
我が家の図書棚にすっかりおさまっていた季刊誌がある。
昭和56年10月号から62年10月号まで揃っている『季刊明日香風』だ。
なぜだか、全巻は揃っていない。
たぶんに買い忘れであろう。
FBで欠番になっていたある号が欲しいという人が現われた。
どうぞ、と云って差し上げたい旨を伝えたが、見つかったらしい。
埃に塗れていた我が家の図書棚にあった『季刊明日香風』はこのことをキッカケに頁を捲ることになった。
当時の主眼は古代のことを知る、ことである。
「民俗」のこれっぽちも興味をもっていなかった。
パラパラと捲る頁に明日香村の伝統行事が載っていた。
えっと驚く行事もあれば、近年において取材した行事もある。
昭和56年と云えば、今から数えて35年前。
出合いは我が家の図書棚にあった。
時期は6月。
現状を調べてみたいと思った行事が載っていた。
昭和62年4月刊の『季刊明日香風』にあった「明日香村の民俗点描」は田植え終わりに供える「サナブリ」である。
記事にあった大字は明日香村の上。
一文字の「上」と書いて「かむら」と呼ぶ大字である。
ここでは6月12日と決めている家もあるようだが、供えものは同じであろう。
三把の苗さんを一つに結ぶ。
アカメシ(赤飯)のオニギリは三つ。
形は丸みのある平太鼓のように見える。
それは燈明やお神酒とともに竃の上に供える、とあった。
いわゆる家サナブリである。
今でもされているのか、それを知りたくて、大字上(かむら)を訪れた。
車を停めた場に近いところにお家が建っていた。
造りは旧家である。
その家の前におられた男性に声をかけた。
物は試しと思ってサナブリの苗さんを尋ねてみた。
「それならうちのばあさんがしている」というのだ。
これには驚いた。
当家の田植えは一週間前。
今年は6月5日に済ませた。
その日に供えたのが三把の苗さん。
家の炊事場に塩、洗米、お神酒とともに供える。
豆腐やお菓子も供えたようだが・・・。
かつては三宝荒神さんと呼んでいた場に供えた翌日は外に持ち出す。
場は当家より急な坂道を登った処にある庚申さんだ。
その場で三巻の般若心経を唱えたというおばあさん垣内の婦人たちとともに参拝したそうだ。
家サナブリをしていたおばあさんは男性の母親だった。
台所の神さん、火の神さんがあるヘッツイさんと呼んでいた竃の神棚に供えていたらしい。
案内してもらった庚申さんはたしかに急な坂道を登った処にある。
一週間前に供えた三把の苗さんは枯れていた。
かつては藁紐で結んでいたと思われる苗さん。
いまではPP紐で結んでいる。
苗は枯れているが、何故か立てた花はまだ花らしさを保っている。
男性は62歳のFさん。
人懐っこい表情にさまざまなことを教えてくださった。
大字上(かむら)に神社がある。
鎮座する地に名前がある。
それは「もうこの森」と呼ぶ。
その名の起こりは大化二年(645)の大化改新。
飛鳥板蓋宮で藤原鎌足が暗殺した蘇我入鹿の首に追われて同地に逃れてきた。
そして、云った。
ここまでは「もうこんやろ」。
関西弁でそう云ったのはFさんだが、おそらくは「もう来ないだろう」であろうが、標準語というのもなんとなく可笑しいように思える。
ちなみに「もうこ」を充てる漢字は「茂古」であるらしい。
ちなみに神社名は気都和既(けつわき)神社。
延喜式神名帳に載る古社は隣村の細川や尾曽(上尾曽・下尾曽)の三カ大字によってサナブリ行事をしているという。
それは家で行われるサナブリに対して村サナブリと云われる村行事。
村の田植えのすべてが終わって豊作を願う村行事である。
大字上(かむら)は一文字。
飛鳥や細川から見れば上(かみ)の村。
こういう事例は県内でよくあることだ。
「上にある村」と考えるのが妥当な線だと思う。
つまりは「かみのむら」。
これが縮まって「かむら」。
そう考えれば納得がいく。
かつて下流の細川で彷徨ったことがある。
細い道を右往左往。
急な坂道に車を前進。
はたまたバックに入れて方向転換しているときに嵌った。
細い水路にタイヤを落としてしまった。
携帯電話もない時代。
近くにある民家に頼み込んで電話を貸してもらった。
救急にすがったのは自動車保険。
レッカー車が当地まで救いに来てくれた。
それ以来、私にとっては危険な地域。
再び人様の世話になってはいけないと思って足は遠のいた。
そのときから上流に向かう新道があったことは覚えているが、全線は未開通だった。
この日に訪れたときは新道利用。
どこまで行けるのか、試したくて走り続けたら桜井市多武峰に鎮座する談山神社の駐車場だった。
お土産も売っている駐車場まで続いていることなんてまったく知らなかった。
Fさんの話しによれば、談山神社へ通じる自動車道は10年前に開通したそうだ。
便利になった反面、「かなわんことも多くなった」というFさん。
田んぼや畑で耕作をしていた息子さんが無断で写真を撮られてしまったという。
勝手に撮られるのは敵わんと云って怒っていたそうだ。
話しは替わるが、Fさんが云う「下の人」。
「下の人」とは都会の人。
大字上(かむら)で育ったFさんがおやつに食べていたのは農作物のトマトやマッカにスイカ。
都会の人はお菓子やったと思うが、ここらでおやつと云えば農作物の果物だったと回顧される。
その大字上(かむら)でもアイスキャンデーを売りに来た人がいるらしい。
急な坂道を押してだと思うが、自転車で売りに来ていたと云う。
10年前どころかもっと前のことであろう自転車売りのアイスキャンデーは私が育った大阪市内の住之江でもあった。
大和川の堤防を走っていたような気がするが、それは映画の世界かもしれない子供の頃である。
ちなみにFさんの家には庚申さんに供えた塔婆の木がある。

かつては旧暦閏年に行われていた閏庚申さん行事に供えた葉なし樫の木の塔婆である。
願文も見られたが文字は判読できないが、お爺さんが書いていたと云う。
降ろしてあげようと云われたが後日に・・とした。
大字上(かむら)は当地4軒がある上出垣内と下(しも)にある下出垣内の2垣内。
庚申講があるのは上出垣内だけのようだ。
閏庚申行事を「モウシアゲ」と呼んでいる上出垣内。
私が知る範囲内であるが、明日香村では「モウシアゲ」と呼ぶ地域が多い。
祝戸、稲渕、平田、奥山、飛鳥、八釣、東山、阿部山、大根田に立部であるが、今でもされているかどうかは存知しない。
また、近隣村の桜井市・高取町の一部においても「モウシアゲ」の呼び名がある。
桜井市は山田、高家。高取町は越智であるが、他村にもあるような気がする。
なお、上出垣内の庚申講は60日おきに庚申さんの掛軸を掲げて祭りをしているらしい。
本来ならば庚申さんの日であるが、今はそれに近い日に廻り当番の家に集まるようだ。
そんな話題を提供してくれるF家は母屋。
垣内に分家のF家がある。
話し具合からやってきたFさんは総代。
3月の第三日曜日に「八講(はっこう)」さんの行事をしているという。
頑丈に建てられた薬師堂が村にある。
小仏の薬師如来さんはヤカタに収めて祭っている。
小仏は藤原鎌足公。
年に一度の開帳に飛鳥神社の飛鳥宮司が祈祷してくれるという。
話題が尽きない大字上(かむら)行事の数々。
1月15日は炊いたアズキガユ(小豆粥)を供える。
粥はビワの葉(入手できない場合はカキの葉)に乗せて供える。
ビワの葉は裏を表にしてそこへ盛るが、その数、なんと50枚にもおよぶそうだ。
アズキガユはアズキメシであるかもしれないが、50枚もあるということから供える処が50カ所。
家の神棚に戸口や庚申さんも。
かつては火を焚いていた竃にも供えた。
田んぼまで供えているというからありとあらゆる処に供えるのであろう。
ちなみにアズキガユは4軒で行っているトンド焼きの火をもらって炊いている。
以前は決まった日であったが、今では村の初集会の日。
おそらく正月初めの日曜日であるかもしれない。
話題は戻すが、『季刊明日香風』に載っていた家サナブリの供え物。
写真をじっくり見ればお札のように見えるモノがある。
おばあさんが云うには、そのお札はタネマキのときにお花を添えてお札を田んぼに立てていたそうだ。
横、水平にあるのがお札。
そこに書いてあった文字は「うるち米」に「もち米」とか。
「早稲」の文字も書いていたとか・・・である。
そのお札は割った竹に挟んでいたという。
もしかとしたら、この写真は我が家であるかも知れないと云う。
ただ、改築する前の様相のようであるが、黒色の戸棚が思いさせないと云う。
それにしても我が家に恵比寿さんの扇はあったかな・・・であった。
(H28. 6.12 EOS40D撮影)
昭和56年10月号から62年10月号まで揃っている『季刊明日香風』だ。
なぜだか、全巻は揃っていない。
たぶんに買い忘れであろう。
FBで欠番になっていたある号が欲しいという人が現われた。
どうぞ、と云って差し上げたい旨を伝えたが、見つかったらしい。
埃に塗れていた我が家の図書棚にあった『季刊明日香風』はこのことをキッカケに頁を捲ることになった。
当時の主眼は古代のことを知る、ことである。
「民俗」のこれっぽちも興味をもっていなかった。
パラパラと捲る頁に明日香村の伝統行事が載っていた。
えっと驚く行事もあれば、近年において取材した行事もある。
昭和56年と云えば、今から数えて35年前。
出合いは我が家の図書棚にあった。
時期は6月。
現状を調べてみたいと思った行事が載っていた。
昭和62年4月刊の『季刊明日香風』にあった「明日香村の民俗点描」は田植え終わりに供える「サナブリ」である。
記事にあった大字は明日香村の上。
一文字の「上」と書いて「かむら」と呼ぶ大字である。
ここでは6月12日と決めている家もあるようだが、供えものは同じであろう。
三把の苗さんを一つに結ぶ。
アカメシ(赤飯)のオニギリは三つ。
形は丸みのある平太鼓のように見える。
それは燈明やお神酒とともに竃の上に供える、とあった。
いわゆる家サナブリである。
今でもされているのか、それを知りたくて、大字上(かむら)を訪れた。
車を停めた場に近いところにお家が建っていた。
造りは旧家である。
その家の前におられた男性に声をかけた。
物は試しと思ってサナブリの苗さんを尋ねてみた。
「それならうちのばあさんがしている」というのだ。
これには驚いた。
当家の田植えは一週間前。
今年は6月5日に済ませた。
その日に供えたのが三把の苗さん。
家の炊事場に塩、洗米、お神酒とともに供える。
豆腐やお菓子も供えたようだが・・・。
かつては三宝荒神さんと呼んでいた場に供えた翌日は外に持ち出す。
場は当家より急な坂道を登った処にある庚申さんだ。
その場で三巻の般若心経を唱えたというおばあさん垣内の婦人たちとともに参拝したそうだ。
家サナブリをしていたおばあさんは男性の母親だった。
台所の神さん、火の神さんがあるヘッツイさんと呼んでいた竃の神棚に供えていたらしい。
案内してもらった庚申さんはたしかに急な坂道を登った処にある。
一週間前に供えた三把の苗さんは枯れていた。
かつては藁紐で結んでいたと思われる苗さん。
いまではPP紐で結んでいる。
苗は枯れているが、何故か立てた花はまだ花らしさを保っている。
男性は62歳のFさん。
人懐っこい表情にさまざまなことを教えてくださった。
大字上(かむら)に神社がある。
鎮座する地に名前がある。
それは「もうこの森」と呼ぶ。
その名の起こりは大化二年(645)の大化改新。
飛鳥板蓋宮で藤原鎌足が暗殺した蘇我入鹿の首に追われて同地に逃れてきた。
そして、云った。
ここまでは「もうこんやろ」。
関西弁でそう云ったのはFさんだが、おそらくは「もう来ないだろう」であろうが、標準語というのもなんとなく可笑しいように思える。
ちなみに「もうこ」を充てる漢字は「茂古」であるらしい。
ちなみに神社名は気都和既(けつわき)神社。
延喜式神名帳に載る古社は隣村の細川や尾曽(上尾曽・下尾曽)の三カ大字によってサナブリ行事をしているという。
それは家で行われるサナブリに対して村サナブリと云われる村行事。
村の田植えのすべてが終わって豊作を願う村行事である。
大字上(かむら)は一文字。
飛鳥や細川から見れば上(かみ)の村。
こういう事例は県内でよくあることだ。
「上にある村」と考えるのが妥当な線だと思う。
つまりは「かみのむら」。
これが縮まって「かむら」。
そう考えれば納得がいく。
かつて下流の細川で彷徨ったことがある。
細い道を右往左往。
急な坂道に車を前進。
はたまたバックに入れて方向転換しているときに嵌った。
細い水路にタイヤを落としてしまった。
携帯電話もない時代。
近くにある民家に頼み込んで電話を貸してもらった。
救急にすがったのは自動車保険。
レッカー車が当地まで救いに来てくれた。
それ以来、私にとっては危険な地域。
再び人様の世話になってはいけないと思って足は遠のいた。
そのときから上流に向かう新道があったことは覚えているが、全線は未開通だった。
この日に訪れたときは新道利用。
どこまで行けるのか、試したくて走り続けたら桜井市多武峰に鎮座する談山神社の駐車場だった。
お土産も売っている駐車場まで続いていることなんてまったく知らなかった。
Fさんの話しによれば、談山神社へ通じる自動車道は10年前に開通したそうだ。
便利になった反面、「かなわんことも多くなった」というFさん。
田んぼや畑で耕作をしていた息子さんが無断で写真を撮られてしまったという。
勝手に撮られるのは敵わんと云って怒っていたそうだ。
話しは替わるが、Fさんが云う「下の人」。
「下の人」とは都会の人。
大字上(かむら)で育ったFさんがおやつに食べていたのは農作物のトマトやマッカにスイカ。
都会の人はお菓子やったと思うが、ここらでおやつと云えば農作物の果物だったと回顧される。
その大字上(かむら)でもアイスキャンデーを売りに来た人がいるらしい。
急な坂道を押してだと思うが、自転車で売りに来ていたと云う。
10年前どころかもっと前のことであろう自転車売りのアイスキャンデーは私が育った大阪市内の住之江でもあった。
大和川の堤防を走っていたような気がするが、それは映画の世界かもしれない子供の頃である。
ちなみにFさんの家には庚申さんに供えた塔婆の木がある。

かつては旧暦閏年に行われていた閏庚申さん行事に供えた葉なし樫の木の塔婆である。
願文も見られたが文字は判読できないが、お爺さんが書いていたと云う。
降ろしてあげようと云われたが後日に・・とした。
大字上(かむら)は当地4軒がある上出垣内と下(しも)にある下出垣内の2垣内。
庚申講があるのは上出垣内だけのようだ。
閏庚申行事を「モウシアゲ」と呼んでいる上出垣内。
私が知る範囲内であるが、明日香村では「モウシアゲ」と呼ぶ地域が多い。
祝戸、稲渕、平田、奥山、飛鳥、八釣、東山、阿部山、大根田に立部であるが、今でもされているかどうかは存知しない。
また、近隣村の桜井市・高取町の一部においても「モウシアゲ」の呼び名がある。
桜井市は山田、高家。高取町は越智であるが、他村にもあるような気がする。
なお、上出垣内の庚申講は60日おきに庚申さんの掛軸を掲げて祭りをしているらしい。
本来ならば庚申さんの日であるが、今はそれに近い日に廻り当番の家に集まるようだ。
そんな話題を提供してくれるF家は母屋。
垣内に分家のF家がある。
話し具合からやってきたFさんは総代。
3月の第三日曜日に「八講(はっこう)」さんの行事をしているという。
頑丈に建てられた薬師堂が村にある。
小仏の薬師如来さんはヤカタに収めて祭っている。
小仏は藤原鎌足公。
年に一度の開帳に飛鳥神社の飛鳥宮司が祈祷してくれるという。
話題が尽きない大字上(かむら)行事の数々。
1月15日は炊いたアズキガユ(小豆粥)を供える。
粥はビワの葉(入手できない場合はカキの葉)に乗せて供える。
ビワの葉は裏を表にしてそこへ盛るが、その数、なんと50枚にもおよぶそうだ。
アズキガユはアズキメシであるかもしれないが、50枚もあるということから供える処が50カ所。
家の神棚に戸口や庚申さんも。
かつては火を焚いていた竃にも供えた。
田んぼまで供えているというからありとあらゆる処に供えるのであろう。
ちなみにアズキガユは4軒で行っているトンド焼きの火をもらって炊いている。
以前は決まった日であったが、今では村の初集会の日。
おそらく正月初めの日曜日であるかもしれない。
話題は戻すが、『季刊明日香風』に載っていた家サナブリの供え物。
写真をじっくり見ればお札のように見えるモノがある。
おばあさんが云うには、そのお札はタネマキのときにお花を添えてお札を田んぼに立てていたそうだ。
横、水平にあるのがお札。
そこに書いてあった文字は「うるち米」に「もち米」とか。
「早稲」の文字も書いていたとか・・・である。
そのお札は割った竹に挟んでいたという。
もしかとしたら、この写真は我が家であるかも知れないと云う。
ただ、改築する前の様相のようであるが、黒色の戸棚が思いさせないと云う。
それにしても我が家に恵比寿さんの扇はあったかな・・・であった。
(H28. 6.12 EOS40D撮影)