1月13日、下見に訪れた田原本町富本(とんもと)。
遡ること10カ月前の令和3年3月3日のひなまつり。
その日は、予め送ってくれた招待券を持参し、出かけた「県立民俗博物館耐震工事完了・本館リニューアルオープン」の日。
館内に出逢えた東秀好(あずまひでたか)館長。
テレビ局や新聞記者に伝える「県立民俗博物館耐震工事完了・本館リニューアルオープン」の話題提供。
奈良テレビの収録(※その放送は、今もユーチューブ公開されており、大和郡山の金魚養殖の道具も視聴できる)、朝日新聞に産経新聞記者への説明などを終えて、ちょっとした時間にお逢いした。
民俗に造詣が深い館長との会話。広がる民俗の話題。
東館長からのお願いは、是非ともSNS発信、拡散も・・。
その際、本館リニューアルオープンに古民家工事など、大いに宣伝してください、とお願いされた。
本館リニューアル工事中に開催した、9回目の「私がとらえた大和の民俗」写真展。
古民家開催は、大評判だった。
やむを得ない対応に、会場が民俗に相応しい環境とわかり、正解でした。ありがとうございました、とお礼をこの場で伝えた。
民俗の話題、写真の提供などで度々訪れては、取材した貴重な暮らしの民俗を学芸課に報せること、多し。緊急電話の呼び出しに、急遽かけつけ、インタビューを求めていたテレビ取材に応じたこともある。
それは、県内行事の取材の際に、現地の人たちからいただいた、行事に使った祭具や用具の入手。
その数、多くなり60点の用具を寄贈した。
新収蔵品として登録され、一部をコーナー展に展示された。
それらは、二度と入手できない貴重な「祭りの用具」。
だからこそ、新収蔵品として扱い、関連する祭りの用具を語ることになった。
そのような話題から、ふと思い出した。
9回目の「私がとらえた大和の民俗」写真展。
写真テーマは大きな括りに「つくり」。
私は、それから発想した「かんぴょう」つくり。
図録に記した思いなど。
出展者全員が提出した内容文を読まれた館長。
その際に指摘された件を、学芸員のMさんが、私に伝えてくれて修正した文章。
当初、提出したテーマ及び主旨説明文は、
「カンピョウの生産量(※指摘後に出荷量に置き換え)の国内シェアは、ダントツトップの栃木県。その量は315トンにもおよぶ。
2位は3トンの茨城県。3位に2トンの滋賀県に続いて1トンの埼玉県が並ぶ。
一般市場に出ない0トン生産量(※指摘後に出荷量に置き換え)は奈良県。(平成26年度のランキングデータより)
悲しいくらいの生産量(※指摘後に出荷量に置き換え)であるが、県内の場合は、ほそぼそと個人的に作られているのが現状とわかったのは、つい数年前のことだ。
カンピョウといえば、三つ葉とともに巻いた巻き寿司を思い出す。スーパーなどで売っている巻き寿司にカンピョウは見られない。回転寿司店に見るカンピョウ巻きは、おそらく中国産のカンピョウ。そのことを残念がる93歳のおふくろ。昔はよう食べた、というが・・。
取材した人たちは、間違いなく高齢者だった。後を継いでくれる者もいなくて途絶えたところは多々ある。数年も経たないうちに、奈良県のカンピョウ干しは消えるだろう。
2年前までは地産地消で販売していた道の駅。地産が消えて栃木産に・・」だった。
私は、参照した国のデータ「カンピョウの生産量(heisei2nen出荷量)の国内シェア」からみても、生産量であると判断。
館長が指摘された理由は、住まいしていた田原本町・富本の暮らしにあった。
在所の富本。
ご自宅にご近所もカンピョウ作りしている関係で、生産量というよりも、現実的に村・自宅では出荷量ととらえているから“出荷量”にしてはどうか、という指摘であった。
特に反論することはない、地元民が、とらえていた“出荷量”・
こうした現実的な対応をした「かんぴょう」のテーマ及び主旨説明文は、「生産量」を「収穫量」。
そして、「出荷量」に言い換え、再提出。
それで、佳し、と承諾されたのであった。
館長との「カンピョウ」話題のつながりは、その年の令和2年2月8日に行われた9回目の「私がとらえた大和の民俗」写真展の座談会に・・・
展示の初日。
旧萩原家にて開催した出展された写真家たちが、作品トークをする写真家座談会が行われた。
竈がある旧萩原家に設けたプロジェクターが映し出すスライドショーをもって解説トークの場。
用意していた椅子の数が足らなくなるほど集まってくださった一般聴衆の方たち。
中には、存じているカメラマン仲間たちに、それぞれの知り合いも。
集まりの後方にずっと聞いておられた館長。
歴代の館長は、そのような姿は、一切見なかったが、東館長は、私たちが語る大和の民俗を終わるまで清聴に聴いておられた。
その立ち姿は、今も脳裏に残っている、印象的なシーン。
実は、写真家座談会を展示初日に実施するのははじめてだ。
のちにわかるが、初日実施は正解だった。
と、いうのも、盛況に終えた座談会の日から20日後の2月27日。
県立民俗博物館から伝えられた突然の発表は、他府県が発表した「イベントや集会は、原則中止。若しくは延期」。
大阪事例であるが、奈良県も同調し、8日から開催していた9回目の「私がとらえた大和の民俗」も、突然の中止に・・・
座談会を開催していたころのコロナは、第6波の拡大化は確実性を帯びてきた、とニュースを報じていた。
いつかは、そうなるかも?と、感じていたコロナ禍時代。
コロナ禍に仕方のないことであるが、初日に座談会を終えていたので、不幸中の幸いだった。
さて、本題は田原本町富本・冨都神社の枇杷の葉のせ小豆粥御供の取材である。
前述に記した「県立民俗博物館耐震工事完了・本館リニューアルオープンの日」に、館内に出逢えた東秀好(あずまひでたか)館長との会話にご縁をいただいた行事が、田原本町富本・冨都神社の枇杷の葉のせ小豆粥御供だった。
実家の富本でされていた枇杷の葉のせ小豆粥御供である。
家でつくって小豆粥を枇杷の葉にのせ、最寄りの冨都神社に供える。
館長が、云った言葉。
“今もおばあが、供えている”、と・・・。
ご実家におられる、館長がおばあと呼ぶ母親がされていたのであった。
実家を離れて長年暮らした大阪から生まれ故郷の田原本町・富本(とんもと)に、館長夫妻ともども戻った。
何十年も離れていたが、今ではすっかり富本人、だとおっしゃる。
おばあは、毎年の正月に氏神社の富都(ふつ)神社に鏡餅を供える。
また、小正月には知人のFさんが撮られたアオキの葉のせの小豆粥御供をしていた。
とらえた映像の葉っぱはアオキだが、多くは枇杷の葉である。
昔はもっと多く村人が小豆粥御供をしていたが、今はもう1軒のお家と我が家の2軒がしている、という。
葉っぱのせ小豆粥御供習俗の取材を願ったら、どうぞ来てください、だった。
ご自宅は神社より少し離れている。
今は水路のように見える「かんでん川」に架かった橋を渡る。
元は川だったという水路沿いにある民家が暮らしの住処。
なんでも安堵町の富本憲吉先祖は、ここ富本から出たという。
また、もっと南のある十六面。
呼び名はジュウロクセンであるが、かつては富本から分かれの出垣内。
ずいぶん前のことらしく、富本(とんもと;とむもと)村は人も戸数も増え、ひとつの村に。
そして、富本から分離した“別れ(※わかれ)”だから、名称を“とむおもて”に、した。
そこが、水路上流の地。
現在の十六面(※じゅうろくせん)に辺りの地である。
それにしても、その地を「とむおもて」に読むなら、本村(※ほんむら)の富本に同じであったら、まずいとされたのか、充てる漢字を十六面(※じゅうろくというめんが天から落ちてきたという由来から)とした、と教えてくださった。
地名の変遷は、地元で生まれ育った方が「桃おやじの歴史散歩」ブログに書き留めている。
その経緯というか、読みの転化であるが、以下のように綴っている。
「十六面はもと富本と一つであったのが、寛永(1624~1643)のころに分立したと伝えられ、それで富本の伏せ字から十六面をトムオモテと呼ぶようになったとも言われています。また西竹田には、今も金春屋敷といわれるところがあります。(『平野村史』から)」、「※十三下(とみもと)→とんもと→とむおもて(※十六面)→じゅうろくめん→じゅうろくせんになったのが、史実のよう・・」、と。
なお、「十三」に、ついては、ブログ「エナガ先生の講義メモ」が詳しい。
特に記事中にあった重要と思える「鎮座地の富本(とんもと)は飛鳥川の堤防に接する集落です。富本のトミは、十三(トミ)とも、十三(つつみ)とも読み飛鳥川の堤のことです。堤を十三と、書く事例は大阪市内の淀川堤べりの十三(じゅうそう)にもみられ、同地に富神社が鎮座していました。また、御所市内にも葛城川の堤防沿いに南十三、北十三の大字が現在もあります」と、・・・
この2件のキーワードが「十三(トミ)」。調べれば、さらに深まる経緯に、多くの事例を求めなければならない可能性もありそうだ。
富本話題に惹かれて下見にでかけた13日。
現地の状態を見ておきたい富都(ふつ)神社。
足を運んで歩いた集落内の地蔵尊の場や、屋根付き藁積みも確認できた。
その足で伺った民家に表敬訪問するも不在。
その日は、平日だけにお仕事の関係だろう。
自宅に戻ってからの夕刻であれば、と思って館長に電話をかけたら繋がった。
小正月は、今も例年通りの1月15日。
「土曜日の15日は、父親命日。月参りに広陵町広瀬・常念寺のおっさん(※お住さん/住職)が来てくれるから、お念仏が終る午前10時ころに訪問してほしい」。
それまでに「小豆粥・枇杷の葉の支度を調えている」と、伝えてくださった。
その日の取材に、県立民俗博物館事業の「私がとらえた大和の民俗」写真展に参加している写真家のKさんともども伺っていですか、に快く了承してくださった。
「母親が供える場は、神社に2カ所。地蔵さんに、またほかにも供えるだろう」、と・・・
なお、西の地蔵盆は7月23日。
旧浄土寺前の地蔵盆は8月24日。
「かつて集落に子どもが大勢いたころは、広瀬・常念寺のおっさんが来て念仏を唱えていたが、今は1人になったためわからないが、おっさんは来ないで、地区の年寄りたちが清掃してお供え。調えたら念仏をしている」ことも話してくださった。
お昼は、すぐ近くにある食事処。
台湾料理を提供してくれる台湾料理・美食城竹田店の美味いラーメン丼セットにするつもりが、急展開。
温、温のうどんが食べたくなってハンドルを握った先の食事処は、ここから、それほど遠くない丸亀製麵大和郡山店のカレーうどんを食べてこよっと・・・
(R4. 1.13 SB805SH 撮影)
遡ること10カ月前の令和3年3月3日のひなまつり。
その日は、予め送ってくれた招待券を持参し、出かけた「県立民俗博物館耐震工事完了・本館リニューアルオープン」の日。
館内に出逢えた東秀好(あずまひでたか)館長。
テレビ局や新聞記者に伝える「県立民俗博物館耐震工事完了・本館リニューアルオープン」の話題提供。
奈良テレビの収録(※その放送は、今もユーチューブ公開されており、大和郡山の金魚養殖の道具も視聴できる)、朝日新聞に産経新聞記者への説明などを終えて、ちょっとした時間にお逢いした。
民俗に造詣が深い館長との会話。広がる民俗の話題。
東館長からのお願いは、是非ともSNS発信、拡散も・・。
その際、本館リニューアルオープンに古民家工事など、大いに宣伝してください、とお願いされた。
本館リニューアル工事中に開催した、9回目の「私がとらえた大和の民俗」写真展。
古民家開催は、大評判だった。
やむを得ない対応に、会場が民俗に相応しい環境とわかり、正解でした。ありがとうございました、とお礼をこの場で伝えた。
民俗の話題、写真の提供などで度々訪れては、取材した貴重な暮らしの民俗を学芸課に報せること、多し。緊急電話の呼び出しに、急遽かけつけ、インタビューを求めていたテレビ取材に応じたこともある。
それは、県内行事の取材の際に、現地の人たちからいただいた、行事に使った祭具や用具の入手。
その数、多くなり60点の用具を寄贈した。
新収蔵品として登録され、一部をコーナー展に展示された。
それらは、二度と入手できない貴重な「祭りの用具」。
だからこそ、新収蔵品として扱い、関連する祭りの用具を語ることになった。
そのような話題から、ふと思い出した。
9回目の「私がとらえた大和の民俗」写真展。
写真テーマは大きな括りに「つくり」。
私は、それから発想した「かんぴょう」つくり。
図録に記した思いなど。
出展者全員が提出した内容文を読まれた館長。
その際に指摘された件を、学芸員のMさんが、私に伝えてくれて修正した文章。
当初、提出したテーマ及び主旨説明文は、
「カンピョウの生産量(※指摘後に出荷量に置き換え)の国内シェアは、ダントツトップの栃木県。その量は315トンにもおよぶ。
2位は3トンの茨城県。3位に2トンの滋賀県に続いて1トンの埼玉県が並ぶ。
一般市場に出ない0トン生産量(※指摘後に出荷量に置き換え)は奈良県。(平成26年度のランキングデータより)
悲しいくらいの生産量(※指摘後に出荷量に置き換え)であるが、県内の場合は、ほそぼそと個人的に作られているのが現状とわかったのは、つい数年前のことだ。
カンピョウといえば、三つ葉とともに巻いた巻き寿司を思い出す。スーパーなどで売っている巻き寿司にカンピョウは見られない。回転寿司店に見るカンピョウ巻きは、おそらく中国産のカンピョウ。そのことを残念がる93歳のおふくろ。昔はよう食べた、というが・・。
取材した人たちは、間違いなく高齢者だった。後を継いでくれる者もいなくて途絶えたところは多々ある。数年も経たないうちに、奈良県のカンピョウ干しは消えるだろう。
2年前までは地産地消で販売していた道の駅。地産が消えて栃木産に・・」だった。
私は、参照した国のデータ「カンピョウの生産量(heisei2nen出荷量)の国内シェア」からみても、生産量であると判断。
館長が指摘された理由は、住まいしていた田原本町・富本の暮らしにあった。
在所の富本。
ご自宅にご近所もカンピョウ作りしている関係で、生産量というよりも、現実的に村・自宅では出荷量ととらえているから“出荷量”にしてはどうか、という指摘であった。
特に反論することはない、地元民が、とらえていた“出荷量”・
こうした現実的な対応をした「かんぴょう」のテーマ及び主旨説明文は、「生産量」を「収穫量」。
そして、「出荷量」に言い換え、再提出。
それで、佳し、と承諾されたのであった。
館長との「カンピョウ」話題のつながりは、その年の令和2年2月8日に行われた9回目の「私がとらえた大和の民俗」写真展の座談会に・・・
展示の初日。
旧萩原家にて開催した出展された写真家たちが、作品トークをする写真家座談会が行われた。
竈がある旧萩原家に設けたプロジェクターが映し出すスライドショーをもって解説トークの場。
用意していた椅子の数が足らなくなるほど集まってくださった一般聴衆の方たち。
中には、存じているカメラマン仲間たちに、それぞれの知り合いも。
集まりの後方にずっと聞いておられた館長。
歴代の館長は、そのような姿は、一切見なかったが、東館長は、私たちが語る大和の民俗を終わるまで清聴に聴いておられた。
その立ち姿は、今も脳裏に残っている、印象的なシーン。
実は、写真家座談会を展示初日に実施するのははじめてだ。
のちにわかるが、初日実施は正解だった。
と、いうのも、盛況に終えた座談会の日から20日後の2月27日。
県立民俗博物館から伝えられた突然の発表は、他府県が発表した「イベントや集会は、原則中止。若しくは延期」。
大阪事例であるが、奈良県も同調し、8日から開催していた9回目の「私がとらえた大和の民俗」も、突然の中止に・・・
座談会を開催していたころのコロナは、第6波の拡大化は確実性を帯びてきた、とニュースを報じていた。
いつかは、そうなるかも?と、感じていたコロナ禍時代。
コロナ禍に仕方のないことであるが、初日に座談会を終えていたので、不幸中の幸いだった。
さて、本題は田原本町富本・冨都神社の枇杷の葉のせ小豆粥御供の取材である。
前述に記した「県立民俗博物館耐震工事完了・本館リニューアルオープンの日」に、館内に出逢えた東秀好(あずまひでたか)館長との会話にご縁をいただいた行事が、田原本町富本・冨都神社の枇杷の葉のせ小豆粥御供だった。
実家の富本でされていた枇杷の葉のせ小豆粥御供である。
家でつくって小豆粥を枇杷の葉にのせ、最寄りの冨都神社に供える。
館長が、云った言葉。
“今もおばあが、供えている”、と・・・。
ご実家におられる、館長がおばあと呼ぶ母親がされていたのであった。
実家を離れて長年暮らした大阪から生まれ故郷の田原本町・富本(とんもと)に、館長夫妻ともども戻った。
何十年も離れていたが、今ではすっかり富本人、だとおっしゃる。
おばあは、毎年の正月に氏神社の富都(ふつ)神社に鏡餅を供える。
また、小正月には知人のFさんが撮られたアオキの葉のせの小豆粥御供をしていた。
とらえた映像の葉っぱはアオキだが、多くは枇杷の葉である。
昔はもっと多く村人が小豆粥御供をしていたが、今はもう1軒のお家と我が家の2軒がしている、という。
葉っぱのせ小豆粥御供習俗の取材を願ったら、どうぞ来てください、だった。
ご自宅は神社より少し離れている。
今は水路のように見える「かんでん川」に架かった橋を渡る。
元は川だったという水路沿いにある民家が暮らしの住処。
なんでも安堵町の富本憲吉先祖は、ここ富本から出たという。
また、もっと南のある十六面。
呼び名はジュウロクセンであるが、かつては富本から分かれの出垣内。
ずいぶん前のことらしく、富本(とんもと;とむもと)村は人も戸数も増え、ひとつの村に。
そして、富本から分離した“別れ(※わかれ)”だから、名称を“とむおもて”に、した。
そこが、水路上流の地。
現在の十六面(※じゅうろくせん)に辺りの地である。
それにしても、その地を「とむおもて」に読むなら、本村(※ほんむら)の富本に同じであったら、まずいとされたのか、充てる漢字を十六面(※じゅうろくというめんが天から落ちてきたという由来から)とした、と教えてくださった。
地名の変遷は、地元で生まれ育った方が「桃おやじの歴史散歩」ブログに書き留めている。
その経緯というか、読みの転化であるが、以下のように綴っている。
「十六面はもと富本と一つであったのが、寛永(1624~1643)のころに分立したと伝えられ、それで富本の伏せ字から十六面をトムオモテと呼ぶようになったとも言われています。また西竹田には、今も金春屋敷といわれるところがあります。(『平野村史』から)」、「※十三下(とみもと)→とんもと→とむおもて(※十六面)→じゅうろくめん→じゅうろくせんになったのが、史実のよう・・」、と。
なお、「十三」に、ついては、ブログ「エナガ先生の講義メモ」が詳しい。
特に記事中にあった重要と思える「鎮座地の富本(とんもと)は飛鳥川の堤防に接する集落です。富本のトミは、十三(トミ)とも、十三(つつみ)とも読み飛鳥川の堤のことです。堤を十三と、書く事例は大阪市内の淀川堤べりの十三(じゅうそう)にもみられ、同地に富神社が鎮座していました。また、御所市内にも葛城川の堤防沿いに南十三、北十三の大字が現在もあります」と、・・・
この2件のキーワードが「十三(トミ)」。調べれば、さらに深まる経緯に、多くの事例を求めなければならない可能性もありそうだ。
富本話題に惹かれて下見にでかけた13日。
現地の状態を見ておきたい富都(ふつ)神社。
足を運んで歩いた集落内の地蔵尊の場や、屋根付き藁積みも確認できた。
その足で伺った民家に表敬訪問するも不在。
その日は、平日だけにお仕事の関係だろう。
自宅に戻ってからの夕刻であれば、と思って館長に電話をかけたら繋がった。
小正月は、今も例年通りの1月15日。
「土曜日の15日は、父親命日。月参りに広陵町広瀬・常念寺のおっさん(※お住さん/住職)が来てくれるから、お念仏が終る午前10時ころに訪問してほしい」。
それまでに「小豆粥・枇杷の葉の支度を調えている」と、伝えてくださった。
その日の取材に、県立民俗博物館事業の「私がとらえた大和の民俗」写真展に参加している写真家のKさんともども伺っていですか、に快く了承してくださった。
「母親が供える場は、神社に2カ所。地蔵さんに、またほかにも供えるだろう」、と・・・
なお、西の地蔵盆は7月23日。
旧浄土寺前の地蔵盆は8月24日。
「かつて集落に子どもが大勢いたころは、広瀬・常念寺のおっさんが来て念仏を唱えていたが、今は1人になったためわからないが、おっさんは来ないで、地区の年寄りたちが清掃してお供え。調えたら念仏をしている」ことも話してくださった。
お昼は、すぐ近くにある食事処。
台湾料理を提供してくれる台湾料理・美食城竹田店の美味いラーメン丼セットにするつもりが、急展開。
温、温のうどんが食べたくなってハンドルを握った先の食事処は、ここから、それほど遠くない丸亀製麵大和郡山店のカレーうどんを食べてこよっと・・・
(R4. 1.13 SB805SH 撮影)