行事を含めて度々訪問する田原本町の八田(はった)は150戸の集落。
東八田(ひがしばった)、中の東、中の西、西八田(にしばった)の4垣内のうち村の年中行事を支える廻り当番の垣内が御田植祭の松苗を収めたホッカイ担ぎを担う。
伊勢降神社の祭祀を勤めるのは3人の宮守さん。
年長者が村神主となってお渡りをすると話していた。
神社に集まっていた宮守さんたち。
「私の家から出発する」と案内されていった家は宮守の一年神主家だった。
御供などを調整されて収めていた唐櫃がホッカイだ。
内部にはモチ11個、三合の洗い米にオス・メスを重ね合わせた5本の松苗。
藁縄および水引で括り、束ねた松苗は昨年の12月の新穀感謝祭に供えた新穀の米5粒を収めた紙包みをおさめている。
しばらくすれば正装された行事関係者が集まってきた。
村神主は白装束に着替えて烏帽子を被る。
宮守家の玄関先で手水をされてお渡りが出幸した。
先頭はサカキ幣を持つ老人会会長。
法貴寺池坐朝霧黄幡比賣神社宮司、笏を持つ村神主、小幣を持つ自治会長、宮守、法被姿のホッカイ担ぎ、ミナライが続くお渡りである。
この年の宮守家は集落の東外れの東八田。
神社から一番遠い処である。
お渡りは集落内を抜けて北の街道へ向きを替える。
そこからは西に鎮座する神社に向かう。
ホッカイ担ぎは村の年中行事を支える人たちで、廻り当番の垣内が担う。
この年は中の東があたった。
鳥居を潜って参進してきた一行は神社に着いて神事を始める。
一同は本殿前にまず並んで祓えの儀。
それから拝殿に登る。
二神を祀る本殿の御扉開の次は献饌である。
ひとつひとつ手渡しで献饌する。
祝詞を奏上する神職は度々お世話になっている藤本宮司。
よく見れば拝殿に長い棒のようなものが立ててあった。
これより始まるのが御田植の所作である。
拝殿に立ててい長い棒を手にする宮司。
棒はカシの木である。
幣と注連縄を巻きついたカシの木は先端が二股になっている。
それは「牛」であると云う。
二股部分が牛の角を現しているのだろう。
まずは、水平に抱えて神さんに一礼する。
「牛」を正面・立て位置に持って立ち上がった。
そして一歩進む度に、「牛」を拝殿床にドンと打つ。
これを右周りに何周かしていく。
ビジュアルさ、派手さもなく淡々と作法をされる。
周回は大きくすることもあれば小旋回することもある。
クワもマンガもカラスキもない御田植の所作は初めてだ。
このような木の棒を操って牛遣いをされる所作は大神神社と天理市小田中町ぐらいしかないのではと思った。
これまで多くの県内事例を拝見したが、他所では見られなかった特徴的な作法である。
拝殿を周回する作法は、おそらく拝殿を神田に見立てて田んぼを耕している「牛遣い」の作法なのであろう。
御田植の所作を終えれば玉串奉奠に移る。
神職、自治会長、老人会会長で最後に村神主が奉奠された。
撤饌、閉扉、神職の一拝で神事を終えた。
その後は拝殿でカマボコとスルメでお神酒をいただく直会だ。
直会の時間帯は次に行われる村行事を再確認される。
3月彼岸の日に行われる還暦祝いや彼岸の祖霊祭の段取りも確認された。
こうして終えた八田の御田植祭。
終えれば、宮守・ミナライの6人が200セットも作った松苗を八田集落の農家80戸に配られる。
また、出仕された法貴寺の藤本宮司にも法貴寺地区の分として80松苗も渡される。
八田の御田植祭の日程は神職・宮守・自治会などが協議されて決まると云う。
この年は28日であったが、26日だと云う人もあれば27日とも・・・毎年替るようである。
(H26. 2.28 EOS40D撮影)
東八田(ひがしばった)、中の東、中の西、西八田(にしばった)の4垣内のうち村の年中行事を支える廻り当番の垣内が御田植祭の松苗を収めたホッカイ担ぎを担う。
伊勢降神社の祭祀を勤めるのは3人の宮守さん。
年長者が村神主となってお渡りをすると話していた。
神社に集まっていた宮守さんたち。
「私の家から出発する」と案内されていった家は宮守の一年神主家だった。
御供などを調整されて収めていた唐櫃がホッカイだ。
内部にはモチ11個、三合の洗い米にオス・メスを重ね合わせた5本の松苗。
藁縄および水引で括り、束ねた松苗は昨年の12月の新穀感謝祭に供えた新穀の米5粒を収めた紙包みをおさめている。
しばらくすれば正装された行事関係者が集まってきた。
村神主は白装束に着替えて烏帽子を被る。
宮守家の玄関先で手水をされてお渡りが出幸した。
先頭はサカキ幣を持つ老人会会長。
法貴寺池坐朝霧黄幡比賣神社宮司、笏を持つ村神主、小幣を持つ自治会長、宮守、法被姿のホッカイ担ぎ、ミナライが続くお渡りである。
この年の宮守家は集落の東外れの東八田。
神社から一番遠い処である。
お渡りは集落内を抜けて北の街道へ向きを替える。
そこからは西に鎮座する神社に向かう。
ホッカイ担ぎは村の年中行事を支える人たちで、廻り当番の垣内が担う。
この年は中の東があたった。
鳥居を潜って参進してきた一行は神社に着いて神事を始める。
一同は本殿前にまず並んで祓えの儀。
それから拝殿に登る。
二神を祀る本殿の御扉開の次は献饌である。
ひとつひとつ手渡しで献饌する。
祝詞を奏上する神職は度々お世話になっている藤本宮司。
よく見れば拝殿に長い棒のようなものが立ててあった。
これより始まるのが御田植の所作である。
拝殿に立ててい長い棒を手にする宮司。
棒はカシの木である。
幣と注連縄を巻きついたカシの木は先端が二股になっている。
それは「牛」であると云う。
二股部分が牛の角を現しているのだろう。
まずは、水平に抱えて神さんに一礼する。
「牛」を正面・立て位置に持って立ち上がった。
そして一歩進む度に、「牛」を拝殿床にドンと打つ。
これを右周りに何周かしていく。
ビジュアルさ、派手さもなく淡々と作法をされる。
周回は大きくすることもあれば小旋回することもある。
クワもマンガもカラスキもない御田植の所作は初めてだ。
このような木の棒を操って牛遣いをされる所作は大神神社と天理市小田中町ぐらいしかないのではと思った。
これまで多くの県内事例を拝見したが、他所では見られなかった特徴的な作法である。
拝殿を周回する作法は、おそらく拝殿を神田に見立てて田んぼを耕している「牛遣い」の作法なのであろう。
御田植の所作を終えれば玉串奉奠に移る。
神職、自治会長、老人会会長で最後に村神主が奉奠された。
撤饌、閉扉、神職の一拝で神事を終えた。
その後は拝殿でカマボコとスルメでお神酒をいただく直会だ。
直会の時間帯は次に行われる村行事を再確認される。
3月彼岸の日に行われる還暦祝いや彼岸の祖霊祭の段取りも確認された。
こうして終えた八田の御田植祭。
終えれば、宮守・ミナライの6人が200セットも作った松苗を八田集落の農家80戸に配られる。
また、出仕された法貴寺の藤本宮司にも法貴寺地区の分として80松苗も渡される。
八田の御田植祭の日程は神職・宮守・自治会などが協議されて決まると云う。
この年は28日であったが、26日だと云う人もあれば27日とも・・・毎年替るようである。
(H26. 2.28 EOS40D撮影)