この日も訪れた京都府木津川市吐師(はぜ)宮ノ前に鎮座する大宮神社。
伺いたい行事は、その年の豊年を祈願する御田祭。
令和2年は、1月12日の日曜に行われたようだ。
その行事を知る手掛かりは、ネットにアップされたブログ記事である。
ブログ名は「京都のitベンチャーで働く女の写真日記」。
平成29年の1月11日にアップされた記事だから、当日取材に記録した記事そのものを、その日にアップされたそのレポート内容は、詳しい。
細かい手順なども記載されている内容の濃い取材。
神前に供えた玄米。
神に捧げる祭具をきちんと「三方(さんぽう)」と書かれていた。
存知しない方は、間違いなく「三宝(さんぽう)」の漢字を充てる。
であるから、ブログ執筆者は、その道を学んだ方であろう。
一度、お会いしたいくらいだ。
京都の年中行事の多くを取材され、写真もきっちり抑えており、相当なベテランであろう。
御田祭のポイントをかいつまんで整理しておく。
御田祭の行事には、神職はともなわない。
吐師の宮座十人衆によって斎行される行事である。
神遷しにお仮屋も存在する。
神社の門松飾りの松は、鋏で伐採する。
神饌は、三方にのせる籾付きの玄米。
御田祭の所作は、2人の宮守さんが行う。
その所作は、農具の鍬を用いる。
つまりは、田を耕す鍬起こし。
座中がおられる前でされる所作は3回。
田を耕すその所作を、吐師では「3回、田をかじる」という。
座中の前で行う籾落とし。手でつまんだ籾をぱらぱら落とす。
その籾は、大切なものだけに紅白の和紙を2枚重ねて、そこに籾を受ける。
それは、次に行う作業に関係する。
正月の門松は、この日に倒して、松の葉を採る。
門松の材は、左右に黒松の雄松(おんまつ)と赤松の雌松(めんまつ)。
柔らかい葉であればめんまつ。
硬い葉であればおんまつ。
長さも違う雄松と雌松である。
松は、枝部分を束ねて紅白の和紙で包む。
この松は、稲の苗に見立てた模擬苗。
ところによれば苗松と称する地域もあるが、だいたいが松苗。
三方にのせて神前に奉り、拝殿にて祓えの儀。
太鼓や、鉦打ち。
高齢巫女のソノイチが神楽を舞う。
ソノイチによる苗松植えの所作。
これら苗松は、氏子たち関係者がたまわり、苗代田をもつ農事者は、田の水口に立てる。
農事でない人は、たいがいは神棚に立てて祭る。
御田祭の一連は、氏子が苗松を作り、村神主の宮守さんによる苗代掻きが行われ、巫女のソノイチによる田植えの所作をし、祈祷された苗松をもって、苗代の育苗がすくすく育つよう祈願する正月初めの儀式である。
この日、9日に再び訪れた吐師(はぜ)の大宮神社。
昨年末の晦日の日。
30日に訪れた吐師(はぜ)の大宮神社に見た正月迎えにかけた簾型しめ縄。
しかも、予期もせぬ丸形にかたどった砂撒きも。
これには驚いたものだ。
本日は9日であるが、簾型しめ縄も、砂撒きもカタチを維持していた。
尤も、鳥居の真ん前辺りは、人や車が通る道だけに、うっすら状態になってはいるが・・・
おやぁ、ここで、気づいた社殿前。
正月期間に飾った門松がない。
早いところでは、3日まで。
少し遅れてでも、7日までの門松。
いつ、解体されたのだろうか。
まずは、参拝した。
その右手にあった阿吽の狛犬。
右手の狛犬に奉った葉付きみかんは、6日前に訪れた正月三日の大宮神社。
そのままの位置に変わらずにいたが、さすがに賽銭は姿を消していた。
辺り一帯を見渡し、見つけた門松の解体状態。
御田祭に用いられる苗松の葉も、そのまま残っていた。
で、あれば、今日の日曜日にされると推定し、大宮神社に参ったが・・だれ一人も見ない。
見たのは、つい先ほどに参拝された女性だけだ。
神社付近にお住まいの方なら、と思って、らしきお家を訪ねてみる。
1軒は、神社域に建つ社務所らしき建物に・・・
呼び鈴、お声かけに、出てこられた高齢者夫妻に。
なんでもお二人は、社務所住まい。
で、あれば大宮神社の関係者。
神社の年中行事は詳しいだろう。
そう判断し、尋ねた結果は・・・
私たちは留守番の身。
年中行事についてはまったく知らない、という。
門松があったことすら、知らない、という。
この建物に住んではいるが、関心がないのか、知ろうとはしないのか、よくわからないお二人。
昨年の晦日に拝見した門松、簾型しめ縄に砂撒きは、一体どちらの人たちが、制作し、据えられたのだろうか。
ここに佇んだまま居るワケにはいかない。
神社周辺にお住まいしている方なら・・と探索する。
割り合いに近いご近所さんのお家の呼び鈴をおした。
屋外に出てこられた北座に属する方にお話を伺った。
氏が伝えてくれた北座・南座による神社行事は、2年前に一切合切を中断したそうだ。
まさかの回答に絶句した。
氏が伝える座が行ってきた年中行事の衰退ぶり。
どこの神社もコロナ禍中に入ってからは、ほとんどが行事を中止。
神事だけでもお勤めする地区もあるが、コロナがきっかけに、人が集まることは一切避ける人離れから、神社奉仕からも手を放す。
高齢化、少子化から、さらに拍車をかけたコロナ禍の時代に、明るい展望の火は灯しもできずに、解散した地区もある。
氏は、そのような判断にふれず、教えてくださった砂撒き。
当時の砂撒きの材は、裏山の山から採取した赤土だった。
市販されている砂を購入してきたが、財政難になった。
座中・氏子たちの意識は、昔と違って奉仕の心が消えた。
丸くカタチづくる砂撒きは、かつて集落の家々もしていた。
撒く場は、カド(ニワ)とか、門扉の外ぐらいな場まで。
そこに砂を撒き、丸く円を描いていたが、山土の砂が取れなくなった。
時代、文化の発展に、地道だった村の道はアスファルト舗装に移った。
ところが、アスファルト舗装に撒いた砂によって滑りが発生するようになった。
歩きの場合であっても、自転車で走っていく場合はなおさら危険状態に。
だから、しなくなった。
この点については、私が聞き取り調査した大和郡山市内における事例と同じだ。
地道の時代では、自転車でも滑らなかったが、アスファルトなどのような間平らな、つるつる道であれば、ずるっといってしまう。
だから、現在も大和郡山市に5地区が継承してきたが、町内に砂を撒くことなく、神社の境内にとどめている。
丸型の砂撒きは、心を丸くするものだと思っていたが一様に消えた。
実は、簾型のしめ縄は子供のころには見なかった、という。
住み着いた神社留守番の男性。
その人が、東北出身の文化を持ち込んだのだろう。
鳥居辺りは神域の馬場だったから、地元民は軽自動車なら通れる幅なので利用している。
なお、うちの息子も参加していた虫送りは10年~15年ほど前に消えた。
木津川市観光協会の歳時記・伝統行事に載っていた御田祭は、このようなことで地区から消えた、と話してくれた。
腑に落ちないのが、昨年末にはあった簾型しめ縄や砂撒きである。今日も痕跡があるのはなぜに・・
それらに対する回答はなく、だれかがしているのだろう、と・・・
氏がいう簾型のしめ縄は、住み着いた人は東北出身。
神社留守番の人が東北の文化を伝えた、というが・・・
奈良県内には、数多くみられる暖簾のように前だれ的系統の簾型しめ縄。
すべての地区ではないが、圧倒的に多く、集中する地域と、離れた地域に点在する地区もあるが、東北に共通すべき点が見つからない。
「しめかざり」研究者の森須磨子氏の著書に簾のような「前垂れ系」と紹介された事例に、京都府や福井県、愛媛県がある。
が、その事例数がどれほどであるのか、調査されたご本人に尋ねるしかないが、多くはない、と判断する。
いずれにしても、古来の在り方を伝統行事として継承してきた吐師の御田祭は、中断された。
中断の期間が長ければ長くなるほど復活は難しくなる。
前述したように、平成29年に訪れ、吐師の御田祭を取材、記録された「京都のitベンチャーで働く女の写真日記」ブログが貴重な存在となった。
ところで、氏が語ってくれた、かつて行っていた地区行事の虫送り。
その場が、どのような地形にあったのか、神社から離れ、京都と奈良を結ぶJR奈良線の高架下をくぐった東の畑地が、虫送りのコースだった。
なるほどと思える広大な地は、未だ健在なり、ということだろう。
そのとき、北の京都から出発した列車が通過する。
通りすぎる列車は爽快。
もうすぐ奈良に入る列車を見送ってあげよう。
(R4. 1. 9 SB805SH 撮影)
伺いたい行事は、その年の豊年を祈願する御田祭。
令和2年は、1月12日の日曜に行われたようだ。
その行事を知る手掛かりは、ネットにアップされたブログ記事である。
ブログ名は「京都のitベンチャーで働く女の写真日記」。
平成29年の1月11日にアップされた記事だから、当日取材に記録した記事そのものを、その日にアップされたそのレポート内容は、詳しい。
細かい手順なども記載されている内容の濃い取材。
神前に供えた玄米。
神に捧げる祭具をきちんと「三方(さんぽう)」と書かれていた。
存知しない方は、間違いなく「三宝(さんぽう)」の漢字を充てる。
であるから、ブログ執筆者は、その道を学んだ方であろう。
一度、お会いしたいくらいだ。
京都の年中行事の多くを取材され、写真もきっちり抑えており、相当なベテランであろう。
御田祭のポイントをかいつまんで整理しておく。
御田祭の行事には、神職はともなわない。
吐師の宮座十人衆によって斎行される行事である。
神遷しにお仮屋も存在する。
神社の門松飾りの松は、鋏で伐採する。
神饌は、三方にのせる籾付きの玄米。
御田祭の所作は、2人の宮守さんが行う。
その所作は、農具の鍬を用いる。
つまりは、田を耕す鍬起こし。
座中がおられる前でされる所作は3回。
田を耕すその所作を、吐師では「3回、田をかじる」という。
座中の前で行う籾落とし。手でつまんだ籾をぱらぱら落とす。
その籾は、大切なものだけに紅白の和紙を2枚重ねて、そこに籾を受ける。
それは、次に行う作業に関係する。
正月の門松は、この日に倒して、松の葉を採る。
門松の材は、左右に黒松の雄松(おんまつ)と赤松の雌松(めんまつ)。
柔らかい葉であればめんまつ。
硬い葉であればおんまつ。
長さも違う雄松と雌松である。
松は、枝部分を束ねて紅白の和紙で包む。
この松は、稲の苗に見立てた模擬苗。
ところによれば苗松と称する地域もあるが、だいたいが松苗。
三方にのせて神前に奉り、拝殿にて祓えの儀。
太鼓や、鉦打ち。
高齢巫女のソノイチが神楽を舞う。
ソノイチによる苗松植えの所作。
これら苗松は、氏子たち関係者がたまわり、苗代田をもつ農事者は、田の水口に立てる。
農事でない人は、たいがいは神棚に立てて祭る。
御田祭の一連は、氏子が苗松を作り、村神主の宮守さんによる苗代掻きが行われ、巫女のソノイチによる田植えの所作をし、祈祷された苗松をもって、苗代の育苗がすくすく育つよう祈願する正月初めの儀式である。
この日、9日に再び訪れた吐師(はぜ)の大宮神社。
昨年末の晦日の日。
30日に訪れた吐師(はぜ)の大宮神社に見た正月迎えにかけた簾型しめ縄。
しかも、予期もせぬ丸形にかたどった砂撒きも。
これには驚いたものだ。
本日は9日であるが、簾型しめ縄も、砂撒きもカタチを維持していた。
尤も、鳥居の真ん前辺りは、人や車が通る道だけに、うっすら状態になってはいるが・・・
おやぁ、ここで、気づいた社殿前。
正月期間に飾った門松がない。
早いところでは、3日まで。
少し遅れてでも、7日までの門松。
いつ、解体されたのだろうか。
まずは、参拝した。
その右手にあった阿吽の狛犬。
右手の狛犬に奉った葉付きみかんは、6日前に訪れた正月三日の大宮神社。
そのままの位置に変わらずにいたが、さすがに賽銭は姿を消していた。
辺り一帯を見渡し、見つけた門松の解体状態。
御田祭に用いられる苗松の葉も、そのまま残っていた。
で、あれば、今日の日曜日にされると推定し、大宮神社に参ったが・・だれ一人も見ない。
見たのは、つい先ほどに参拝された女性だけだ。
神社付近にお住まいの方なら、と思って、らしきお家を訪ねてみる。
1軒は、神社域に建つ社務所らしき建物に・・・
呼び鈴、お声かけに、出てこられた高齢者夫妻に。
なんでもお二人は、社務所住まい。
で、あれば大宮神社の関係者。
神社の年中行事は詳しいだろう。
そう判断し、尋ねた結果は・・・
私たちは留守番の身。
年中行事についてはまったく知らない、という。
門松があったことすら、知らない、という。
この建物に住んではいるが、関心がないのか、知ろうとはしないのか、よくわからないお二人。
昨年の晦日に拝見した門松、簾型しめ縄に砂撒きは、一体どちらの人たちが、制作し、据えられたのだろうか。
ここに佇んだまま居るワケにはいかない。
神社周辺にお住まいしている方なら・・と探索する。
割り合いに近いご近所さんのお家の呼び鈴をおした。
屋外に出てこられた北座に属する方にお話を伺った。
氏が伝えてくれた北座・南座による神社行事は、2年前に一切合切を中断したそうだ。
まさかの回答に絶句した。
氏が伝える座が行ってきた年中行事の衰退ぶり。
どこの神社もコロナ禍中に入ってからは、ほとんどが行事を中止。
神事だけでもお勤めする地区もあるが、コロナがきっかけに、人が集まることは一切避ける人離れから、神社奉仕からも手を放す。
高齢化、少子化から、さらに拍車をかけたコロナ禍の時代に、明るい展望の火は灯しもできずに、解散した地区もある。
氏は、そのような判断にふれず、教えてくださった砂撒き。
当時の砂撒きの材は、裏山の山から採取した赤土だった。
市販されている砂を購入してきたが、財政難になった。
座中・氏子たちの意識は、昔と違って奉仕の心が消えた。
丸くカタチづくる砂撒きは、かつて集落の家々もしていた。
撒く場は、カド(ニワ)とか、門扉の外ぐらいな場まで。
そこに砂を撒き、丸く円を描いていたが、山土の砂が取れなくなった。
時代、文化の発展に、地道だった村の道はアスファルト舗装に移った。
ところが、アスファルト舗装に撒いた砂によって滑りが発生するようになった。
歩きの場合であっても、自転車で走っていく場合はなおさら危険状態に。
だから、しなくなった。
この点については、私が聞き取り調査した大和郡山市内における事例と同じだ。
地道の時代では、自転車でも滑らなかったが、アスファルトなどのような間平らな、つるつる道であれば、ずるっといってしまう。
だから、現在も大和郡山市に5地区が継承してきたが、町内に砂を撒くことなく、神社の境内にとどめている。
丸型の砂撒きは、心を丸くするものだと思っていたが一様に消えた。
実は、簾型のしめ縄は子供のころには見なかった、という。
住み着いた神社留守番の男性。
その人が、東北出身の文化を持ち込んだのだろう。
鳥居辺りは神域の馬場だったから、地元民は軽自動車なら通れる幅なので利用している。
なお、うちの息子も参加していた虫送りは10年~15年ほど前に消えた。
木津川市観光協会の歳時記・伝統行事に載っていた御田祭は、このようなことで地区から消えた、と話してくれた。
腑に落ちないのが、昨年末にはあった簾型しめ縄や砂撒きである。今日も痕跡があるのはなぜに・・
それらに対する回答はなく、だれかがしているのだろう、と・・・
氏がいう簾型のしめ縄は、住み着いた人は東北出身。
神社留守番の人が東北の文化を伝えた、というが・・・
奈良県内には、数多くみられる暖簾のように前だれ的系統の簾型しめ縄。
すべての地区ではないが、圧倒的に多く、集中する地域と、離れた地域に点在する地区もあるが、東北に共通すべき点が見つからない。
「しめかざり」研究者の森須磨子氏の著書に簾のような「前垂れ系」と紹介された事例に、京都府や福井県、愛媛県がある。
が、その事例数がどれほどであるのか、調査されたご本人に尋ねるしかないが、多くはない、と判断する。
いずれにしても、古来の在り方を伝統行事として継承してきた吐師の御田祭は、中断された。
中断の期間が長ければ長くなるほど復活は難しくなる。
前述したように、平成29年に訪れ、吐師の御田祭を取材、記録された「京都のitベンチャーで働く女の写真日記」ブログが貴重な存在となった。
ところで、氏が語ってくれた、かつて行っていた地区行事の虫送り。
その場が、どのような地形にあったのか、神社から離れ、京都と奈良を結ぶJR奈良線の高架下をくぐった東の畑地が、虫送りのコースだった。
なるほどと思える広大な地は、未だ健在なり、ということだろう。
そのとき、北の京都から出発した列車が通過する。
通りすぎる列車は爽快。
もうすぐ奈良に入る列車を見送ってあげよう。
(R4. 1. 9 SB805SH 撮影)