弱火でコトコト。豆の形がつぶれないように煮る。
固くもなく柔らかくもないように煮た豆はその形を維持しておかなければならない。
高さは15cm程度で、底辺が4~5cmぐらい。
三角形のような形にするとか話していた白河のシンコ御供を風呂敷に包んで抱えてきた一人の当屋。
御歳80歳を迎えた今年シンコ作りの当番を務めるTさんだ。
もう一軒の当屋を務めるSさんとともに秉田(ひきた)神社に向かう。
出かける前に拝見したシンコを拝見して感動する。
これまで奈良県内で御供されるシンコはどこともオヒネリ型の団子だった。
シンコと云えばシンコダンゴとついつい口にしてしまうぐらいで、シンコモチの名は聞いたことがないと思う。
平成20年、21年の4月3日の神武祭に訪れた奈良市山町・下山の八坂神社。
祭りに供えられるシンコはシンコモチと呼んでいたが食べてみればダンゴの味がした。
なぜか。それは原材料で決まる。
山町のシンコモチはコメ粉とモチ米の割合が七、三。
七割の味がダンゴであった。
モチ米が三割もあるからモチモチしている。
ゆえにシンコモチの名である。
形は棒状にしたシンコを手で捻る。
3、4筋がつくように回転させて作ったシンコモチであるが、昨今は回転ネジのような形になるよう器械挟み。
うち何個かは手捻りがある。
シンコ事例のもう一つ。
毎年の5月5日に行われる大和郡山市池之内町で行われている牛の宮参りがある。
平成17年、18年、20年、21年、22年に亘って取材した。
主役は15歳になった男子。
いなければ自治会役員が参る行事であるが、牛の宮に供えるシンコは和菓子屋さんで作ってもらったもの。
子どもたちはシンコを食べる。
その後に村全戸を巡って配るという行事だ。
今でこそ和菓子屋さんで作ってもらっているが、かつては手作りだった。
平成元年に書き記された資料には細かい部分までレシピ化されていたが、造りは捻りでもなかったようだ。
所変われば品変わるというシンコ事例は平成26年8月24日に訪れた吉野町丹治の地蔵盆がある。
数か所の垣内ごとに地蔵盆がある。
当地のお供えは色付けもあるシンコダンゴだった。
赤、緑の色粉を塗って作ったシンコダンゴを串に挿して盛る御供であった。
食べて味を確かめることはなかったが話しの様相から手作りのシンコダンゴのようである。
ちなみにみたらしだんごの原材料はウルチ米を直に挽いて作った粉。
だんご粉はウルチ米とモチ米を混ぜて挽いた。
白玉だんごの原材料はモチ米を挽いたもの。
それぞれ材料が違うので味わいが異なる。
さて、白河のシンコにもレシピが残されていた。
この年の当屋の一人。S家に残されていたレシピを拝見する。
タイトルは「村芯粉作り方」。
纏められたレシピの原文は「村より芯粉(※ シンコ)するお米頂く(約3斗-3.5斗)(米我家4合程たす) 粉ハタキする 赤豆5合程煮る 添付のマス(※ 枡)でハタイタ粉全部はかって見る 添付のマス(※ 枡)で2斗計って湯を入れてこねる こねた粉を 添えつけのサシの長さにして 四ツのサシ目に切る 切った一切を五ツに切る 2斗の粉で20個作る 切った物を芯粉の形にととのへて蒸す むし上ったらあつい間に小豆つける 出来上り」だった。
簡単に作れるように書いてある文の書き方から先代、若しくは先々代が書き残したものと思える。
ご主人がこのレシピにハタいていたという道具が今でもあると話していた。
家のすぐ傍にある農小屋。
そこにあると話していた20年前までは現役だったカラウス。
ぎっこんばったん、力を入れた足で踏んで臼に入れた米をハタく。
大和郡山市内に住む老婦人たちはウスヒキと呼んでいた。
ウスヒキの呼び名を聞いたのは明日香村の上居(じょうご)。
広く浸透していたようだ。
後日に聞いた奥さんが嫁入りしたころのカラウス。
出里の田原でのカラウスはハンドルのような手で支える仕組みがあった。
力は手と踏み込む足でバランスをとっていたが、嫁入り先の当地のカラウスはそれがなかった。
右手を農小屋の壁にあててバランスをとったこともあった。
もう一つの仕組みは農小屋の軒から垂らした紐のようなもの。
それを掴んで足を踏み込んだ。力を入れにくかったと話していた。
カラウスを充てる漢字は唐臼若しくは殻臼である。
臼を地面に埋めて杵で搗く。
柄の先にある杵を動かすには、逆方向の柄を足で踏むことだ。
テコの原理を利用したカラウスが文献に現われる時代は平安時代。
一般に普及したのは江戸時代になってからである。
作ったシンコを供えに向かうが参拝する神社は急な坂道を登らなければならない。
老婦人には堪える急坂を避けてSさんは運転する車で移動する。
「あなたも一緒に乗ってください」と云われて同乗する。
山間、急な道に対抗する車が鉢合わせすることもある。
どちらかが譲らないといけないバック運転は慣れていなければ難しい狭い道である。
今でも講中が寄合に集まる西の白泉寺(はくせんじ)を通り越して秉田(ひきた)神社に着く。
潜る鳥居前に建つ灯籠は天保十二年(1841)七月に寄進された大神宮である。
ということは伊勢信仰があったのではないだろうか。
潜って数メートル。
右手にこんもりとした塚のような土台がある。
樹木の根元にあったペットボトルに挿してある枝葉。
その横にあるのは細い竹で作った弓矢。
左手に四角く囲った鬼の的もある。
僅かに残された「鬼」の文字で判る。
これは前月の11日にお二人の婦人の手によって行われた「ケイチン」の名残である。
サカキの葉を挿してお参り。
そして二人が鬼的を目がけて竹で作った矢を打つ。
新芽をつけた梅の枝で作った矢は一人ずつ。
鬼をぶち当てるまで打っていた様子を写した写真を拝見した。
たしかに二人の婦人である。
これまで奈良県内で行われている数々の「ケイチン」鬼打ちを拝見してきたが婦人だけでされているのは見たことがない。
二人の話しによれば前年は男性ばかりだったそうだから、当屋家、それぞれの事情があるのだろう。
包んでいた風呂敷を解いてお盆に盛ったシンコを神社に供える。
供える場は拝殿の階段上の回廊だ。
賽銭箱のすぐ傍に置いて二人は手を合わせる。
参拝する場合に振る鈴の緒。
何年か前に村人何人かが寄せ合って新装寄進された。
それまでは42歳になった厄男が紅白の幕をつけた緒を奉納していた。
それを取り払って新装したようである。
行事の作法は祝詞を唱えることもなく神さんに向かって手を合わせて拝むだけであった。
お皿に盛った大きなシンコは四つ。
一度、捻ったような形である。
横から見れば長方形。
正面から見れば三角形。
これまで見たこともないような形である。
前述したとおりの長さが15cmに正面高さが4~5cmぐらいの大きさだ。
シンコの原材料はアキタコマチ。
カラウスでハタいた2臼。
米粉にして湯でこねる。
それをナガモチ(長餅)のような棒状の形にする。
両端は揃えて見栄えが良いように包丁で切断する。
全体を三角形になるように手で形作る。
それを両手で捻る。
Sさんのご主人は左へ捻るようにすると話していた。
これで形を調えるのだ。
シンコは村全戸に配るから戸数分を作る。
前述したレシピにいただくお米は約3斗から3.5斗にもなるぐらいだから相当な量である。
戸数分ができたら蒸す。
出来上がったら柔らかいうちに煮た小豆をシンコに押し込んでいくのだが、柔らかければ柔らかいほど捻りが戻る。
形を整えても戻るからたいへんだったと話す。
煮た小豆は形が潰れないように押し込む。
押し込みすぎたら潰れるのでとても難しい。
この作業を塗すと話していたシンコ。
まさにシンコにくっ付いている感じである。
昭和56年発刊に発汗された『桜井市史 民俗編』に「三月二十日の彼岸の中日に頭屋へ各垣内から二人ずつ手伝いに来てシンコ作りをした。まず、粉はたきをして昼風呂に入り、素襖を着て重ねこしき(甑)で蒸してゴク(御供)作りをした。これに小豆餡をつけるのが難しい」と書いてあった。
まさに、その通りである。
なぜにシンコを供えるのか。この行事の呼び名は特になく「シンコ」である。
敢えて言うなら神さんに供える「シンコ」である。
当屋に伝わる話しがある。
むかし、むかしのことだ。
供えなかったことがある。
その年は疫病が流行った。
そんなことがあって再び「シンコ」を供えることになったという。
シンコを供えて参った二人が話すシンコ配り。
村人一人について2本ずつ配っていた。
人数はそれほど多くはないが全部で60本ぐらい。
30戸の集落の全戸に配っていた。
今回作られた夫人が話す。
米粉をはたいてタライに入れた。
そこにお湯を入れながら練った。
形を調えるのが難しかったと云う。
もしかとすればだが、この行事は「ケイチン」と関連性があったかも知れないと話す。
(H28. 3.21 EOS40D撮影)
固くもなく柔らかくもないように煮た豆はその形を維持しておかなければならない。
高さは15cm程度で、底辺が4~5cmぐらい。
三角形のような形にするとか話していた白河のシンコ御供を風呂敷に包んで抱えてきた一人の当屋。
御歳80歳を迎えた今年シンコ作りの当番を務めるTさんだ。
もう一軒の当屋を務めるSさんとともに秉田(ひきた)神社に向かう。
出かける前に拝見したシンコを拝見して感動する。
これまで奈良県内で御供されるシンコはどこともオヒネリ型の団子だった。
シンコと云えばシンコダンゴとついつい口にしてしまうぐらいで、シンコモチの名は聞いたことがないと思う。
平成20年、21年の4月3日の神武祭に訪れた奈良市山町・下山の八坂神社。
祭りに供えられるシンコはシンコモチと呼んでいたが食べてみればダンゴの味がした。
なぜか。それは原材料で決まる。
山町のシンコモチはコメ粉とモチ米の割合が七、三。
七割の味がダンゴであった。
モチ米が三割もあるからモチモチしている。
ゆえにシンコモチの名である。
形は棒状にしたシンコを手で捻る。
3、4筋がつくように回転させて作ったシンコモチであるが、昨今は回転ネジのような形になるよう器械挟み。
うち何個かは手捻りがある。
シンコ事例のもう一つ。
毎年の5月5日に行われる大和郡山市池之内町で行われている牛の宮参りがある。
平成17年、18年、20年、21年、22年に亘って取材した。
主役は15歳になった男子。
いなければ自治会役員が参る行事であるが、牛の宮に供えるシンコは和菓子屋さんで作ってもらったもの。
子どもたちはシンコを食べる。
その後に村全戸を巡って配るという行事だ。
今でこそ和菓子屋さんで作ってもらっているが、かつては手作りだった。
平成元年に書き記された資料には細かい部分までレシピ化されていたが、造りは捻りでもなかったようだ。
所変われば品変わるというシンコ事例は平成26年8月24日に訪れた吉野町丹治の地蔵盆がある。
数か所の垣内ごとに地蔵盆がある。
当地のお供えは色付けもあるシンコダンゴだった。
赤、緑の色粉を塗って作ったシンコダンゴを串に挿して盛る御供であった。
食べて味を確かめることはなかったが話しの様相から手作りのシンコダンゴのようである。
ちなみにみたらしだんごの原材料はウルチ米を直に挽いて作った粉。
だんご粉はウルチ米とモチ米を混ぜて挽いた。
白玉だんごの原材料はモチ米を挽いたもの。
それぞれ材料が違うので味わいが異なる。
さて、白河のシンコにもレシピが残されていた。
この年の当屋の一人。S家に残されていたレシピを拝見する。
タイトルは「村芯粉作り方」。
纏められたレシピの原文は「村より芯粉(※ シンコ)するお米頂く(約3斗-3.5斗)(米我家4合程たす) 粉ハタキする 赤豆5合程煮る 添付のマス(※ 枡)でハタイタ粉全部はかって見る 添付のマス(※ 枡)で2斗計って湯を入れてこねる こねた粉を 添えつけのサシの長さにして 四ツのサシ目に切る 切った一切を五ツに切る 2斗の粉で20個作る 切った物を芯粉の形にととのへて蒸す むし上ったらあつい間に小豆つける 出来上り」だった。
簡単に作れるように書いてある文の書き方から先代、若しくは先々代が書き残したものと思える。
ご主人がこのレシピにハタいていたという道具が今でもあると話していた。
家のすぐ傍にある農小屋。
そこにあると話していた20年前までは現役だったカラウス。
ぎっこんばったん、力を入れた足で踏んで臼に入れた米をハタく。
大和郡山市内に住む老婦人たちはウスヒキと呼んでいた。
ウスヒキの呼び名を聞いたのは明日香村の上居(じょうご)。
広く浸透していたようだ。
後日に聞いた奥さんが嫁入りしたころのカラウス。
出里の田原でのカラウスはハンドルのような手で支える仕組みがあった。
力は手と踏み込む足でバランスをとっていたが、嫁入り先の当地のカラウスはそれがなかった。
右手を農小屋の壁にあててバランスをとったこともあった。
もう一つの仕組みは農小屋の軒から垂らした紐のようなもの。
それを掴んで足を踏み込んだ。力を入れにくかったと話していた。
カラウスを充てる漢字は唐臼若しくは殻臼である。
臼を地面に埋めて杵で搗く。
柄の先にある杵を動かすには、逆方向の柄を足で踏むことだ。
テコの原理を利用したカラウスが文献に現われる時代は平安時代。
一般に普及したのは江戸時代になってからである。
作ったシンコを供えに向かうが参拝する神社は急な坂道を登らなければならない。
老婦人には堪える急坂を避けてSさんは運転する車で移動する。
「あなたも一緒に乗ってください」と云われて同乗する。
山間、急な道に対抗する車が鉢合わせすることもある。
どちらかが譲らないといけないバック運転は慣れていなければ難しい狭い道である。
今でも講中が寄合に集まる西の白泉寺(はくせんじ)を通り越して秉田(ひきた)神社に着く。
潜る鳥居前に建つ灯籠は天保十二年(1841)七月に寄進された大神宮である。
ということは伊勢信仰があったのではないだろうか。
潜って数メートル。
右手にこんもりとした塚のような土台がある。
樹木の根元にあったペットボトルに挿してある枝葉。
その横にあるのは細い竹で作った弓矢。
左手に四角く囲った鬼の的もある。
僅かに残された「鬼」の文字で判る。
これは前月の11日にお二人の婦人の手によって行われた「ケイチン」の名残である。
サカキの葉を挿してお参り。
そして二人が鬼的を目がけて竹で作った矢を打つ。
新芽をつけた梅の枝で作った矢は一人ずつ。
鬼をぶち当てるまで打っていた様子を写した写真を拝見した。
たしかに二人の婦人である。
これまで奈良県内で行われている数々の「ケイチン」鬼打ちを拝見してきたが婦人だけでされているのは見たことがない。
二人の話しによれば前年は男性ばかりだったそうだから、当屋家、それぞれの事情があるのだろう。
包んでいた風呂敷を解いてお盆に盛ったシンコを神社に供える。
供える場は拝殿の階段上の回廊だ。
賽銭箱のすぐ傍に置いて二人は手を合わせる。
参拝する場合に振る鈴の緒。
何年か前に村人何人かが寄せ合って新装寄進された。
それまでは42歳になった厄男が紅白の幕をつけた緒を奉納していた。
それを取り払って新装したようである。
行事の作法は祝詞を唱えることもなく神さんに向かって手を合わせて拝むだけであった。
お皿に盛った大きなシンコは四つ。
一度、捻ったような形である。
横から見れば長方形。
正面から見れば三角形。
これまで見たこともないような形である。
前述したとおりの長さが15cmに正面高さが4~5cmぐらいの大きさだ。
シンコの原材料はアキタコマチ。
カラウスでハタいた2臼。
米粉にして湯でこねる。
それをナガモチ(長餅)のような棒状の形にする。
両端は揃えて見栄えが良いように包丁で切断する。
全体を三角形になるように手で形作る。
それを両手で捻る。
Sさんのご主人は左へ捻るようにすると話していた。
これで形を調えるのだ。
シンコは村全戸に配るから戸数分を作る。
前述したレシピにいただくお米は約3斗から3.5斗にもなるぐらいだから相当な量である。
戸数分ができたら蒸す。
出来上がったら柔らかいうちに煮た小豆をシンコに押し込んでいくのだが、柔らかければ柔らかいほど捻りが戻る。
形を整えても戻るからたいへんだったと話す。
煮た小豆は形が潰れないように押し込む。
押し込みすぎたら潰れるのでとても難しい。
この作業を塗すと話していたシンコ。
まさにシンコにくっ付いている感じである。
昭和56年発刊に発汗された『桜井市史 民俗編』に「三月二十日の彼岸の中日に頭屋へ各垣内から二人ずつ手伝いに来てシンコ作りをした。まず、粉はたきをして昼風呂に入り、素襖を着て重ねこしき(甑)で蒸してゴク(御供)作りをした。これに小豆餡をつけるのが難しい」と書いてあった。
まさに、その通りである。
なぜにシンコを供えるのか。この行事の呼び名は特になく「シンコ」である。
敢えて言うなら神さんに供える「シンコ」である。
当屋に伝わる話しがある。
むかし、むかしのことだ。
供えなかったことがある。
その年は疫病が流行った。
そんなことがあって再び「シンコ」を供えることになったという。
シンコを供えて参った二人が話すシンコ配り。
村人一人について2本ずつ配っていた。
人数はそれほど多くはないが全部で60本ぐらい。
30戸の集落の全戸に配っていた。
今回作られた夫人が話す。
米粉をはたいてタライに入れた。
そこにお湯を入れながら練った。
形を調えるのが難しかったと云う。
もしかとすればだが、この行事は「ケイチン」と関連性があったかも知れないと話す。
(H28. 3.21 EOS40D撮影)