当月の10日に訪れて正月飾りや神社境内に砂を撒くと聞いて訪れた京都府京田辺市宮津宮ノ内の白山神社。
朝8時前に集まっていた朔日講の方々に経緯をお話して取材させていただく。
8人の朔日講は神社近くに住むKさんから聞いていた通りの若手(50歳代~40歳代)の人たちである。
うち、一人の最年長者が村神主を務める。
10日にKさんが話していた砂撒きは、奈良県事例と同じように、境内に砂が一年間のお参りに減ってしまい、それを補充するのが目的である。
砂は神社の山にある山土を掘りだして撒く。
川砂でなく、山土を撒くんが特徴の砂撒きである。
かつては集落民家もカドニワに撒いていた。
集落の道はアスファルト舗装になった。
いつしか、撒いた砂に滑っては危ないという意見もあって廃れた。
カドニワも改築などで狭くなった。
広いカドニワであればできたのだが、狭くなっては無理があるとこれもまた廃れた。
そういうことである。
砂撒き神社であろうが、民家、舗装路であろうが、どこでも円形に撒いていた。
箕に砂を盛って人がくるくる廻りながら砂を撒いたら半月形。
一周したら円形になるということだ。
京田辺など京都南部南山城地域辺りで行われている砂撒きについては、その一部が昭和59年10月に京都府立山城郷土資料館が展示図録として発刊された『祈りと暮らし』に掲載されている。
その記事に「砂撒きが大晦日の行事として広く行われていた。この日の夕方、ニワや家のぐるりに砂を撒いて清めた。砂は木津川の砂か、清浄な山土使われた」とある。
砂撒きの状態を記録された写真は2枚。
山城町の上狛。一枚は円でもう一枚は格子状である。
この格子状の家は当月の18日に伺ったO家の在り方そのものであった。
この2枚の記録写真は、著者印南敏秀氏が平成19年7月に発刊した『京文化と生活技術―食・職・農と博物館―』とまったく同じである。
それもそのはず、印南敏秀氏は技師として京都府立山城郷土資料館に務めていたのである。
在勤中に数々の民俗調査をされてきた。
そのときに撮った写真も文も印南敏秀氏が調査された結果であった。
『京文化と生活技術―食・職・農と博物館―』の砂撒き記事は地域集落の習俗文化として取り上げている。
一部を抜粋、概略として紹介する。
「木津川沿いは川砂、山間の大字神童子では山砂をキヨメズナといって撒いた。近年、木津川の砂の採取は禁止されているキヨメズナだけは特別に許可されている。ただ、戦後においては川砂が汚れ、山砂に替えたところもある」と書かれている。
「砂撒きの撒き方は決まっていなかった。山城町綺田(かばた)のある民家は一家が円満になるよう円を描いた。網目に撒く家もある。カドだけでなく通りも撒いた。山城町の上狛は円や波形もあった。砂を撒く道具は箕。奇麗に描くに定規を用いた。加茂町観音寺では縁起のいい日の出を表した。」とある。
私が調べた範囲内であるが、定規はともかく、網目・梯子状や円、日の出などは奈良県の生駒市の高山にもあったから、なにも、南山城地域に限った事例でもない。
印南敏秀氏の報告は民家集落だけでなく、共同墓地にもあったと書かれている。
地域は上狛。
各家は墓標を中心に墓域に撒いた。
また、正月行事でなく春や秋祭りの氏神祭りに神社の参や境内に氏子が砂を持ち寄るスナモチやスナミチツクリがあったという。
神社のスナモチやスナミチツクリは奈良県大和郡山や天理、田原本町に奈良市のごく一部で盛んに行われていたが、いずれも正月迎えの大晦日である。
この日に訪れた宮津宮ノ内の白山神社は正月飾りの門松立てに注連縄飾りと整えてから砂撒きをしていた。
ある方がブログにアップされていた。
記録された日は平成25年の1月4日であるから、ごくごく最近の状況である。
南山城地方の砂撒きに興味をもった発端である。
本日、朔日講の皆さんによって行われる砂撒きの取材できることになったありがたい情報に感謝するわけだ。
朝一番は神社や境内の大掃除。
それが終わってから作業にとりかかる。
予め、27日に結っていた注連縄はワジメも含めて本殿拝殿、末社(稲田姫社・祈雨社・佐勢古勢社など)に三十番神の石碑、金毘羅塔、猿田彦塔、石の祠、山の神、舞殿遥拝所(朱智神社・佐勢古勢社・三十番神・祈雨社・高龗命・天照皇太神宮・春日大神宮・八幡大神宮・神武天皇)、鳥居、社務所入口、トイレなどに架ける。
注連縄の材の他、松、竹(笹)、梅に門松の松(雌雄)は大晦日前の日曜日に水晶谷がある甘南備山に出かけて採取してくる。
当地ではウラジロ、ユズリハも採取し、注連縄作りもその日にしたようだ。
注連縄は七、五、三に結って飾りつける。
ウラジロの表裏は要注意。
参る側から見た表が裏白になるように取り付ける。
取り付けるというよりも注連縄の藁に差し込むという具合だ。
ユズリハも同じように裏を向けて取り付ける。
ウラジロにユズリハを取り付ける作業は注連縄を張ってからになる。
丁度、そのころは朝日がウラジロの葉にあたって輝きだした。
時間帯は午前10時前だった。
それまでは曇り空であったが、突然に雲間が切れた。
そこに光りが射し込んだ。
注連縄の長さは決まっている。
超長い3.3mの注連縄は鳥居用。
3.0mの大長注連縄は社務所の神楽舞場入口に場を上がったところの2カ所。
2.5mの中長注連縄は社務所出入口。
1.8mの注連縄は本殿内の拝殿や末社に観音さんがある。
その他の小長七、五、三注連縄は17本になる。
注連縄飾りの最中に許可をいただいて撮らせてもらった朔日講の宮守(村神主)が着用する素襖がある。
擦り切れてボロボロになってきたから新調する考えがある。
新調できたら古い方は不要になるから破棄するという素襖の袖に「明治廿七年(1894)十月新調 價(値)金四円二拾銭 施主氏子」とある。
今から123年も前からずっと一年交替する村神主が袖を通してきた素襖である。
毎年交替する歴代の宮津宮ノ内の村神主123人が袖を通してきた。
宮ノ内地区に住む白山神社の氏子中のうち年齢順位定まっている代々に亘って祭祀に務めてきた8人組の宮守たちだ。
宮守でもある8人の朔日講が神楽を舞う行事は正月、盆問わず、毎月に神楽を舞ってきた。
一年で12回行われる神楽舞の回数で計算すれば1476回も袖を通したことになる。
123年・1476回も宮津の歴史を育んできた素襖が消えようとしている。
どうか、新調されてもどうか保存、継承されんこと願わずにおられない。
ちなみに神楽舞に用いられる鳴り物も見せていただいた。
箱から出すわけにはいかないので、蓋を開けた状態でシャッターを押す。
太鼓(※文化四甲戌年記銘と『京都の民俗芸能』に記載してあるが、文化四年なら丁卯年であり、甲戌年の場合であるなら文化十一年が正しい)は拝見していないが、胴締め鼓や大小5枚の妙鉢に祓いの鈴がある。
これらを寄進した年代ははっきりしている。
納めていた箱の裏蓋に「大正三年壱月新調 木元治平寄附之」の墨書があったことを付記しておく。
さて、注連縄飾りに話しを戻そう。
七・五・三のコジメ注連縄は狛犬や灯籠にも架ける。
ユニークなのは歴代の宮守さんの寄付台(帳)にも注連縄を飾っていることである。
それは先人を大切にしてきたということになるのだろう。
鏡餅を供える神棚にも飾ってようやく終わり。
作業はそれで終わりではなく、門松立てがある。
右にメン(雌)松。左にオン(雄)松は根付きの松。
灯籠前に穴を掘って根の部分を埋める。
高さも形もあんばい揃えて立てる。
こうして注連縄飾りや門松立てを終えた一行は神社すぐ横に移動する。
砂撒きにする神社の山土を採取するのである。
土を掘るのはスコップ。
掘り出し場まで軽トラを寄せて直接荷台に土を入れる。
力作業は若いもんにとってはお手のもの。
気合いは入るし、意気揚々とされて作業していた。
山盛りの土を荷台に載せた軽トラを境内近くまで寄せる。
早速始まった砂撒き作業。
昔ながらの箕に砂を入れて思うような地点につく。
その場に留まって箕から零すような感じで砂を落とす。
山土であるが柔らかい。
まさに砂である。
サラサラ落ちる砂の落ちる具合を抱える腕で判断して落としていく。
それと同時に身体を中心に据えてゆっくり回る。
右に回転する人もあれば、左回転の人もいる。
特に決まっていない体制で砂を撒く。
一回転撒いたら円形の砂盛りになる。
他の講中も砂を撒く。
プラスチック製の箕を使って撒く人も、村神主の役目を担う最年長の人も、それぞれが砂を撒く。
身長、腕の長さに延ばし具合が違うから同じような径にはならない。
そのバラツキがアンバランスな景観を生む。
見ていて落ち着く円形の砂が増えていく。
よく見ていただければわかるが、どの円を見てもお互いに浸食はしていない。
講中がいうには円を繋げていくように撒くのだという。
講中の人たちが云う。
父親が宮守を務めていた時代は簡単な支柱をこしらえてそれに紐を括っていた。
紐の先に境内の土に線を描けるように木片を括り付ける。
支柱を中心に、まるでコンパスのようにして二人がかりで線を描いていた。
それが砂を撒く目印。
それから逸脱しないように撒いていたそうだ。
いつのころかわからないが、宮守一人でするようになったからコンパスは使わず、今と同じような方法で撒くようになったそうだ。
足の踏み場もないくらいに大小の円形砂。
そこは神さんが通る道なので決して砂を踏んではならない。
折角撒いた砂も壊さないように、作業はあっちへ、こっちへ動くから移動は跨がざるを得ない。
このとき丁度の曇り空。
ピーカン天気よりも円形砂がよくわかる。
本社殿、社務所前が済んでまだ半分以下。
中心となる境内はそこで終わりだが、ここより見る左側の方向の面積が広い。
砂を積んだ軽トラも移動する。
この映像は神社右奥になる。
かつて神宮寺であった法雲(廃)寺が建つ位置はここであったのだろうか。
寺の遺物と思えるような宝塔らしきものもあった。
明後日の元日は朝8時の集合。
実際は7時半になるらしい。
神饌などを準備して調製する。
だいたいが9時半くらいに準備が終わる。
午前10時になれば朱智神社の宮司が来られる。
それまでに講中は羽織袴姿に着替えておく。
村神主は素襖を着用する。
全員は烏帽子を被って下駄履き姿になる。
一同が揃った11時ころに元日の祭典が始まる。
宮司は祝詞を奏上する。
その場は砂撒きをした境内の一角。
筵を敷いた処に座って祝詞を奏上する。
祝詞をあげる向きは朱智神社の方角になるそうだ。
また、明日の大晦日も神事がある。
時間ともなれば装束に着替えた村神主一人が神事を行う。
予め版で朱印を押した半紙を供えてご祈祷をする。
その半紙は洗い米を内包して折り曲げる。
宮津宮ノ内はおよそ40戸の集落。
村の子どもの一人とともにこれを配る。
実際に配る役目は子どもがする。
むら神主がともに行動すると云った方が正しいかもしれない。
それを配ることによって子どもは配ったお家の人からお駄賃をもらう。
祝儀の意味合いがあるのかもしれない。
40戸をすべて配りきるには2時間もかかる。
そういった話しを提供してくださった村神主に当日も寄せてもらいたいと伝えて場を離れた。
(H28.12.30 EOS40D撮影)
朝8時前に集まっていた朔日講の方々に経緯をお話して取材させていただく。
8人の朔日講は神社近くに住むKさんから聞いていた通りの若手(50歳代~40歳代)の人たちである。
うち、一人の最年長者が村神主を務める。
10日にKさんが話していた砂撒きは、奈良県事例と同じように、境内に砂が一年間のお参りに減ってしまい、それを補充するのが目的である。
砂は神社の山にある山土を掘りだして撒く。
川砂でなく、山土を撒くんが特徴の砂撒きである。
かつては集落民家もカドニワに撒いていた。
集落の道はアスファルト舗装になった。
いつしか、撒いた砂に滑っては危ないという意見もあって廃れた。
カドニワも改築などで狭くなった。
広いカドニワであればできたのだが、狭くなっては無理があるとこれもまた廃れた。
そういうことである。
砂撒き神社であろうが、民家、舗装路であろうが、どこでも円形に撒いていた。
箕に砂を盛って人がくるくる廻りながら砂を撒いたら半月形。
一周したら円形になるということだ。
京田辺など京都南部南山城地域辺りで行われている砂撒きについては、その一部が昭和59年10月に京都府立山城郷土資料館が展示図録として発刊された『祈りと暮らし』に掲載されている。
その記事に「砂撒きが大晦日の行事として広く行われていた。この日の夕方、ニワや家のぐるりに砂を撒いて清めた。砂は木津川の砂か、清浄な山土使われた」とある。
砂撒きの状態を記録された写真は2枚。
山城町の上狛。一枚は円でもう一枚は格子状である。
この格子状の家は当月の18日に伺ったO家の在り方そのものであった。
この2枚の記録写真は、著者印南敏秀氏が平成19年7月に発刊した『京文化と生活技術―食・職・農と博物館―』とまったく同じである。
それもそのはず、印南敏秀氏は技師として京都府立山城郷土資料館に務めていたのである。
在勤中に数々の民俗調査をされてきた。
そのときに撮った写真も文も印南敏秀氏が調査された結果であった。
『京文化と生活技術―食・職・農と博物館―』の砂撒き記事は地域集落の習俗文化として取り上げている。
一部を抜粋、概略として紹介する。
「木津川沿いは川砂、山間の大字神童子では山砂をキヨメズナといって撒いた。近年、木津川の砂の採取は禁止されているキヨメズナだけは特別に許可されている。ただ、戦後においては川砂が汚れ、山砂に替えたところもある」と書かれている。
「砂撒きの撒き方は決まっていなかった。山城町綺田(かばた)のある民家は一家が円満になるよう円を描いた。網目に撒く家もある。カドだけでなく通りも撒いた。山城町の上狛は円や波形もあった。砂を撒く道具は箕。奇麗に描くに定規を用いた。加茂町観音寺では縁起のいい日の出を表した。」とある。
私が調べた範囲内であるが、定規はともかく、網目・梯子状や円、日の出などは奈良県の生駒市の高山にもあったから、なにも、南山城地域に限った事例でもない。
印南敏秀氏の報告は民家集落だけでなく、共同墓地にもあったと書かれている。
地域は上狛。
各家は墓標を中心に墓域に撒いた。
また、正月行事でなく春や秋祭りの氏神祭りに神社の参や境内に氏子が砂を持ち寄るスナモチやスナミチツクリがあったという。
神社のスナモチやスナミチツクリは奈良県大和郡山や天理、田原本町に奈良市のごく一部で盛んに行われていたが、いずれも正月迎えの大晦日である。
この日に訪れた宮津宮ノ内の白山神社は正月飾りの門松立てに注連縄飾りと整えてから砂撒きをしていた。
ある方がブログにアップされていた。
記録された日は平成25年の1月4日であるから、ごくごく最近の状況である。
南山城地方の砂撒きに興味をもった発端である。
本日、朔日講の皆さんによって行われる砂撒きの取材できることになったありがたい情報に感謝するわけだ。
朝一番は神社や境内の大掃除。
それが終わってから作業にとりかかる。
予め、27日に結っていた注連縄はワジメも含めて本殿拝殿、末社(稲田姫社・祈雨社・佐勢古勢社など)に三十番神の石碑、金毘羅塔、猿田彦塔、石の祠、山の神、舞殿遥拝所(朱智神社・佐勢古勢社・三十番神・祈雨社・高龗命・天照皇太神宮・春日大神宮・八幡大神宮・神武天皇)、鳥居、社務所入口、トイレなどに架ける。
注連縄の材の他、松、竹(笹)、梅に門松の松(雌雄)は大晦日前の日曜日に水晶谷がある甘南備山に出かけて採取してくる。
当地ではウラジロ、ユズリハも採取し、注連縄作りもその日にしたようだ。
注連縄は七、五、三に結って飾りつける。
ウラジロの表裏は要注意。
参る側から見た表が裏白になるように取り付ける。
取り付けるというよりも注連縄の藁に差し込むという具合だ。
ユズリハも同じように裏を向けて取り付ける。
ウラジロにユズリハを取り付ける作業は注連縄を張ってからになる。
丁度、そのころは朝日がウラジロの葉にあたって輝きだした。
時間帯は午前10時前だった。
それまでは曇り空であったが、突然に雲間が切れた。
そこに光りが射し込んだ。
注連縄の長さは決まっている。
超長い3.3mの注連縄は鳥居用。
3.0mの大長注連縄は社務所の神楽舞場入口に場を上がったところの2カ所。
2.5mの中長注連縄は社務所出入口。
1.8mの注連縄は本殿内の拝殿や末社に観音さんがある。
その他の小長七、五、三注連縄は17本になる。
注連縄飾りの最中に許可をいただいて撮らせてもらった朔日講の宮守(村神主)が着用する素襖がある。
擦り切れてボロボロになってきたから新調する考えがある。
新調できたら古い方は不要になるから破棄するという素襖の袖に「明治廿七年(1894)十月新調 價(値)金四円二拾銭 施主氏子」とある。
今から123年も前からずっと一年交替する村神主が袖を通してきた素襖である。
毎年交替する歴代の宮津宮ノ内の村神主123人が袖を通してきた。
宮ノ内地区に住む白山神社の氏子中のうち年齢順位定まっている代々に亘って祭祀に務めてきた8人組の宮守たちだ。
宮守でもある8人の朔日講が神楽を舞う行事は正月、盆問わず、毎月に神楽を舞ってきた。
一年で12回行われる神楽舞の回数で計算すれば1476回も袖を通したことになる。
123年・1476回も宮津の歴史を育んできた素襖が消えようとしている。
どうか、新調されてもどうか保存、継承されんこと願わずにおられない。
ちなみに神楽舞に用いられる鳴り物も見せていただいた。
箱から出すわけにはいかないので、蓋を開けた状態でシャッターを押す。
太鼓(※文化四甲戌年記銘と『京都の民俗芸能』に記載してあるが、文化四年なら丁卯年であり、甲戌年の場合であるなら文化十一年が正しい)は拝見していないが、胴締め鼓や大小5枚の妙鉢に祓いの鈴がある。
これらを寄進した年代ははっきりしている。
納めていた箱の裏蓋に「大正三年壱月新調 木元治平寄附之」の墨書があったことを付記しておく。
さて、注連縄飾りに話しを戻そう。
七・五・三のコジメ注連縄は狛犬や灯籠にも架ける。
ユニークなのは歴代の宮守さんの寄付台(帳)にも注連縄を飾っていることである。
それは先人を大切にしてきたということになるのだろう。
鏡餅を供える神棚にも飾ってようやく終わり。
作業はそれで終わりではなく、門松立てがある。
右にメン(雌)松。左にオン(雄)松は根付きの松。
灯籠前に穴を掘って根の部分を埋める。
高さも形もあんばい揃えて立てる。
こうして注連縄飾りや門松立てを終えた一行は神社すぐ横に移動する。
砂撒きにする神社の山土を採取するのである。
土を掘るのはスコップ。
掘り出し場まで軽トラを寄せて直接荷台に土を入れる。
力作業は若いもんにとってはお手のもの。
気合いは入るし、意気揚々とされて作業していた。
山盛りの土を荷台に載せた軽トラを境内近くまで寄せる。
早速始まった砂撒き作業。
昔ながらの箕に砂を入れて思うような地点につく。
その場に留まって箕から零すような感じで砂を落とす。
山土であるが柔らかい。
まさに砂である。
サラサラ落ちる砂の落ちる具合を抱える腕で判断して落としていく。
それと同時に身体を中心に据えてゆっくり回る。
右に回転する人もあれば、左回転の人もいる。
特に決まっていない体制で砂を撒く。
一回転撒いたら円形の砂盛りになる。
他の講中も砂を撒く。
プラスチック製の箕を使って撒く人も、村神主の役目を担う最年長の人も、それぞれが砂を撒く。
身長、腕の長さに延ばし具合が違うから同じような径にはならない。
そのバラツキがアンバランスな景観を生む。
見ていて落ち着く円形の砂が増えていく。
よく見ていただければわかるが、どの円を見てもお互いに浸食はしていない。
講中がいうには円を繋げていくように撒くのだという。
講中の人たちが云う。
父親が宮守を務めていた時代は簡単な支柱をこしらえてそれに紐を括っていた。
紐の先に境内の土に線を描けるように木片を括り付ける。
支柱を中心に、まるでコンパスのようにして二人がかりで線を描いていた。
それが砂を撒く目印。
それから逸脱しないように撒いていたそうだ。
いつのころかわからないが、宮守一人でするようになったからコンパスは使わず、今と同じような方法で撒くようになったそうだ。
足の踏み場もないくらいに大小の円形砂。
そこは神さんが通る道なので決して砂を踏んではならない。
折角撒いた砂も壊さないように、作業はあっちへ、こっちへ動くから移動は跨がざるを得ない。
このとき丁度の曇り空。
ピーカン天気よりも円形砂がよくわかる。
本社殿、社務所前が済んでまだ半分以下。
中心となる境内はそこで終わりだが、ここより見る左側の方向の面積が広い。
砂を積んだ軽トラも移動する。
この映像は神社右奥になる。
かつて神宮寺であった法雲(廃)寺が建つ位置はここであったのだろうか。
寺の遺物と思えるような宝塔らしきものもあった。
明後日の元日は朝8時の集合。
実際は7時半になるらしい。
神饌などを準備して調製する。
だいたいが9時半くらいに準備が終わる。
午前10時になれば朱智神社の宮司が来られる。
それまでに講中は羽織袴姿に着替えておく。
村神主は素襖を着用する。
全員は烏帽子を被って下駄履き姿になる。
一同が揃った11時ころに元日の祭典が始まる。
宮司は祝詞を奏上する。
その場は砂撒きをした境内の一角。
筵を敷いた処に座って祝詞を奏上する。
祝詞をあげる向きは朱智神社の方角になるそうだ。
また、明日の大晦日も神事がある。
時間ともなれば装束に着替えた村神主一人が神事を行う。
予め版で朱印を押した半紙を供えてご祈祷をする。
その半紙は洗い米を内包して折り曲げる。
宮津宮ノ内はおよそ40戸の集落。
村の子どもの一人とともにこれを配る。
実際に配る役目は子どもがする。
むら神主がともに行動すると云った方が正しいかもしれない。
それを配ることによって子どもは配ったお家の人からお駄賃をもらう。
祝儀の意味合いがあるのかもしれない。
40戸をすべて配りきるには2時間もかかる。
そういった話しを提供してくださった村神主に当日も寄せてもらいたいと伝えて場を離れた。
(H28.12.30 EOS40D撮影)