祭は、平成26年が廻りの今井谷。
平成18年4月2日に行われた地は村の満願寺であった。
藤原鎌足父子肖像および寒山拾得の掛軸を掲げて談山神社の神職が祭典を行っていた。
他村では談山神社の神廟拝所でされていることは存知している。
唯一残る村の在り方であった今井谷。
8年ぶりに訪れてみたい村の八講祭は継承されているのだろうか。
(H25.12. 6 EOS40D撮影)
これより一週間前にも探していた。
集落民家におられた若い男性に尋ねたが「判らない」と云う。
この日は婦人がおられた。
マツリに出ることもない婦人も所在地を知らないという。
おそらく山の上の方であろうと判断して歩いた。
林道らしき舗装された山道がある。
そこを登っていく。
歩くこと30分、峠になるような山道の先は袋小路だ。
どことなく見渡せば、さらに奥深い処に真新しい坂道があった。
神社に向かう参道である。
階段は整備された木道である。
さらに登っていけば、注連縄を張った朱塗りの鳥居があった。
注連縄は左右二本の竹に掛けてあった。
竹の下を見れば何日か前に降った雨で弾けた泥がついていた。
そこが戸隠神社である。
本殿はご神体のイワクラに建てている。
ひっそりと佇む神社には誰一人いない。
辺りを見渡せば、拝殿前に山の仕事道具を吊り下げていた。
カマ、オノ、ヨキ、ノコギリに2枚のクワの歯。
それぞれ杉板で象った道具である。
その下には昨年のものと思われる山の仕事道具がある。
これらは「亥の子マツリ」に寄せた山の神へ捧げる「七つ道具」であろう。
神社の様相を見届けて登ってきた林道を下る。
傍らには道祖神を祀ったと思われる石仏、地蔵仏などが並んでいた。
村の人たちが安置した石仏群は優しいお顔。
思わず手を合わせた。
尋ねた婦人が云うには今年の当屋さんは区長家。
川向こう岸にある家がそうだと聞いて訪ねた。
当屋家には79歳の母親がおられた。
本来なら亥の子マツリの七つ道具を奉じるのは6日であるが、サラリーマンであるゆえ平日は休むことができずに直近の日曜日にされたと云う。
7日は山の神さんの日。
大昔は山へ伐りだしにでかけていたが、今は山へ行くこともないし、山の仕事もしない。
7日は山の神さんも山仕事を休む日であるから、山師もしっかり休んで英気を養う日だと云う。
この日拝見した注連縄張りの青竹は当屋家の手伝いさんが立てたそうだ。
母親のマツリ話しはさらに続く。
マツリ前日の5日は、竃で小豆餡をこしらえて、炊いたウルチ米に塗して親戚中に配っていた。
トウノイモの頭はヤツガシライモ。
さいの目切りにして細かくしたイモは繋ぎにする。
「半ゴロシ」と云ってイモを半分ぐらいに潰す。
それをウルチ米・餅米とともに入れて炊いた。
小豆餡は砂糖と水飴を入れて作る。
八木の町で勤めていたおじいさんが饅頭屋だった。
そこで手に入れた水飴を入れるとテリ(照り)がついて奇麗にできたと話す。
秋の収穫が終わって作っていた小豆餡はヤツガシライモで炊いたメシに塗した。
収穫が無事に終わったという印に親戚じゅうに配ったと母親が話した食べ物の姿。
おそらく亥の子の日に作って食べるイモボタであると思ったが、その在り方は随分前に途絶えたようだ。
亥の子マツリの日の夕ご飯はトウノイモの頭と炊いたコンニャク、ゴボウを交互に竹串に挿して入れ物に置いた。
それが亥の子マツリのお供えで、下げて夕ご飯のおかずにしたそうだ。
山の弁当だと云うホオの葉に包んだ俵型に作ったオニギリも作って神社に供えていた。
終秋にはホオの葉がない。
仕方ないから採ってきたバランを敷いてオニギリを供えようとしたが、息子の当屋が断ったと云う。
村には宝積寺(ほうせきじ)がある。
集会所が完成して、預けてあった仏さんを移す作業もあって何かと忙しい区長役だそうだ。
さて、10月27日は村の座をしたマツリやったと話す婦人。
上の神さんと呼ばれる戸隠神社、下の神さんと呼ばれる御年(みとし)神社のマツリはかつて別々に行われていた。
「どっちの神さんか判らんけれど、道にしまわれているので」、遅れて帰って祭っていたが、過疎化した今では第三日曜日に移して二社祭典として一緒にするようになったと云う。
ある記録によれば現在地に鎮座する戸隠神社はかつて御年神社であったが、大正七年頃に分霊を勧請し下に祀った神社を御年神社と呼ぶようになり、旧社地を戸隠神社としたようだ。
昭和32年に発刊された『桜井町史続 民俗編』によれば、今では戸隠神社と呼んでいる九頭神さんに参っていたとある。
訪ねた当屋家は今年が当たり年だったそうだ。
8年に一度の村の廻りの八講さんの講(談山権現講であろうか)も勤めたと云う。
かつてはお寺(宝積寺であろうか)に(藤原鎌足像の)掛軸を掲げて礼拝していた。
8年前に勤めた区長が持っていた謡い(高砂・四海楼であろう)のテープを流して礼拝するが、今では談山神社で行っていると云う。
隣村の大字北山は過疎化によって継続することが難しくなりいち早く逃げたと云う。
同市周辺大字の生田(おいだ)、浅古(あさこ)、下(しも)、倉橋、下居(おりい)<針道・鹿路ともに>、今井谷(いまいだに)、大正九年に大字北音羽が退いて八講入りした多武峰(とおのみね)・八井内(やいない)・飯盛塚(いいもりづか)の各村が毎年交替して礼拝する八講祭は、平成26年が廻りの今井谷。
平成18年4月2日に行われた地は村の満願寺であった。
藤原鎌足父子肖像および寒山拾得の掛軸を掲げて談山神社の神職が祭典を行っていた。
他村では談山神社の神廟拝所でされていることは存知している。
唯一残る村の在り方であった今井谷。
8年ぶりに訪れてみたい村の八講祭は継承されているのだろうか。
(H25.12. 6 EOS40D撮影)