明日香村に冬野(ふゆの)あり。
石舞台の地からおよそ7kmの片道距離。
そんなに遠くはないと思うが、到達時間は、20分以上もかかる。
いくつかの行事を取材させてもらった上(かむら)から見た対岸の山。
林に囲まれた山内にある冬野地区。
初めて冬野入りした日は平成29年の9月9日だった。
目的とする波多神社を探していたが、撮影隊が冬野入りを許さない。
そんなことに遭遇するなんて、予想だにしなかった。
日をあらためて再訪した日は、一週間後の9月14日。
手を広げて村入りを制止した撮影隊はいなかった。
その日にお会いできた地区総代のIさん。
一週間前に訪れたとき、鬱陶しい扱いをされた件を伝えたら、やはりそうだったか、と・・。
「彼らの行動は、鼻持ちならん。監督(吉野を舞台に主人公の山守が暮らした家屋のロケ地冬野に撮影した『Vision』)か、どうか知らんが、立ち振る舞いがなっとらん。スタッフ同様に挨拶もなっとらん。撮影に駐車できる場を許可したが、違うところに・・。村で一番大事な防火槽の真上に停めよった。2度と来てほしくない質の悪い連中だった」、と・・。
ここ冬野にやってきたのは、昭和62年3月に発刊された飛鳥民俗調査会の調査報告書。
『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯(集)』掲載されている波多神社行事の取材、許可取りである。
「9月14日の例祭。座の行事に既製のオカリヤを建て、注連縄を張る。昼前に篠竹で作った御幣を立てる。朱塗り膳に盛った神饌を供える、祭典後には、馳走がある。焼物はハマチか、カツオ。食後に、オカリヤならびに御幣持ちが神社式典に就く。終えたら、次の頭屋家へオカリヤを送り、受けた頭屋は一年間の毎月の1日、15日に御供をする」、とあったが、この年は、都合、日程を替えて斎行された。
また、神社祭典に飛鳥坐神社の飛鳥宮司が御湯をしていた、という。
行事取材は翌年送りになったが、毎年の8月17日は、観音講の行事をしている、という。
あれからほぼ一年後の8月17日。
冬野に一つの行事がようやく出会える。
朝から村人総出で観音堂も境内も、そして波多神社も丹念に掃除されて綺麗にしていた。
冬野の戸数は4戸。そう、たったの4戸の村。
I総代が子どものころでも5戸だった。
それからどれくらいの年数を経て4戸になったのだろうか。
4戸の冬野であるが、実質は、当地を降りて平たん部に出ているお家がある。
ほったらかしではなく、おりを見て村に戻るようだ。
I総代は、下りたといっても、石舞台辺りの島の庄が普段の暮らしの地。
一週間に、幾度も、ここ冬野の家に戻っては、何かと作業されているそうだ。
この日に集まったお家は、I家とK家の両家だけ。
実質、2軒が冬野に戻って村行事を営む。
祭りごとをする前にしておく作業は掃除から、というわけだ。
境内は広い。
数人がそれぞれ分かれて綺麗にする。
作業する人は、他所からみれば至極少ないが、昔からずっとそうしてきた。
観音堂の屋根に登って掃除。
つもりに積もった樹木の葉っぱに泥かぶりの土。
箒で掃くたびに土埃が舞い上がる。
本尊は十一面千手観音菩薩立像。
蓮台にのせた釈迦誕生仏。
右手に阿弥陀仏立像も並べた観音堂。
いつの時代か、わからないが、昔は、裳階(もこし)をもつ仏堂寺院もあった。
経緯は不明だが、ここ、観音堂にみな移したそうだ。
所狭しのお堂に、安置した仏像。
左側に2体の弘法大師像に阿弥陀座像も。
なお、釈迦誕生仏は1対あったが、盗まれた。
だが、裏手の山に捨てられていたのを発見し、見つかった1体を戻した、という。
『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯(集)』に、冬野の仏事も書かれていた。
「冬野では、8月17日を十七夜と称して、観音さんの祭りをする」、とある。
「頭屋は、ゴクモチ(※御供餅)を搗き、トナベ(※斗鍋)で小豆粥を炊く。団子も作る。ここの観音さんは、桜井市の音羽の観音さんと兄弟であると伝わっている。昔は、賑やかで、多武峰近在のムラからからも参拝する人もあり、夜店も出た。昭和の初めまでの観音さんの祭りは、終えたら盆踊りをしていた」、とあった。
予定では、午前10時から法要を営む予定であったが、弔いに住職は、急な檀家葬儀の法要に和歌山・岩出に出かけた。
冬野の観音十七のお会式は、予定を替えて午後の営みに相成った。
隣村になる明日香村尾曽の威徳院の住職が法要する十七お会式。
威徳院は、真言宗豊山派の寺院。
守り毘沙門天を本尊とする寺院である。
午後の営みまで、時間はたっぷりある。
作業に開けていた倉がある。
ふと、視線が動いた。屋内に置いていた祭具に目が・・。
総代らに許可を得て見せてもらった祭具は、伏せ鉦だ。
幅の広い伏せ鉦。
ぶら下げても使えるような紐通しの穴がある。
一つは欠損しているから使えないが、どことなく見覚えのある伏せ鉦。
ひっくり返して見た裏面に刻印「堀川住筑後大掾常味作」があった。
京都・堀川に住む筑後の大掾常味(だいじょうつねあじ)が作った伏せ鉦である。
実は「堀川住筑後大掾常味作」の伏せ鉦は他所でも拝見したことがある。
場所は、天理市楢町の融通念仏宗興願寺。
平成28年11月8日に行われた村行事の「十夜」。
興願寺住職が打っていた伏せ鉦に「宝永六己丑歳佛生日 和州楢村薬師堂住物也由西置 堀川住筑後大掾常味作」の刻印があった。
「宝永六己丑歳」は西暦年に換算したら1709年である。
およそ300年前に製作された堀川住筑後大掾常味と同笵の伏せ鉦のような気がするくらいの古さを覚える。
ちなみにネットに見つかった鉦は双盤であるが、刻印に「正徳五年(1715)八月十五日 京堀川住筑後大掾常味作」が。
地区は、滋賀県甲賀市水口町・伴中山神田。浄土宗百万遍派、誓演山・西光寺の什物である。
ネットに見つかった直径40cmの筑後大掾常味作の伏せ鉦。
所有は、大阪市内・東住吉区内の堺口地蔵尊。
近鉄南大阪線の針中野駅付近。
中野から南の鷹合を経て、住吉や大和川を越えた堺に向かう堺口。
つまりは堺に到達する出入口にある地蔵尊。
ブロガーさんの情報によれば、近くに銀杏観音の名がある観音寺の向かいにあるようだが、そうであれば平野区平野本町にある大きな銀杏が目印の観音寺。
環濠があるともと、書いてあったから、それなら平野の環濠跡地なんだがなぁ・・。
刻印に「堀川住筑後大掾常味作 天和二美亥(1683)七月二拾七日」があるとブロガーさんが紹介していた。
また、坂本要氏が執筆された『関西の双盤念仏(鉦講)と双盤鉦(PDF版)』に、また筑後大掾常味作の双盤鉦が見つかった。
所有は、兵庫県加古川市加古川町平野・龍泉寺。双盤2枚とも、刻印が「宝永六年己丑(1709)九月 播州一鱗山龍泉寺俊廓上人代 施主布屋一峯妙心 京堀川住筑後大掾常味作」である。
1683年が1枚。
1709年が2枚。
1715年が1枚であるが、京堀川住筑後大掾常味作の鉦がほぼほぼわかってきた年代刻印。
見つかった年代の上限、下限から計算すれば32年間。
と、すれば、ここ冬野の伏せ鉦も、同年代に造られたものであろう。
倉にはもう一つ、年代がわかる道具箱があった。
墨書文字の「昭和拾壹年八月新調 御膳箱 冬野持」は、戦前に新調された御膳箱。
また機会があれば、御膳道具を拝見したいものだ。
11時ころに終わった清掃作業に、両家はそれぞれのお家に戻って支度する。
動きがあった時間は午前11時45分。
神社に向かう道から見ていた下にあるお家に人の動きがあった。
タライを抱える女性。
折りたたみ椅子を肩にかけた男性。
料理を詰めたと想定できるクーラボックスの女性に御供を抱える男性らが、こちらに向かって歩いている。
そこからは急な坂道。
くねくね道を登ってきたK家の家族さん。
冒頭に述べた撮影隊の件。
後年に知った話によれば、K家の家を借りきり、「山守」家をロケ地撮影していたようだ、と。
そのことはともかく・・。
台車に載せて運ぶことなく、家族がそれぞれの荷物を抱えて、観音堂の前まで運んできた。
シートを広げたこの場は、会食の場。本来であれば、十七お会式の法要を終えてからの直会の場になるのだが、本日は、住職が和歌山から戻られるまでに済ませておく会食の場になった。
テーブルに座布団も並べた。
食器も箸もみな当番家のK家が、準備し運んできた。
大きな鍋で作った炊きたての料理はイロゴハン。
I家の家族も合わせて、2家族のみなさん、それぞれに動いて会食の準備。
これはすごいのが出てきた、と思った調理の品々。
2枚の大皿に盛った花びら模様がすてきだったので、崩す前に撮らせてもらった。
黄色い花びら。大輪のような形に整えた食材は自家製ダイコンのコウコ。
もう一皿は、大葉を添えて盛った魚肉ソーセージに、色味チーズ入りチーかま。
いずれも市販の製品であるが、花びら模様に仕立てたら、それはすてきなご馳走になった。
3カ所に立てたローソクに火を灯す。
大鍋から飯椀によそったイロゴハンは、十七会式の観音さんに、かつて寺本尊にあった阿弥陀座像とともに供える。
すぐ傍には、お菓子などの御供もある。
それぞれに手を合わせていた2家族。
参拝を終えた正午の12時50分。
テーブルに並べた食事を家族そろっていただく会食。
生まれたての赤ちゃんをおんぶしたお母さんも口にする。
飲める人は、ジョッキに注いだ生ビールに缶ビールも。
あんたも座ってよばれてやぁ、と言われて席に就く。
主食は、仏さんにも供えたイロゴハン。
蒟蒻にニンジン、ちくわに揚げさんを入れたイロゴハン。
ショイメシ(※醤油で味付けした飯)とも呼ばれるイロゴハンの副食は、半丁の豆腐だ。
2家のみなさんが揃って食べる会食。
この日の記念に撮らせてもらった。
さて、ご住職が和歌山から戻ってきた時間は、午後1時過ぎ。
席に就く前に早速動いた場は、観音堂。
本日に参列できなかったお家のお供えも並べていた。
導師の住職が座る場の横に、先ほど拝見していた“堀川住筑後大掾常味作”の伏せ鉦に木魚も。
家族たちは、観音堂の前に並んで始まった十七お会式の法要。
理趣経に観音経を唱えられる。
木魚と伏せ鉦を打ちながら唱える観音経。
「村が浄土宗やから、木魚があるから、打つ」と、いうが・・。
冬野は標高600mの高地。
下界の気温は30度になったそうだが、ここ冬野は気持ちのいい風が流れるから涼しい。
樹上から聞こえてくるツクツクボウシ。
お盆も過ぎれば、ただなんとなく寂しさを感じるツクツクボウシが鳴く音。
草むらにはチョンギースッと鳴くキリギリスも。
この鳴き声を聞いたら、一気とはいかないが、秋の訪れを感じる。
法要が始まる直前に、法要の席に就いたI総代。
遅れて参列するそのワケは、葬儀列席のためだった。
明日香村村長の尊母死去にともなう葬儀参列を終えて、丁度間に合った村行事に就き、ほっとされた。
一人、一人が焼香をされて法要を終えたみなさん。
ご住職も総代もそろったところで、会食を続ける。
ここ冬野の観音堂は、一年に3度も開帳される。
本日の十七お会式に、春と秋のお彼岸に。
ずいぶん昔のことになるが、安置している観音さんは、談山神社に向かう山の道。
手前にあるお不動さんがあるところに捨てられていた、というから、釈迦誕生仏も救われた仏さん。
紆余曲折はあったが、こうしてかつての本尊、阿弥陀仏座像とともに観音堂にいらっしゃる。
住職がお勤めしているお寺は、尾曽の威徳院。
数日後の21日は同寺で行われる空海まつりがある、という。
朝に施餓鬼、夕刻に灯りを点けた流し灯籠を浮かべる。
取材に写真を撮らせてもらう許可をいただいた行事は、はじめてから、かれこれ15年になる、という空海まつりを拝見する機会をもらった。
また、冬野の神社行事は、総代に教えてもらった。
10月8日または10日になる、という秋祭り。
はじめに上(かむら)、次に桜井市の西口。
それからぁ冬野、畑。最後に尾曽になるという秋祭りは、飛鳥宮司が、地域を順に廻られる。
今はしていないが、弁当を持ち寄って、今日と同じように会食していたコンピラサンの春祭りは100年以上も前のこと。
冬野は、特に酒飲みが多かった、という。
ウラキ(※裏作を裏毛と呼んでいたのか・・)もしていたという冬野の農業。
久しぶりに耳にした、”毛”。今では日本全国が一毛作。かつては二毛作がほとんどであったが・・
ちなみに「毛」とは農作物が立派に成長して立つという意味がある。
農作物を生育栽培している状態で品評する会のことを立毛品評会と呼ぶ。
品評はその生育状態をみるということで「毛」をみるという、と教わったのは、ずいぶん前のこと。
話してくれたのは、大和郡山市内の観音寺町に住んでいたHさんだった。
町内に鎮座する氏神社。
八幡宮の年中行事に「毛付祭」があった。
田植えが終われば、農家の人たちは、ひと段落して野休みに入る。
氏子たちが集まる八幡宮。
田植えが無事に終わったと氏神さんに報告し、稲の生育を祈る毛付祭のときに教えてくださった「毛付」、立毛品評会の件は、それから取材した村の行事にとても役立った、ありがたい詞に今でも感謝している。
また、観音堂の昔は、今よりもっと大きな尊堂だった。
礎石がある位置もわかっているようだ。
会食に、3杯もよばれたイロゴハン。
とても美味しかったから、箸が進んだが、お腹はパンパン。
嬉しいもてなしに、感謝申し上げ、冬野を後にした。
(H30. 8.17 EOS7D撮影)
石舞台の地からおよそ7kmの片道距離。
そんなに遠くはないと思うが、到達時間は、20分以上もかかる。
いくつかの行事を取材させてもらった上(かむら)から見た対岸の山。
林に囲まれた山内にある冬野地区。
初めて冬野入りした日は平成29年の9月9日だった。
目的とする波多神社を探していたが、撮影隊が冬野入りを許さない。
そんなことに遭遇するなんて、予想だにしなかった。
日をあらためて再訪した日は、一週間後の9月14日。
手を広げて村入りを制止した撮影隊はいなかった。
その日にお会いできた地区総代のIさん。
一週間前に訪れたとき、鬱陶しい扱いをされた件を伝えたら、やはりそうだったか、と・・。
「彼らの行動は、鼻持ちならん。監督(吉野を舞台に主人公の山守が暮らした家屋のロケ地冬野に撮影した『Vision』)か、どうか知らんが、立ち振る舞いがなっとらん。スタッフ同様に挨拶もなっとらん。撮影に駐車できる場を許可したが、違うところに・・。村で一番大事な防火槽の真上に停めよった。2度と来てほしくない質の悪い連中だった」、と・・。
ここ冬野にやってきたのは、昭和62年3月に発刊された飛鳥民俗調査会の調査報告書。
『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯(集)』掲載されている波多神社行事の取材、許可取りである。
「9月14日の例祭。座の行事に既製のオカリヤを建て、注連縄を張る。昼前に篠竹で作った御幣を立てる。朱塗り膳に盛った神饌を供える、祭典後には、馳走がある。焼物はハマチか、カツオ。食後に、オカリヤならびに御幣持ちが神社式典に就く。終えたら、次の頭屋家へオカリヤを送り、受けた頭屋は一年間の毎月の1日、15日に御供をする」、とあったが、この年は、都合、日程を替えて斎行された。
また、神社祭典に飛鳥坐神社の飛鳥宮司が御湯をしていた、という。
行事取材は翌年送りになったが、毎年の8月17日は、観音講の行事をしている、という。
あれからほぼ一年後の8月17日。
冬野に一つの行事がようやく出会える。
朝から村人総出で観音堂も境内も、そして波多神社も丹念に掃除されて綺麗にしていた。
冬野の戸数は4戸。そう、たったの4戸の村。
I総代が子どものころでも5戸だった。
それからどれくらいの年数を経て4戸になったのだろうか。
4戸の冬野であるが、実質は、当地を降りて平たん部に出ているお家がある。
ほったらかしではなく、おりを見て村に戻るようだ。
I総代は、下りたといっても、石舞台辺りの島の庄が普段の暮らしの地。
一週間に、幾度も、ここ冬野の家に戻っては、何かと作業されているそうだ。
この日に集まったお家は、I家とK家の両家だけ。
実質、2軒が冬野に戻って村行事を営む。
祭りごとをする前にしておく作業は掃除から、というわけだ。
境内は広い。
数人がそれぞれ分かれて綺麗にする。
作業する人は、他所からみれば至極少ないが、昔からずっとそうしてきた。
観音堂の屋根に登って掃除。
つもりに積もった樹木の葉っぱに泥かぶりの土。
箒で掃くたびに土埃が舞い上がる。
本尊は十一面千手観音菩薩立像。
蓮台にのせた釈迦誕生仏。
右手に阿弥陀仏立像も並べた観音堂。
いつの時代か、わからないが、昔は、裳階(もこし)をもつ仏堂寺院もあった。
経緯は不明だが、ここ、観音堂にみな移したそうだ。
所狭しのお堂に、安置した仏像。
左側に2体の弘法大師像に阿弥陀座像も。
なお、釈迦誕生仏は1対あったが、盗まれた。
だが、裏手の山に捨てられていたのを発見し、見つかった1体を戻した、という。
『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯(集)』に、冬野の仏事も書かれていた。
「冬野では、8月17日を十七夜と称して、観音さんの祭りをする」、とある。
「頭屋は、ゴクモチ(※御供餅)を搗き、トナベ(※斗鍋)で小豆粥を炊く。団子も作る。ここの観音さんは、桜井市の音羽の観音さんと兄弟であると伝わっている。昔は、賑やかで、多武峰近在のムラからからも参拝する人もあり、夜店も出た。昭和の初めまでの観音さんの祭りは、終えたら盆踊りをしていた」、とあった。
予定では、午前10時から法要を営む予定であったが、弔いに住職は、急な檀家葬儀の法要に和歌山・岩出に出かけた。
冬野の観音十七のお会式は、予定を替えて午後の営みに相成った。
隣村になる明日香村尾曽の威徳院の住職が法要する十七お会式。
威徳院は、真言宗豊山派の寺院。
守り毘沙門天を本尊とする寺院である。
午後の営みまで、時間はたっぷりある。
作業に開けていた倉がある。
ふと、視線が動いた。屋内に置いていた祭具に目が・・。
総代らに許可を得て見せてもらった祭具は、伏せ鉦だ。
幅の広い伏せ鉦。
ぶら下げても使えるような紐通しの穴がある。
一つは欠損しているから使えないが、どことなく見覚えのある伏せ鉦。
ひっくり返して見た裏面に刻印「堀川住筑後大掾常味作」があった。
京都・堀川に住む筑後の大掾常味(だいじょうつねあじ)が作った伏せ鉦である。
実は「堀川住筑後大掾常味作」の伏せ鉦は他所でも拝見したことがある。
場所は、天理市楢町の融通念仏宗興願寺。
平成28年11月8日に行われた村行事の「十夜」。
興願寺住職が打っていた伏せ鉦に「宝永六己丑歳佛生日 和州楢村薬師堂住物也由西置 堀川住筑後大掾常味作」の刻印があった。
「宝永六己丑歳」は西暦年に換算したら1709年である。
およそ300年前に製作された堀川住筑後大掾常味と同笵の伏せ鉦のような気がするくらいの古さを覚える。
ちなみにネットに見つかった鉦は双盤であるが、刻印に「正徳五年(1715)八月十五日 京堀川住筑後大掾常味作」が。
地区は、滋賀県甲賀市水口町・伴中山神田。浄土宗百万遍派、誓演山・西光寺の什物である。
ネットに見つかった直径40cmの筑後大掾常味作の伏せ鉦。
所有は、大阪市内・東住吉区内の堺口地蔵尊。
近鉄南大阪線の針中野駅付近。
中野から南の鷹合を経て、住吉や大和川を越えた堺に向かう堺口。
つまりは堺に到達する出入口にある地蔵尊。
ブロガーさんの情報によれば、近くに銀杏観音の名がある観音寺の向かいにあるようだが、そうであれば平野区平野本町にある大きな銀杏が目印の観音寺。
環濠があるともと、書いてあったから、それなら平野の環濠跡地なんだがなぁ・・。
刻印に「堀川住筑後大掾常味作 天和二美亥(1683)七月二拾七日」があるとブロガーさんが紹介していた。
また、坂本要氏が執筆された『関西の双盤念仏(鉦講)と双盤鉦(PDF版)』に、また筑後大掾常味作の双盤鉦が見つかった。
所有は、兵庫県加古川市加古川町平野・龍泉寺。双盤2枚とも、刻印が「宝永六年己丑(1709)九月 播州一鱗山龍泉寺俊廓上人代 施主布屋一峯妙心 京堀川住筑後大掾常味作」である。
1683年が1枚。
1709年が2枚。
1715年が1枚であるが、京堀川住筑後大掾常味作の鉦がほぼほぼわかってきた年代刻印。
見つかった年代の上限、下限から計算すれば32年間。
と、すれば、ここ冬野の伏せ鉦も、同年代に造られたものであろう。
倉にはもう一つ、年代がわかる道具箱があった。
墨書文字の「昭和拾壹年八月新調 御膳箱 冬野持」は、戦前に新調された御膳箱。
また機会があれば、御膳道具を拝見したいものだ。
11時ころに終わった清掃作業に、両家はそれぞれのお家に戻って支度する。
動きがあった時間は午前11時45分。
神社に向かう道から見ていた下にあるお家に人の動きがあった。
タライを抱える女性。
折りたたみ椅子を肩にかけた男性。
料理を詰めたと想定できるクーラボックスの女性に御供を抱える男性らが、こちらに向かって歩いている。
そこからは急な坂道。
くねくね道を登ってきたK家の家族さん。
冒頭に述べた撮影隊の件。
後年に知った話によれば、K家の家を借りきり、「山守」家をロケ地撮影していたようだ、と。
そのことはともかく・・。
台車に載せて運ぶことなく、家族がそれぞれの荷物を抱えて、観音堂の前まで運んできた。
シートを広げたこの場は、会食の場。本来であれば、十七お会式の法要を終えてからの直会の場になるのだが、本日は、住職が和歌山から戻られるまでに済ませておく会食の場になった。
テーブルに座布団も並べた。
食器も箸もみな当番家のK家が、準備し運んできた。
大きな鍋で作った炊きたての料理はイロゴハン。
I家の家族も合わせて、2家族のみなさん、それぞれに動いて会食の準備。
これはすごいのが出てきた、と思った調理の品々。
2枚の大皿に盛った花びら模様がすてきだったので、崩す前に撮らせてもらった。
黄色い花びら。大輪のような形に整えた食材は自家製ダイコンのコウコ。
もう一皿は、大葉を添えて盛った魚肉ソーセージに、色味チーズ入りチーかま。
いずれも市販の製品であるが、花びら模様に仕立てたら、それはすてきなご馳走になった。
3カ所に立てたローソクに火を灯す。
大鍋から飯椀によそったイロゴハンは、十七会式の観音さんに、かつて寺本尊にあった阿弥陀座像とともに供える。
すぐ傍には、お菓子などの御供もある。
それぞれに手を合わせていた2家族。
参拝を終えた正午の12時50分。
テーブルに並べた食事を家族そろっていただく会食。
生まれたての赤ちゃんをおんぶしたお母さんも口にする。
飲める人は、ジョッキに注いだ生ビールに缶ビールも。
あんたも座ってよばれてやぁ、と言われて席に就く。
主食は、仏さんにも供えたイロゴハン。
蒟蒻にニンジン、ちくわに揚げさんを入れたイロゴハン。
ショイメシ(※醤油で味付けした飯)とも呼ばれるイロゴハンの副食は、半丁の豆腐だ。
2家のみなさんが揃って食べる会食。
この日の記念に撮らせてもらった。
さて、ご住職が和歌山から戻ってきた時間は、午後1時過ぎ。
席に就く前に早速動いた場は、観音堂。
本日に参列できなかったお家のお供えも並べていた。
導師の住職が座る場の横に、先ほど拝見していた“堀川住筑後大掾常味作”の伏せ鉦に木魚も。
家族たちは、観音堂の前に並んで始まった十七お会式の法要。
理趣経に観音経を唱えられる。
木魚と伏せ鉦を打ちながら唱える観音経。
「村が浄土宗やから、木魚があるから、打つ」と、いうが・・。
冬野は標高600mの高地。
下界の気温は30度になったそうだが、ここ冬野は気持ちのいい風が流れるから涼しい。
樹上から聞こえてくるツクツクボウシ。
お盆も過ぎれば、ただなんとなく寂しさを感じるツクツクボウシが鳴く音。
草むらにはチョンギースッと鳴くキリギリスも。
この鳴き声を聞いたら、一気とはいかないが、秋の訪れを感じる。
法要が始まる直前に、法要の席に就いたI総代。
遅れて参列するそのワケは、葬儀列席のためだった。
明日香村村長の尊母死去にともなう葬儀参列を終えて、丁度間に合った村行事に就き、ほっとされた。
一人、一人が焼香をされて法要を終えたみなさん。
ご住職も総代もそろったところで、会食を続ける。
ここ冬野の観音堂は、一年に3度も開帳される。
本日の十七お会式に、春と秋のお彼岸に。
ずいぶん昔のことになるが、安置している観音さんは、談山神社に向かう山の道。
手前にあるお不動さんがあるところに捨てられていた、というから、釈迦誕生仏も救われた仏さん。
紆余曲折はあったが、こうしてかつての本尊、阿弥陀仏座像とともに観音堂にいらっしゃる。
住職がお勤めしているお寺は、尾曽の威徳院。
数日後の21日は同寺で行われる空海まつりがある、という。
朝に施餓鬼、夕刻に灯りを点けた流し灯籠を浮かべる。
取材に写真を撮らせてもらう許可をいただいた行事は、はじめてから、かれこれ15年になる、という空海まつりを拝見する機会をもらった。
また、冬野の神社行事は、総代に教えてもらった。
10月8日または10日になる、という秋祭り。
はじめに上(かむら)、次に桜井市の西口。
それからぁ冬野、畑。最後に尾曽になるという秋祭りは、飛鳥宮司が、地域を順に廻られる。
今はしていないが、弁当を持ち寄って、今日と同じように会食していたコンピラサンの春祭りは100年以上も前のこと。
冬野は、特に酒飲みが多かった、という。
ウラキ(※裏作を裏毛と呼んでいたのか・・)もしていたという冬野の農業。
久しぶりに耳にした、”毛”。今では日本全国が一毛作。かつては二毛作がほとんどであったが・・
ちなみに「毛」とは農作物が立派に成長して立つという意味がある。
農作物を生育栽培している状態で品評する会のことを立毛品評会と呼ぶ。
品評はその生育状態をみるということで「毛」をみるという、と教わったのは、ずいぶん前のこと。
話してくれたのは、大和郡山市内の観音寺町に住んでいたHさんだった。
町内に鎮座する氏神社。
八幡宮の年中行事に「毛付祭」があった。
田植えが終われば、農家の人たちは、ひと段落して野休みに入る。
氏子たちが集まる八幡宮。
田植えが無事に終わったと氏神さんに報告し、稲の生育を祈る毛付祭のときに教えてくださった「毛付」、立毛品評会の件は、それから取材した村の行事にとても役立った、ありがたい詞に今でも感謝している。
また、観音堂の昔は、今よりもっと大きな尊堂だった。
礎石がある位置もわかっているようだ。
会食に、3杯もよばれたイロゴハン。
とても美味しかったから、箸が進んだが、お腹はパンパン。
嬉しいもてなしに、感謝申し上げ、冬野を後にした。
(H30. 8.17 EOS7D撮影)