読みはじめてからずいぶんと時間がたってしまったが、ようやく読み終えることができた。読みはじめで抱いた感想と、読み終わってからの感想がこれほど違う本は、わたしにはちょっとめずらしい。
一般的に文学者には、こういう仕事はできない、翻訳者、あるいは言語学者、歴史風俗研究者の手になる本でではないかと、と思われた。
「罪と罰」という一作品について、比較すべき類書のない仕事を残したことじたい、日本のような文学風土では希有のことといっていいだろう。
<(これまで「罪と罰」の理解において)小説の作中人物を作者と、さらには読み手自身とさえ重ね合わせてしまう、すぐれて日本的なドストエフスキー読みの伝統と無縁ではなかった。そういう読み方では、私が一貫して問題としてきたような小説構造の独自性など、視野にも入ってこないだろう。私としては、そのような旧態依然としたドストエフスキー理解を挑発することで、この小説の新しい全体像をまったく異なった地点に復元したかった。>
連想ゲームとトリヴィアリズム。
それこそ重箱の隅をつつくようなこういった研究もありといえばいえるが、わたしには、最初まったくおもしろくなかった。おもしろくなってきたのは第6章「『ノアの方舟』の行方」あたりから。「罪と罰」とはほんとうはどういう小説であるのか、その根幹を揺るがす新しい視点が提出されたと感じられてきたからであった。
読み終えたいま、日本人が書いたドストエフスキー論の白眉であり、まったく対照的ではあるが、これは小林秀雄の一連のドストエフスキー論考と双璧をなす、すぐれた論考であるのは疑いを容れる余地がないという気がする。ときによって蓋然性ばかり目立って「たしかに、そういえなくもない」といったレベルで展開されている議論も少なくないが、本書を読み終えたものは、「罪と罰」で作家が取り組んだテーマとはなんであったか、もう一度問い直したくなるのは確実。
「罪と罰」において、作者は「突然」という語を560回「奇妙な」という語を150回使っているという研究が紹介されている。それがどうした? そんなことは好事家か暇な学者の研究にまかせておけ、といっては、本書のようなアプローチは成り立たない。
筆者あとがきによると、本書は1983年3月から、1985年8月にかけて雑誌「新潮」に13回に分けて発表された。執筆の動機は、五木寛之氏が講演の際に語った「明るく楽しいドストエフスキー」の一語であったという。
<文字どおり舐めるようにテキストを読んでいく過程で、わたしはドストエフスキーの文体の秘密、精巧なからくり装置にもたとえられる小説の構成力、目に立たぬところに仕掛けられた洒落、笑い、語呂合わせ言葉の多義性の遊びなどに、しだいに目が開かれていったようだ。>
こういった論考を世に問うためには、ロシア語で作品だけでなく「作家の日記」や下書き、草稿の類まで検討しなければならいのはむろん、各国で発表されるいろいろな文献にも目配りしなければならないだろう。そういう意味でたいへんな労作であり、著者は本書で読売文学賞を受賞している。
20世紀の終盤になって、われわれはロシアの共産主義政権の終末と、ベルリンの壁崩壊を経験している。幾多の改良、見直しを加えられたとはいえ、マルクス主義的共産主義とそれをささえたイデオロギーは、いまや消滅しかけているようにみえる。そういった時代の変遷のうちにあって、ドストエフスキーに対する評価も当然、大きな影響をうけてきたのである。「罪と罰」から「カラマーゾフの兄弟」にいたるドストエフスキーは、世界最高水準の文学との評価を獲得しながら、これまであまりに文学的な、あるいは哲学的な論議ばかり盛んで、たまに、神秘主義的・宗教的なアプローチが人目を引く程度ではなかったろうか。
現代におけるドストエフスキー研究の基本資料がどれとどれで、それらがどういった手法と観点から論じられているのかわからないが、本書を読みながら、わが国におけるドストエフスキーの受容の歴史が新たな段階に入っているのを感じた。亀井郁夫さんの「カラマーゾフの兄弟」の訳業・研究は、この江川さんや海外での「最新成果」を踏まえて書かれたものであったのだ。
なお、江川卓には「謎とき『カラマーゾフの兄弟』」「謎とき『白痴』のいわば続編がある。時間が許せば、これら続編もぜひ読んでおきたい、と思う。
「なぜこんなに長いあいだ、ドストエフスキーを読まずにきたのか」
そういったある種の後悔がいま、胸にうずいている・・・。
江川卓「謎とき『罪と罰』」新潮選書>☆☆☆☆
一般的に文学者には、こういう仕事はできない、翻訳者、あるいは言語学者、歴史風俗研究者の手になる本でではないかと、と思われた。
「罪と罰」という一作品について、比較すべき類書のない仕事を残したことじたい、日本のような文学風土では希有のことといっていいだろう。
<(これまで「罪と罰」の理解において)小説の作中人物を作者と、さらには読み手自身とさえ重ね合わせてしまう、すぐれて日本的なドストエフスキー読みの伝統と無縁ではなかった。そういう読み方では、私が一貫して問題としてきたような小説構造の独自性など、視野にも入ってこないだろう。私としては、そのような旧態依然としたドストエフスキー理解を挑発することで、この小説の新しい全体像をまったく異なった地点に復元したかった。>
連想ゲームとトリヴィアリズム。
それこそ重箱の隅をつつくようなこういった研究もありといえばいえるが、わたしには、最初まったくおもしろくなかった。おもしろくなってきたのは第6章「『ノアの方舟』の行方」あたりから。「罪と罰」とはほんとうはどういう小説であるのか、その根幹を揺るがす新しい視点が提出されたと感じられてきたからであった。
読み終えたいま、日本人が書いたドストエフスキー論の白眉であり、まったく対照的ではあるが、これは小林秀雄の一連のドストエフスキー論考と双璧をなす、すぐれた論考であるのは疑いを容れる余地がないという気がする。ときによって蓋然性ばかり目立って「たしかに、そういえなくもない」といったレベルで展開されている議論も少なくないが、本書を読み終えたものは、「罪と罰」で作家が取り組んだテーマとはなんであったか、もう一度問い直したくなるのは確実。
「罪と罰」において、作者は「突然」という語を560回「奇妙な」という語を150回使っているという研究が紹介されている。それがどうした? そんなことは好事家か暇な学者の研究にまかせておけ、といっては、本書のようなアプローチは成り立たない。
筆者あとがきによると、本書は1983年3月から、1985年8月にかけて雑誌「新潮」に13回に分けて発表された。執筆の動機は、五木寛之氏が講演の際に語った「明るく楽しいドストエフスキー」の一語であったという。
<文字どおり舐めるようにテキストを読んでいく過程で、わたしはドストエフスキーの文体の秘密、精巧なからくり装置にもたとえられる小説の構成力、目に立たぬところに仕掛けられた洒落、笑い、語呂合わせ言葉の多義性の遊びなどに、しだいに目が開かれていったようだ。>
こういった論考を世に問うためには、ロシア語で作品だけでなく「作家の日記」や下書き、草稿の類まで検討しなければならいのはむろん、各国で発表されるいろいろな文献にも目配りしなければならないだろう。そういう意味でたいへんな労作であり、著者は本書で読売文学賞を受賞している。
20世紀の終盤になって、われわれはロシアの共産主義政権の終末と、ベルリンの壁崩壊を経験している。幾多の改良、見直しを加えられたとはいえ、マルクス主義的共産主義とそれをささえたイデオロギーは、いまや消滅しかけているようにみえる。そういった時代の変遷のうちにあって、ドストエフスキーに対する評価も当然、大きな影響をうけてきたのである。「罪と罰」から「カラマーゾフの兄弟」にいたるドストエフスキーは、世界最高水準の文学との評価を獲得しながら、これまであまりに文学的な、あるいは哲学的な論議ばかり盛んで、たまに、神秘主義的・宗教的なアプローチが人目を引く程度ではなかったろうか。
現代におけるドストエフスキー研究の基本資料がどれとどれで、それらがどういった手法と観点から論じられているのかわからないが、本書を読みながら、わが国におけるドストエフスキーの受容の歴史が新たな段階に入っているのを感じた。亀井郁夫さんの「カラマーゾフの兄弟」の訳業・研究は、この江川さんや海外での「最新成果」を踏まえて書かれたものであったのだ。
なお、江川卓には「謎とき『カラマーゾフの兄弟』」「謎とき『白痴』のいわば続編がある。時間が許せば、これら続編もぜひ読んでおきたい、と思う。
「なぜこんなに長いあいだ、ドストエフスキーを読まずにきたのか」
そういったある種の後悔がいま、胸にうずいている・・・。
江川卓「謎とき『罪と罰』」新潮選書>☆☆☆☆