マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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テンノオイシキの大草履

2016年12月27日 09時47分00秒 | 桜井市へ
ご主人と初めてお会いしたのは平成27年の2月15日だった。

神社社務所に勤めるご主人は在所する地域に藁草履吊りをしていると話してくれた。

教えてもらったとおりにあった藁草履に感動したものだ。

その草履吊りは7月のテンノオイシキに縄結いして作る。

それは二種類ある。

一つは神社の鳥居に吊るす牛が履く藁草履である。

もう一つは庚申さんの祠に吊るす藁草履。

長らく途絶えていた藁草履吊りは2年前に復活したと話していた。

翌年の平成27年の5月。

藁草履吊りはいつされるのか気になっていたので電話を架けたが、まだ日程がはっきりと決まっていない、という回答だった。

再度、数週間後経ってから電話したら7月に行うと話していた。

日にちが決まれば、と云って待っていたが電話はなかった。

それからしばらくした7月10日に発病した心臓病で入院・手術した。

連絡がなかってほっとした記憶がある。

それから1年後。

帰り道に立ち寄ってみたくなった。

吊る場は車を停めた処から急な坂道を登り切ったところにある。

最近はようやく歩けるようになったが、坂道はキツイ。

一般の人であっても間違いなく急坂だと思える村の道。

病み上がりの私にとっては悔しいほどに辛い坂道である。

息切れするほど何度か途中でいっぷくせざるを得ない坂道を登り切ったところにあった。

色褪せた鳥居に注連縄が架かっている。

向こうに建つ牛頭天王社の社殿にも注連縄があるが一般的な造りであった。

その鳥居の右側だけに吊るしていたのが手造りの藁草履。

平成27年2月15日に拝見したときと同じような感じである。

注連縄の垂れ方を比較してみればまったく同じ。

状況に変化はなかったのであるが、藁草履はなんとなく色が違うように思えた。

造り、架ける状況はなんとなく違う。

これも帰宅してから比較してみたら・・。

新作であった一足半の牛の藁草履であるが、前年とはうってかわって一般的な人が履くような形になっていた。

牛頭天王社の他にも藁草履がある。

社の右横にある庚申さんの祠の木鼻部に吊るしていた。

これも新作のように見えた風合いである藁草履。

草履は三つ。



小さいのは子供の草履。

その次に垂らしていた草履は女性。

も少し大きいのが男性。

その証拠にアレがある。



どないに見ても男根に見える草履。

それぞれが片足ずつである。

男根であれば女性の草履にもアレがある。

編んだ草履に小さな穴がある。

上手いこと作ったものだと感心する女淫に男根。

男根をよくよくみれば藁でないようなものがある。

以前、話してくれた男性がシュロの毛で陰毛を形作ると云っていたことを思い出した。

平成27年に拝見したとき、それらはなかった、と思っていたが、裏を返せば見つかったかもしれない。

県内事例にこのような藁草履は見たことがない。

あり得ないと思っていたが、事実は眼前にある。

昭和36年に発刊された『桜井市文化叢書民俗』によれば、かつて雄雌の草鞋吊りをしていたのは村の青年たちだった。

5月の田植え前に作って豊作を祈願していたと書いてあったのは「地蔵堂」の項である。

「笠の千森(ちもり)に石の地蔵尊をまつる。八月二十四日は会式である。地蔵堂の境内に石庚申さんがある。雌雄二つのわらじを供えてある。長さは二尺くらいで、中央に雄形、雌形の異様なものをつけてある。五月の田植えの前に村の青年達が集まって賑やかに作りあげる。豊作祈願の大草履である」とあった。

さて、である。

雌雄の藁草履吊りの在り方は、念のために、と思って男性宅を訪ねた。

自然農法で作った水稲栽培。

ハザカケに架けて天日干しをしたお米は玄米の形で売っている。

とはいっても栽培しかけたのは昨年が初めて。

これまで栽培してきたのは豆である。

栽培地は当地でなく東吉野村の鷲家へ行く峠。

大宇陀にあたる地になるらしい。

当地から西へ下った纏向の地もあるが草まめし状態。

どうやら放地しているようだ。

牛頭さんこと牛頭天王を祀る牛頭天王の宮社に架ける。

牛頭さんは流行り病に効いてくれる神さんだという。

神さん・・・神さんのお使いの神さんは斑鳩の龍田川にある牛頭天王社。

そこの行事か・・。

こっちは一足。

こっちの村も一足。

夜は8時ごろともなれば、行こうかと云って出かけようとすれば、「早いぞう、早いぞう」と言い返す。

それから1時間。

このやり取りを7回繰り返す。

深夜の2時。酔いもまわって持ち寄ったゴズさんに一足半を奉った。

天皇陛下の結婚式に着る服に鳳凰の足がある。

その足は三本足。

だからゴズさんは神の使いであるという。

荒神さんに参る信者さんを案内すれば雪が降ってきたという神の里は浅茅ケ原。

神さんがおわす処であるという男性が住まいする地は千森。

荒神さんの山奥深い処にダイジングサンがあるという。

修験道の人が云うには笠の荒神さんは創造神。

火の神さんは後に造られた神さんだという。

まことに不思議な話しをしてくださる。

東大寺の大仏誕生秘話を伝えるテレビ放送があった。

天平十五年(743)、聖武天皇は「生きとし生けるものが共に栄えること」を願い「大仏造立の詔」を発して大仏さまを造立されたことなどを映し出していた。

その映像に、近年に描かれたと思われる聖武天皇の肖像画姿があった。

その映像の着衣の肩辺りに文様がある。

それは黒い鳥。

足は三本である。

それは八咫烏のように思える。

着衣は「袞衣(こんえ、こんい)」の名がある唐風の天皇衣装。

礼服の一種で天子御礼服ともいうそうだ。

もしかとすればだが、男性が云っていた服に鳳凰の足があるのはこれのもとかと思った。

藁草履は1足半。

片足の草履を三つ作るということである。

今年の「テンノオイシキの大草履作り」は7月に実施するつもりでいるそうだ。

7月14日は“天王“を意識する日。

その日は新しい綱でテンノオエシキ(発音によってテンノオイシキとも呼んでいる)を迎える。

村人はおかずを持ち寄って、ミシロ(筵が訛った)を敷いた処で一杯飲んでいた。

一杯は酒のことである。

一杯を飲めない子供たちはお菓子を食べていた。

かつて青年団が藁草履を作っていたが廃れてしまった。

それから随分経った3年前に思い立って「ツナウチ保存会」を立ち上げて藁草履を作って架けている。

話しを庚申さんの祠に架けてあった雌雄の藁草履に戻そう。

その祠に祀った石物は2体。

右が庚申さんで左は先祖供養の石仏になるらしい。

片足ずつ吊るしていた庚申祠に野菜がひとつ。



十円玉は賽銭のように思えるが、野菜はなんであろうか。

幼児が置いたものであるのか。

後日に聞いた野菜の正体。

置いたのは近くに住む老婦人だった。

「初成りの野菜はいつもこうして庚申さんに供えますんや」と云う。

このときは万願寺トウガラシ。

実成に感謝の気持ちを添えて初成り野菜の一つをお礼に供えているということだった。

それはともかく、今では子供、女、男の草履がそれぞれ片足ずつになったが、昔は石仏2体を覆っている祠いっぱいにもなる大型の草履もあったようだ。

昨年の草履は栽培した古代米の藁で作った。

7月14日に架けるおだが、作ったのはその日より前の日。

時間を見計らって作った草履作りは1時間ほどの作業。

おばあさんが拝んでいたらしい。

一年間も架けていた藁草履はトンドで燃やす。

昭和10年に建替えたという地蔵堂。

8月24日は地蔵盆があった。

昼過ぎに寄る地蔵堂。

その日は会式の盆踊りだった。

8月17日からの毎晩。

周辺の村々それぞれの地域で盆踊りをしていた。

天理の仁興に藤井もその村の一つ。

先に出かけて隠れていた。

頭に浴衣をかけて脅していた。

昔の若いもんはそうしていた。

踊りの最後の地が笠。言葉はなかったが県内各地で見られた盆踊り。

会式の日に踊ることから「エシキ(会式)の踊り」が訛って「イセキ(もしくはイシェキが訛ったイシキ)の踊り」と呼ぶ人が多い。

ちなみにこの日に聞いた「テンノオイシキの大草履」。

「テンノオ」は牛頭天王社のことであり、「イシキ」は会式が訛った言葉である。

(H28. 6.12 EOS40D撮影)


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