午後4時に始まったいごもり祭のお田植え儀式。
京都府山城町棚倉に鎮座する涌出宮で行われる。
ついさきほどまでは座饗応の儀をされていた。
与力座の人たちが居籠舎に座る古川座に尾崎座、歩射座(びしゃざ)の座中をもてなす饗応の儀であった。
小休止を挟むことなく続いて行われる儀式が御田の式。
一連の農耕を模擬的に行う所作は、その年の豊作を願う祈願祭でもある。
昭和59年10月に発刊された京都府立山城郷土資料館編集する展示図録の『企画展―祈りと暮らし―』が手元にある。
地区の砂撒き行事を下見していた際に拝読した史料である。
京都府南部の神社で行われている“御田植祭”事例を掲載している。
一つは本日、立ち寄った木津川市山城町平尾・涌出宮(わきでのみや)である。
涌出宮については、いごもり祭における一連行事のうちの一つである御田の式は本編で紹介するが、近隣地の相楽郡精華町祝園(ほうその)・祝園神社の御田行事は、後年の平成30年に訪問したが、決して誰も見てはならない、他見を許さない秘儀は禁忌の神事である。
資料報告として所作などを再現、掲載された祝園の御田植えのあり方は、展示図録の『企画展―祈りと暮らし―』によって、その一部は読書お形で拝見できるので参考にされるのもよろしい。
また、山城町からそれほど遠くない木津川市相楽清水の相楽(さがなか)神社の御田行事は前年の平成29年1月15日に取材したことがある。
御田植え所作は拝殿、歌われる田植え歌の詞章も間近で耳に、また拝見も、可能だ。
さらには、木津川市吐師(はぜ)にある大宮神社にも御田行事が行われている、やに聞く。
年の初め、神前に行われる稲作の過程を演じ、模擬苗の松苗をあたかも田植えしているように所作をする。
行事を終えたころには田んぼの荒起こし、鍬初めなどを経た数か月後には籾落としに苗代作り、代掻きに田植え作業。
稲苗はすくすくと育ち、実際、稔りの秋のころは豊作になるよう願う年初の予祝行事。
村の重要な行事は、稲刈りを終えたら、氏神さんに参って豊作を感謝する新嘗祭が待っている。
古来より連綿と継承してきた農事行事。
現在も伝承されてきた四地区四葉の御田植祭であるが、御田の所作はなくとも模擬苗の松苗を奉って豊作を祈願している地域もある。
一つは、5月13日に行われている木津川市鹿背山。
神職が松苗を植える所作をする御田式。
図録の『企画展―祈りと暮らし―』に載っているが、発刊が昭和59年。
今から34年前。
聞き取り調査を要する件である。
また、木津川市木津の岡田国神社ではかつて1月15日に田植式をしていたそうだ。
南山城村田山の諏訪神社では5月1日に松苗祭があるらしい。
南山城村田山は11月の祭りの「田山の花踊り」が知られているが、豊作を祈願する松苗祭が行われているとはまったく知らなんだ。
1月6日に行われていた修正会は、事情によって現在は中断している。
松苗祭も、ふと気になった田山の豊作祈願であるが、神前に奉った松苗は、実際の農事に登場する。
大昔の村は、大多数が農家だった。
農家にとって豊作を願うのは当然。
村の行事で祈祷された松苗は、授かって苗代田の水口に立てる。
ほとんどがそうしてきたが、近年になって継承する家は極少に転じた。
奈良県内の事例調査においても然り、であるが、農事の場でなく、神棚に祭るという家が多くなっている。
その一因にあるのが、苗代田作りから始まる育苗は、JA購入に転換したことが大きい。
作業力の減少もまた一因である。
家族の協力をもってさまざまな作業をこなしてきたが、子どもたちが大きくなり、村を出る。
戻って作業を手伝うのは、田植えのときか、稲刈りに・・。
残された労力は高齢化。
かつては三世帯が住まいする構造で農事も行事も継承してきたが、土地を離れた若者が、戻ってくるケースは多くない。
話が横道に行きかけたので戻してみよう。
さて、苗代の水口に立てる松苗である。
平成19年7月に著者印南敏秀氏によって発刊された『京文化と生活技術―食・職・農と博物館―』に掲載された御田の式の写真も載せている。
写真は涌出宮いごもり祭の御田の式に、隣村になる祝園の居籠祭の御田植祭。
尤も、祝園の場合は、秘儀であるゆえ再現してもらった映像であるが・・。
この写真は、前述した図録『企画展―祈りと暮らし―』とまったく同じ。
つまり図録、京都府立山城資料館技師当時、学芸員だったと思われる著者印南敏秀氏が撮影したのであろう。
さて、饗応の儀に続いて行われる涌出宮いごもり祭・御田の式である。
”ぼうよ“が板元とともに田舟を曳く所作をはじめに、宮司による籾撒き所作、神前に供えていた樫の葉一枚ずつに盛った御供を下げて座中に配りがある。
次に、いごもり祭のいちばんの華になるそのいち、”ぼうよ“、”とも“の3人によって行われる「田植え」、参拝者に向けて配る松苗配り、給仕によるこかぎ・榊落としにおかぎ・榊配り、給仕による座中の「清めのちょうず(※手水)」で御田の式を終える。
居籠舎の北側扉は開放状態になった。
撮りたいシーン確保のためにどっと群がるカメラマン。
そこは神さんの田舟が通る道。
大きな本物の田舟が通りますから、道を開けてくださいと板元が大きな声を揚げる。
そこに登場した”ぼうよ“に板元。
一人はベテラン板元のKさん。
若坊の板元は後続に就く御供桶運び。
田舟曳きに詞章も演奏もないが、若い板元が打つ太鼓の音がある。
登場された3人は、古川座・座中に観ていただくような感じでぐるぐる廻る。
所作する場合の御供桶はベテラン板元が左手で持つ。
内部には樫の葉一枚ずつに盛った御供がある。
零さないように注意しながら水平を保ちつつ、左手は田舟を持ち上げ、右から左へ。
時計回りに廻る際、先導を行くのは”ぼうよ“。
白い布を手にした”ぼうよ“が田舟を曳く真似ごとをする様は、まるで船頭のように思える。
ちなみに後日に判読した田舟に薄く記された墨書きに「元禄(1693)六年」とあった。
また、曲物の御供桶の側面に「□別相楽郡平尾村氏神 涌出森神用具 文化十三丙子年(1816)十二月新調 神主 □□代」とある。
ストロボの光があちこちから散光するなかを三周する。
その状態を動画も記録していた菊約さんが公開するブログが参考になる。
田舟曳きの所作を終えたら、田舟を下げる。
次の所作は、中谷勝彦宮司による籾撒きである。
宮司が登場する前にすべきことがある。
座中一人、一人が家から持参した自前の風呂敷である。
色合い、風合い、柄違いなどが多様の風呂敷を広げた中央に扇を広げておく。
その場に登場した宮司は左手に鍬を抱え、首からぶら下げた籾籠持ちの姿。
中央を歩み出て一老の前に立つ。
籾籠に入れていた稲籾を一握り、上からパラパラと落とす。
いわゆる籾撒きの所作である。
広げた扇に当たる音はパラパラ。
まさに籾落としの作法である。
パラパラと音を立てた稲籾は弾けて風呂敷に広がる。
一老への籾落としを終えたら次は二老。
二老から三老・・・・そして十老まで座中一人ずつに所作される籾撒き。
一巡したら再び一老に戻って籾落とし。
これを三度繰り返す籾撒きである。
次は、御供配りである。
神前に供えていた御供を下げて座中一人ずつ配られる。
御供桶にある御供の数は11枚。
樫の葉一枚ずつに盛った御供。
古川座中は十人。
不測の際に供えて予備の一枚をおいておいたのだろうか。
模擬苗の松苗をもった田植え所作に移る。
巫女のそのいちと女児の“とも”と“ぼうよ”が役に就いてはじめる田植えの所作。
北向きに並んだ3人の姿を見て、立ち位置が・・。
田植えは後ろに下がりながら苗を植える。
所作は松苗の軸先の部分をちょんちょんと床に押し当てるような恰好をしたら、ぽいっと前に放る。
そんな感じだったが、ストロボの閃光はすごく多い。
巫女そのいちよりも可愛い姿の“とも”狙いのカメラマンが放つストロボの光にも耐えて笑顔で所作していた。
後ろ下がりは、実際の農作業も同じである。
現在は、田植えイベントでしか見ることのない人力による苗植え。
神田の水田に足を浸けて模擬的に田植えをする儀式がある。
奈良県内事例では桜井・大神神社があり、大阪では住吉大社のお田植え祭に見られる儀式がある。
人力であれば、みな後ろ下がり。
植える苗から数本を取り出して植えたら後ろに下がる。
下がった位置で植えたら、また後ろに足を進める。
それと同じように涌出宮いごもり祭の田植えもまた同じであるが、昭和30年代のころから全国に広がった現代の田植えは機械植え。
ギコギコと動く機械の手によって苗を植える。
田植えの機械は運転席の位置から前進しているかのように思えるが、実は後ろ向きに植えている。
撮影には不都合な立ち位置に今さらどうすることもできないが、逆に続けて行われる“とも”と“ぼうよ”の豊作を願って所作した松苗渡しが眼前に観られたのが嬉しい。
座中一人、一人が受け取った松苗は扇の近くに添えた。
そして、“とも”と“ぼうよ”は窓際に移動し、参拝していた観客たちにも1本ずつ差し上げる。
その中に古川座本家の家族がいた。
七度半の呼び遣いに給仕をされていた一家である。
なお、松苗を束包みしている奉紙に涌出宮の印を押しているそうだ。
次の所作は、給仕によるこかぎを中に入れた榊落とし。
枝付きの榊を座中、一人ずつに配られる。
先ほどまで群がっていたカメラマンの姿はない。
喧噪としてした情景はすっかりおとなしくなって、ごくごく一部の人たちだけが撮っていた。
おそらく役の関係者であろう。
そして、再び登場した中谷勝彦宮司。
次の所作は、前夜に行われた松明の儀に作法された“ごまいさんまい(御撒散撒)”に使われた玄米、洗米(白米)。
“ごまいさんまい”の用具に盛られた玄米、洗米を一握り掴んでは、座中にパラパラと落とす。
籾撒きと同じように玄米、洗米を扇に向けて落とす米落とし。
紙片とともに散らばった米は風呂敷が受け止めてくれる。
次も“ごまいさんまい(御撒散撒)”に使われた玄米、洗米。
宮司と同じように作法される板元である。
そして最後は給仕による”おかぎ“とともに束にした榊配り。
授かった稲籾に松苗、こかぎ・榊、玄米、洗米、おかぎ・榊は風呂敷に包んで持ち帰る。
春ともなれば育苗。
苗代作りを終えた座中は、水口に立てるのであろうか。
すべてが調った御田の式。
式典を終えた上座に座る座中に声をかけた。
小声で尋ねた結果は、唯一のお一人。
なんと、横で作法をずっと拝見し、声をかけさせていただいていた一老が、している、というのだ。
奇遇なことであろうか。
実は一老の他に苗代作りをしていたのは2人。
いずれも現在はJAから苗を購入することに切り替えたものだから、苗代に立てることはない、という。
苗代作り取材の了解をいただいた一老のFさんは電話番号も教えてくださった。
時季になる前にご連絡させていただくことも承諾してくださった。
良い出会いを与えてくださった宮司さんにも感謝する御田の式の豊作願い取材は4月末になりそうだ。
さて、御田の式の〆もまた、給仕による座中の「清めのちょうず(※手水)」で終える。
座中〆の儀を終えてやっと解放された与力座の一老。
いごもり祭神事が始まってから座饗応の儀、御田の式を営まれる2時間。
社殿に座わり、神ごとを守護するようにしていた一老が降りてきた。
居籠舎の下座に座った一老は深く頭を下げた。
2日間に亘って行われてきたいごもり祭の〆にご挨拶。
古川座に尾崎座、歩射座の座中に感謝と無事に終えたお礼を述べる。
斎主を務めた宮司もまた一老の横につき、「本日はおめでとうございます」と、祝辞を述べ、一同は場を離れ、解散した。
(H30. 2.18 EOS40D撮影)
京都府山城町棚倉に鎮座する涌出宮で行われる。
ついさきほどまでは座饗応の儀をされていた。
与力座の人たちが居籠舎に座る古川座に尾崎座、歩射座(びしゃざ)の座中をもてなす饗応の儀であった。
小休止を挟むことなく続いて行われる儀式が御田の式。
一連の農耕を模擬的に行う所作は、その年の豊作を願う祈願祭でもある。
昭和59年10月に発刊された京都府立山城郷土資料館編集する展示図録の『企画展―祈りと暮らし―』が手元にある。
地区の砂撒き行事を下見していた際に拝読した史料である。
京都府南部の神社で行われている“御田植祭”事例を掲載している。
一つは本日、立ち寄った木津川市山城町平尾・涌出宮(わきでのみや)である。
涌出宮については、いごもり祭における一連行事のうちの一つである御田の式は本編で紹介するが、近隣地の相楽郡精華町祝園(ほうその)・祝園神社の御田行事は、後年の平成30年に訪問したが、決して誰も見てはならない、他見を許さない秘儀は禁忌の神事である。
資料報告として所作などを再現、掲載された祝園の御田植えのあり方は、展示図録の『企画展―祈りと暮らし―』によって、その一部は読書お形で拝見できるので参考にされるのもよろしい。
また、山城町からそれほど遠くない木津川市相楽清水の相楽(さがなか)神社の御田行事は前年の平成29年1月15日に取材したことがある。
御田植え所作は拝殿、歌われる田植え歌の詞章も間近で耳に、また拝見も、可能だ。
さらには、木津川市吐師(はぜ)にある大宮神社にも御田行事が行われている、やに聞く。
年の初め、神前に行われる稲作の過程を演じ、模擬苗の松苗をあたかも田植えしているように所作をする。
行事を終えたころには田んぼの荒起こし、鍬初めなどを経た数か月後には籾落としに苗代作り、代掻きに田植え作業。
稲苗はすくすくと育ち、実際、稔りの秋のころは豊作になるよう願う年初の予祝行事。
村の重要な行事は、稲刈りを終えたら、氏神さんに参って豊作を感謝する新嘗祭が待っている。
古来より連綿と継承してきた農事行事。
現在も伝承されてきた四地区四葉の御田植祭であるが、御田の所作はなくとも模擬苗の松苗を奉って豊作を祈願している地域もある。
一つは、5月13日に行われている木津川市鹿背山。
神職が松苗を植える所作をする御田式。
図録の『企画展―祈りと暮らし―』に載っているが、発刊が昭和59年。
今から34年前。
聞き取り調査を要する件である。
また、木津川市木津の岡田国神社ではかつて1月15日に田植式をしていたそうだ。
南山城村田山の諏訪神社では5月1日に松苗祭があるらしい。
南山城村田山は11月の祭りの「田山の花踊り」が知られているが、豊作を祈願する松苗祭が行われているとはまったく知らなんだ。
1月6日に行われていた修正会は、事情によって現在は中断している。
松苗祭も、ふと気になった田山の豊作祈願であるが、神前に奉った松苗は、実際の農事に登場する。
大昔の村は、大多数が農家だった。
農家にとって豊作を願うのは当然。
村の行事で祈祷された松苗は、授かって苗代田の水口に立てる。
ほとんどがそうしてきたが、近年になって継承する家は極少に転じた。
奈良県内の事例調査においても然り、であるが、農事の場でなく、神棚に祭るという家が多くなっている。
その一因にあるのが、苗代田作りから始まる育苗は、JA購入に転換したことが大きい。
作業力の減少もまた一因である。
家族の協力をもってさまざまな作業をこなしてきたが、子どもたちが大きくなり、村を出る。
戻って作業を手伝うのは、田植えのときか、稲刈りに・・。
残された労力は高齢化。
かつては三世帯が住まいする構造で農事も行事も継承してきたが、土地を離れた若者が、戻ってくるケースは多くない。
話が横道に行きかけたので戻してみよう。
さて、苗代の水口に立てる松苗である。
平成19年7月に著者印南敏秀氏によって発刊された『京文化と生活技術―食・職・農と博物館―』に掲載された御田の式の写真も載せている。
写真は涌出宮いごもり祭の御田の式に、隣村になる祝園の居籠祭の御田植祭。
尤も、祝園の場合は、秘儀であるゆえ再現してもらった映像であるが・・。
この写真は、前述した図録『企画展―祈りと暮らし―』とまったく同じ。
つまり図録、京都府立山城資料館技師当時、学芸員だったと思われる著者印南敏秀氏が撮影したのであろう。
さて、饗応の儀に続いて行われる涌出宮いごもり祭・御田の式である。
”ぼうよ“が板元とともに田舟を曳く所作をはじめに、宮司による籾撒き所作、神前に供えていた樫の葉一枚ずつに盛った御供を下げて座中に配りがある。
次に、いごもり祭のいちばんの華になるそのいち、”ぼうよ“、”とも“の3人によって行われる「田植え」、参拝者に向けて配る松苗配り、給仕によるこかぎ・榊落としにおかぎ・榊配り、給仕による座中の「清めのちょうず(※手水)」で御田の式を終える。
居籠舎の北側扉は開放状態になった。
撮りたいシーン確保のためにどっと群がるカメラマン。
そこは神さんの田舟が通る道。
大きな本物の田舟が通りますから、道を開けてくださいと板元が大きな声を揚げる。
そこに登場した”ぼうよ“に板元。
一人はベテラン板元のKさん。
若坊の板元は後続に就く御供桶運び。
田舟曳きに詞章も演奏もないが、若い板元が打つ太鼓の音がある。
登場された3人は、古川座・座中に観ていただくような感じでぐるぐる廻る。
所作する場合の御供桶はベテラン板元が左手で持つ。
内部には樫の葉一枚ずつに盛った御供がある。
零さないように注意しながら水平を保ちつつ、左手は田舟を持ち上げ、右から左へ。
時計回りに廻る際、先導を行くのは”ぼうよ“。
白い布を手にした”ぼうよ“が田舟を曳く真似ごとをする様は、まるで船頭のように思える。
ちなみに後日に判読した田舟に薄く記された墨書きに「元禄(1693)六年」とあった。
また、曲物の御供桶の側面に「□別相楽郡平尾村氏神 涌出森神用具 文化十三丙子年(1816)十二月新調 神主 □□代」とある。
ストロボの光があちこちから散光するなかを三周する。
その状態を動画も記録していた菊約さんが公開するブログが参考になる。
田舟曳きの所作を終えたら、田舟を下げる。
次の所作は、中谷勝彦宮司による籾撒きである。
宮司が登場する前にすべきことがある。
座中一人、一人が家から持参した自前の風呂敷である。
色合い、風合い、柄違いなどが多様の風呂敷を広げた中央に扇を広げておく。
その場に登場した宮司は左手に鍬を抱え、首からぶら下げた籾籠持ちの姿。
中央を歩み出て一老の前に立つ。
籾籠に入れていた稲籾を一握り、上からパラパラと落とす。
いわゆる籾撒きの所作である。
広げた扇に当たる音はパラパラ。
まさに籾落としの作法である。
パラパラと音を立てた稲籾は弾けて風呂敷に広がる。
一老への籾落としを終えたら次は二老。
二老から三老・・・・そして十老まで座中一人ずつに所作される籾撒き。
一巡したら再び一老に戻って籾落とし。
これを三度繰り返す籾撒きである。
次は、御供配りである。
神前に供えていた御供を下げて座中一人ずつ配られる。
御供桶にある御供の数は11枚。
樫の葉一枚ずつに盛った御供。
古川座中は十人。
不測の際に供えて予備の一枚をおいておいたのだろうか。
模擬苗の松苗をもった田植え所作に移る。
巫女のそのいちと女児の“とも”と“ぼうよ”が役に就いてはじめる田植えの所作。
北向きに並んだ3人の姿を見て、立ち位置が・・。
田植えは後ろに下がりながら苗を植える。
所作は松苗の軸先の部分をちょんちょんと床に押し当てるような恰好をしたら、ぽいっと前に放る。
そんな感じだったが、ストロボの閃光はすごく多い。
巫女そのいちよりも可愛い姿の“とも”狙いのカメラマンが放つストロボの光にも耐えて笑顔で所作していた。
後ろ下がりは、実際の農作業も同じである。
現在は、田植えイベントでしか見ることのない人力による苗植え。
神田の水田に足を浸けて模擬的に田植えをする儀式がある。
奈良県内事例では桜井・大神神社があり、大阪では住吉大社のお田植え祭に見られる儀式がある。
人力であれば、みな後ろ下がり。
植える苗から数本を取り出して植えたら後ろに下がる。
下がった位置で植えたら、また後ろに足を進める。
それと同じように涌出宮いごもり祭の田植えもまた同じであるが、昭和30年代のころから全国に広がった現代の田植えは機械植え。
ギコギコと動く機械の手によって苗を植える。
田植えの機械は運転席の位置から前進しているかのように思えるが、実は後ろ向きに植えている。
撮影には不都合な立ち位置に今さらどうすることもできないが、逆に続けて行われる“とも”と“ぼうよ”の豊作を願って所作した松苗渡しが眼前に観られたのが嬉しい。
座中一人、一人が受け取った松苗は扇の近くに添えた。
そして、“とも”と“ぼうよ”は窓際に移動し、参拝していた観客たちにも1本ずつ差し上げる。
その中に古川座本家の家族がいた。
七度半の呼び遣いに給仕をされていた一家である。
なお、松苗を束包みしている奉紙に涌出宮の印を押しているそうだ。
次の所作は、給仕によるこかぎを中に入れた榊落とし。
枝付きの榊を座中、一人ずつに配られる。
先ほどまで群がっていたカメラマンの姿はない。
喧噪としてした情景はすっかりおとなしくなって、ごくごく一部の人たちだけが撮っていた。
おそらく役の関係者であろう。
そして、再び登場した中谷勝彦宮司。
次の所作は、前夜に行われた松明の儀に作法された“ごまいさんまい(御撒散撒)”に使われた玄米、洗米(白米)。
“ごまいさんまい”の用具に盛られた玄米、洗米を一握り掴んでは、座中にパラパラと落とす。
籾撒きと同じように玄米、洗米を扇に向けて落とす米落とし。
紙片とともに散らばった米は風呂敷が受け止めてくれる。
次も“ごまいさんまい(御撒散撒)”に使われた玄米、洗米。
宮司と同じように作法される板元である。
そして最後は給仕による”おかぎ“とともに束にした榊配り。
授かった稲籾に松苗、こかぎ・榊、玄米、洗米、おかぎ・榊は風呂敷に包んで持ち帰る。
春ともなれば育苗。
苗代作りを終えた座中は、水口に立てるのであろうか。
すべてが調った御田の式。
式典を終えた上座に座る座中に声をかけた。
小声で尋ねた結果は、唯一のお一人。
なんと、横で作法をずっと拝見し、声をかけさせていただいていた一老が、している、というのだ。
奇遇なことであろうか。
実は一老の他に苗代作りをしていたのは2人。
いずれも現在はJAから苗を購入することに切り替えたものだから、苗代に立てることはない、という。
苗代作り取材の了解をいただいた一老のFさんは電話番号も教えてくださった。
時季になる前にご連絡させていただくことも承諾してくださった。
良い出会いを与えてくださった宮司さんにも感謝する御田の式の豊作願い取材は4月末になりそうだ。
さて、御田の式の〆もまた、給仕による座中の「清めのちょうず(※手水)」で終える。
座中〆の儀を終えてやっと解放された与力座の一老。
いごもり祭神事が始まってから座饗応の儀、御田の式を営まれる2時間。
社殿に座わり、神ごとを守護するようにしていた一老が降りてきた。
居籠舎の下座に座った一老は深く頭を下げた。
2日間に亘って行われてきたいごもり祭の〆にご挨拶。
古川座に尾崎座、歩射座の座中に感謝と無事に終えたお礼を述べる。
斎主を務めた宮司もまた一老の横につき、「本日はおめでとうございます」と、祝辞を述べ、一同は場を離れ、解散した。
(H30. 2.18 EOS40D撮影)