2日は予定していなかった田原本町西代(※にしんだい)行き。
八坂神社の砂モチを拝見したく、急行した。
橿考研所属の発掘調査専門のYさんが発見した、という砂モチ。
Yさんがとらえた映像と同じ状態の砂モチが、今まさに目の前に現る。
なるほどの形態は、大和郡山市に鎮座する小泉神社の砂モチと同じ。
多少の高低差はあるが、形態は同じ。
それが、第一印象である。
辺りを見渡しても誰もお見えにならない。
西から吹く風が冷たい。
鳥居までの参道道。
両脇に背の高い樹木が並ぶ八坂神社の参道。
その光景もまた、大和郡山市丹後庄町の八雲神社に、さも似たり。
ただし、丹後庄町の場合は、樹木外の両脇は池であるが・・。
その鳥居横に立てていた八坂神社の史跡案内。
田原本町観光協会が立てた解説文の編集は、親交のあるNさん。
地域行事の法貴寺の川西・川東のゴウシンサン取材にご支援いただいた元県の文化財保護指導委員。
担当する田原本町に行われる民俗行事、文化財、遺跡などが詳しい。
ゴウシンサン取材を終え、当時県立民俗博物館所属・鹿谷勲さんとともにお家に上がらせてもらったことがある。
西代・八坂神社の解説文に興味深い記事があった。
下記に、要約し、文中より一部補正し、解説する。
「年代・由緒は明らかでないが、江戸時代は牛頭天王社と呼ばれていた。云々・・」他地域にも多くみられる元牛頭天王社。
西代と同じ八坂神社、或は八阪神社。
他にも杵築神社などがあり、古くは祇園社と呼ばれていた時代もあった京都・八坂神社もまた牛頭天王社。主祭神の素戔嗚尊(すさのをのみこと)を、往古は牛頭天王と称していたわけである。
詳しくは、ここでは述べないが、江戸時代までは牛頭天王社と呼ばれていた全国の神社は、神仏分離・廃仏毀釈の波を受け、素戔嗚尊を祀るすべての神社が、明治時代に神社名を替えられた。
「旧城下郡(※旧城下郡(しきのしものこおり)は中世までの郡名、後世に式下郡(しきげぐん))西代の八坂神社は、素佐男命の神威により、西代村民を疫病から守るために勧請された・・・」。
「明治3年(1870)、神社名を健速須佐男命社『城下城上神社御神体取調目録(蔵堂・守屋広尚文書)』と、呼ばれていたが、明治11年(1877)に、八坂神社名に改号された。(村史『西代区有文書』)」
蔵堂・守屋広尚氏は、蔵堂・村屋坐弥冨都比売神社宮司。
なにかと民俗行事取材に教わった宮司が、若いころに記された『城下城上神社御神体取調目録』であろう。
「八坂神社・本殿は、一間社春日造、銅板葺(かつては檜皮葺)」。
県内各地に春日大社から造営の度に古社になった建て替え前の社を、所縁に地に移された春日造を調べている写真家Kさんは、先に調査していたらしく、西代の砂モチに興味を示された。
YさんとKさんがたまたま居合わせた年末晦日の日。
奈良市山陵町・山上八幡神社の砂モチ行事。
西代の砂モチを報せてくれたYさん。
Kさんもまた砂モチ調査をしている。
三者がそろったときには、さまざまな地域習俗情報を伝え合う。
今日に拝見したあり方も、また伝えておいた。
さて、鳥居から眺める参道を撮っていたときだ。
東側の地に建つ集落から歩いてきた人の姿が見える。
もしか、とすれば氏子さん。
そう思って、お声をかけた女性は西代住まい。
天理市中之庄町が出里の女性が嫁いだ50年前。
出里になかった情景に、行事や風習も異なる環境だったが、苗代にイロバナをしていた、と話され、思わず、えっ。
中之庄町といえば、ひょんなことから出逢った苗代の習俗がある。
取材したT家の他にも、数か所でしていると知った中之庄町の農村のあり方。
氏神社の天神社の行事に御田祭は見られない。
それゆえ祈祷する護符はないが、イロバナ立てはある。
蕗の葉に載せるハゼゴメ習俗には感動したものだ。
ちなみに、ここ西代にも苗代にイロバナを立てる、と話してくれた。
しかも松苗も立てる、となればここ八坂神社に御田祭があるのか・・。
実は、そうではなく、隣村の八尾にある神社の田植え祭りに・・。
その神社は、かつて取材したこともある通称鏡作神社の名で呼ぶ鏡作坐天照御魂神社。
当地のお田植祭は、群がるカメラマンが撮る牛面を被る牛使いがある。
女児が舞う豊年舞に、ラストに天空高く投げる雨降らしの松苗投げも。
その松苗を西代の総代がもらってきて住民に配る、と・・・
イロバナを添えてキリコモチも供える、というからその時期になれば、また伺いたくなる西代。
かつてはカンピョウつくりから干す竿もあった、と昭和23年生まれのTさんが話してくれた。
そういえば、すぐそこのH家、は今でもしているような気がする、と・・・
さて、西代の砂モチである。
73歳のTさんは、“砂は神さんが通る道”だ、という。
川砂が綺麗だったころ。寺川に出かけて、掬った川砂を一輪車に載せて家に持ち帰った。
門から家の玄関までに一本の道を描くように砂を撒いていた。
玄関だけでなく、トイレやお風呂に稲屋にも繋げるように砂を撒いた。
それぞれを繋げる砂の道。
その形態は大和郡山市内見聞きした砂の道と同じ。
で、あるが境内の砂モチとは関係なくしていたようでもある。
嫁入りした義父や義母から教わったのだろう。
当地に住んでわかったことを話してくれる。
お話しされているとき、散歩中だったTさんが、ばったり出会った87歳の高齢女性。
老人カーを押しながらやってきた女性は、手を振って合図していた。
一緒に、参拝しましょう、と寄り添って歩いた参道。
「大阪から嫁入りした私もびっくり」、ここ西代の習俗に、当時は驚きながらも家人たちとともに砂を撒いていたそうだ。
うちもしていた、と、いうが、たぶんに今はしていないような雰囲気・・・
八坂神社の砂モチ。
かつては、西に流れる寺川にあった綺麗な川砂。
護岸工事の関係であろう。
川砂が採れなくなってからは、心ある村の人たちが砂を寄せてくれるようになったそうだ。
その一言でわかった砂モチの色合い、風合い。砂の盛り様の違いもわかる。
お家によって入手する砂質は違う。
黒い砂もあれば白い砂も。
茶っぽい砂もあれば、グレー色も。
一人一山とは限らず、二山、三山の場合も・・見られる。
いずれにしても左右対称に一対、一山ずつ。
12月31日の大みそかに砂モチをしているようだ。
ちなみに八坂神社の宮守さんは3人。
1番の年長者、2番手のミナライ。
3番手もまた見習い。
一年経験して繰り上がる。
3年間を経験して退く繰り上がり。西代のトーヤ制度であろう。
毎月の1日、15日は掃除。
風雨にさらされ、もっときれいに、と手を揚げた老人会も毎月の8日と23日が清掃日。
ちなみに西代の砂モチは、中田太造著の『大和村落共同体と伝承文化』に載っている、と写真家Kさんが教えてくれた。
“田原本町・平野村の一年“の章に「スナモチ オオミソカに飛鳥川から砂を一荷ずつあげてきて、お地蔵さん、お宮さん、墓、家の門口に“砂モチ”をした。これは普段に詣で、足につっかけて帰るので、お返しするためだ、という。お宮さんや、お地蔵さんには砂が山のようになった。佐味では正月が済むと、この砂を道の悪いところに置いた。満田では、大晦日に門口に砂を撒いたが、それを“ハツミチ”といった」とある。
砂モチ状態撮って、それで終わり。
次に向かいたい天理市の長滝。
昼までに帰ってこれる。そう思って西代の調査に来たが、なんなのなんの。出逢ったTさんの情報は大きく、昼めしを摂る時間がなくなってしまうくらいの質・量に感謝申し上げる次第だ。
また、余談であるが、FB知人のFさんからも砂モチ情報を伝えてくれた。
多神社の境外社と思われる姫皇子命神社に一山の立砂(たてずな)若しくは盛砂(もりすな)があった、という。
私にとっては初の取材地になる西代。
「にしんだい」の読みさえ知しらなかった初入りした西代。
この日に出会った住民のTさんに、老人カーを押して参拝された婦人からただいた貴重な民俗話題。
西代に出会えるキッカケとなった砂モ情報を報せてくれたYさん。
春日造りを記録してる写真家Kさんからは、民俗文化を記録された、先駆者の中田太造氏が執筆された『大和村落共同体と伝承文化』に記載があると報せてくれた。
西代・八坂神社の解説文を通じて学ばせてくれたNさん。
村屋坐弥冨都比売神社宮司の守屋広尚氏からの情報もある。
私が民俗調査をできたのも、すべて先駆者のおかげである。
これまでも先駆者から受けた、或は見聞きした数々の多様な情報提供によって、私が現時点の取材ができるのである。
ありがたく感謝し、敬服するとともに、また敬意を払わなければはならない、と念頭におき、今後も活動していきたい。
(R3. 1. 2 EOS7D/SB805SH撮影)
八坂神社の砂モチを拝見したく、急行した。
橿考研所属の発掘調査専門のYさんが発見した、という砂モチ。
Yさんがとらえた映像と同じ状態の砂モチが、今まさに目の前に現る。
なるほどの形態は、大和郡山市に鎮座する小泉神社の砂モチと同じ。
多少の高低差はあるが、形態は同じ。
それが、第一印象である。
辺りを見渡しても誰もお見えにならない。
西から吹く風が冷たい。
鳥居までの参道道。
両脇に背の高い樹木が並ぶ八坂神社の参道。
その光景もまた、大和郡山市丹後庄町の八雲神社に、さも似たり。
ただし、丹後庄町の場合は、樹木外の両脇は池であるが・・。
その鳥居横に立てていた八坂神社の史跡案内。
田原本町観光協会が立てた解説文の編集は、親交のあるNさん。
地域行事の法貴寺の川西・川東のゴウシンサン取材にご支援いただいた元県の文化財保護指導委員。
担当する田原本町に行われる民俗行事、文化財、遺跡などが詳しい。
ゴウシンサン取材を終え、当時県立民俗博物館所属・鹿谷勲さんとともにお家に上がらせてもらったことがある。
西代・八坂神社の解説文に興味深い記事があった。
下記に、要約し、文中より一部補正し、解説する。
「年代・由緒は明らかでないが、江戸時代は牛頭天王社と呼ばれていた。云々・・」他地域にも多くみられる元牛頭天王社。
西代と同じ八坂神社、或は八阪神社。
他にも杵築神社などがあり、古くは祇園社と呼ばれていた時代もあった京都・八坂神社もまた牛頭天王社。主祭神の素戔嗚尊(すさのをのみこと)を、往古は牛頭天王と称していたわけである。
詳しくは、ここでは述べないが、江戸時代までは牛頭天王社と呼ばれていた全国の神社は、神仏分離・廃仏毀釈の波を受け、素戔嗚尊を祀るすべての神社が、明治時代に神社名を替えられた。
「旧城下郡(※旧城下郡(しきのしものこおり)は中世までの郡名、後世に式下郡(しきげぐん))西代の八坂神社は、素佐男命の神威により、西代村民を疫病から守るために勧請された・・・」。
「明治3年(1870)、神社名を健速須佐男命社『城下城上神社御神体取調目録(蔵堂・守屋広尚文書)』と、呼ばれていたが、明治11年(1877)に、八坂神社名に改号された。(村史『西代区有文書』)」
蔵堂・守屋広尚氏は、蔵堂・村屋坐弥冨都比売神社宮司。
なにかと民俗行事取材に教わった宮司が、若いころに記された『城下城上神社御神体取調目録』であろう。
「八坂神社・本殿は、一間社春日造、銅板葺(かつては檜皮葺)」。
県内各地に春日大社から造営の度に古社になった建て替え前の社を、所縁に地に移された春日造を調べている写真家Kさんは、先に調査していたらしく、西代の砂モチに興味を示された。
YさんとKさんがたまたま居合わせた年末晦日の日。
奈良市山陵町・山上八幡神社の砂モチ行事。
西代の砂モチを報せてくれたYさん。
Kさんもまた砂モチ調査をしている。
三者がそろったときには、さまざまな地域習俗情報を伝え合う。
今日に拝見したあり方も、また伝えておいた。
さて、鳥居から眺める参道を撮っていたときだ。
東側の地に建つ集落から歩いてきた人の姿が見える。
もしか、とすれば氏子さん。
そう思って、お声をかけた女性は西代住まい。
天理市中之庄町が出里の女性が嫁いだ50年前。
出里になかった情景に、行事や風習も異なる環境だったが、苗代にイロバナをしていた、と話され、思わず、えっ。
中之庄町といえば、ひょんなことから出逢った苗代の習俗がある。
取材したT家の他にも、数か所でしていると知った中之庄町の農村のあり方。
氏神社の天神社の行事に御田祭は見られない。
それゆえ祈祷する護符はないが、イロバナ立てはある。
蕗の葉に載せるハゼゴメ習俗には感動したものだ。
ちなみに、ここ西代にも苗代にイロバナを立てる、と話してくれた。
しかも松苗も立てる、となればここ八坂神社に御田祭があるのか・・。
実は、そうではなく、隣村の八尾にある神社の田植え祭りに・・。
その神社は、かつて取材したこともある通称鏡作神社の名で呼ぶ鏡作坐天照御魂神社。
当地のお田植祭は、群がるカメラマンが撮る牛面を被る牛使いがある。
女児が舞う豊年舞に、ラストに天空高く投げる雨降らしの松苗投げも。
その松苗を西代の総代がもらってきて住民に配る、と・・・
イロバナを添えてキリコモチも供える、というからその時期になれば、また伺いたくなる西代。
かつてはカンピョウつくりから干す竿もあった、と昭和23年生まれのTさんが話してくれた。
そういえば、すぐそこのH家、は今でもしているような気がする、と・・・
さて、西代の砂モチである。
73歳のTさんは、“砂は神さんが通る道”だ、という。
川砂が綺麗だったころ。寺川に出かけて、掬った川砂を一輪車に載せて家に持ち帰った。
門から家の玄関までに一本の道を描くように砂を撒いていた。
玄関だけでなく、トイレやお風呂に稲屋にも繋げるように砂を撒いた。
それぞれを繋げる砂の道。
その形態は大和郡山市内見聞きした砂の道と同じ。
で、あるが境内の砂モチとは関係なくしていたようでもある。
嫁入りした義父や義母から教わったのだろう。
当地に住んでわかったことを話してくれる。
お話しされているとき、散歩中だったTさんが、ばったり出会った87歳の高齢女性。
老人カーを押しながらやってきた女性は、手を振って合図していた。
一緒に、参拝しましょう、と寄り添って歩いた参道。
「大阪から嫁入りした私もびっくり」、ここ西代の習俗に、当時は驚きながらも家人たちとともに砂を撒いていたそうだ。
うちもしていた、と、いうが、たぶんに今はしていないような雰囲気・・・
八坂神社の砂モチ。
かつては、西に流れる寺川にあった綺麗な川砂。
護岸工事の関係であろう。
川砂が採れなくなってからは、心ある村の人たちが砂を寄せてくれるようになったそうだ。
その一言でわかった砂モチの色合い、風合い。砂の盛り様の違いもわかる。
お家によって入手する砂質は違う。
黒い砂もあれば白い砂も。
茶っぽい砂もあれば、グレー色も。
一人一山とは限らず、二山、三山の場合も・・見られる。
いずれにしても左右対称に一対、一山ずつ。
12月31日の大みそかに砂モチをしているようだ。
ちなみに八坂神社の宮守さんは3人。
1番の年長者、2番手のミナライ。
3番手もまた見習い。
一年経験して繰り上がる。
3年間を経験して退く繰り上がり。西代のトーヤ制度であろう。
毎月の1日、15日は掃除。
風雨にさらされ、もっときれいに、と手を揚げた老人会も毎月の8日と23日が清掃日。
ちなみに西代の砂モチは、中田太造著の『大和村落共同体と伝承文化』に載っている、と写真家Kさんが教えてくれた。
“田原本町・平野村の一年“の章に「スナモチ オオミソカに飛鳥川から砂を一荷ずつあげてきて、お地蔵さん、お宮さん、墓、家の門口に“砂モチ”をした。これは普段に詣で、足につっかけて帰るので、お返しするためだ、という。お宮さんや、お地蔵さんには砂が山のようになった。佐味では正月が済むと、この砂を道の悪いところに置いた。満田では、大晦日に門口に砂を撒いたが、それを“ハツミチ”といった」とある。
砂モチ状態撮って、それで終わり。
次に向かいたい天理市の長滝。
昼までに帰ってこれる。そう思って西代の調査に来たが、なんなのなんの。出逢ったTさんの情報は大きく、昼めしを摂る時間がなくなってしまうくらいの質・量に感謝申し上げる次第だ。
また、余談であるが、FB知人のFさんからも砂モチ情報を伝えてくれた。
多神社の境外社と思われる姫皇子命神社に一山の立砂(たてずな)若しくは盛砂(もりすな)があった、という。
私にとっては初の取材地になる西代。
「にしんだい」の読みさえ知しらなかった初入りした西代。
この日に出会った住民のTさんに、老人カーを押して参拝された婦人からただいた貴重な民俗話題。
西代に出会えるキッカケとなった砂モ情報を報せてくれたYさん。
春日造りを記録してる写真家Kさんからは、民俗文化を記録された、先駆者の中田太造氏が執筆された『大和村落共同体と伝承文化』に記載があると報せてくれた。
西代・八坂神社の解説文を通じて学ばせてくれたNさん。
村屋坐弥冨都比売神社宮司の守屋広尚氏からの情報もある。
私が民俗調査をできたのも、すべて先駆者のおかげである。
これまでも先駆者から受けた、或は見聞きした数々の多様な情報提供によって、私が現時点の取材ができるのである。
ありがたく感謝し、敬服するとともに、また敬意を払わなければはならない、と念頭におき、今後も活動していきたい。
(R3. 1. 2 EOS7D/SB805SH撮影)