自転車がある街角を意識して撮るようになったのは、いつからだろう。
はっきり覚えてはいないけれど、過去のアルバムを見返していると、かなりの頻度で、「自転車がある街角」が登場する。
これはたぶん、わたしにとっては、なにかの表徴なのだ。
そこに、人のにおい、生活のにおいが、濃厚にただよっている。
真新しい自転車。こわれた自転車。さっき止められたばかりの自転車だってあるし、もう何日も、あるいは何週間も放置されている自転車だってある。
フォトジェニックな存在感が、そこにある。
それは・・・それはおそらく、わたしが「歩いて」いるからだろう。
季節の花が咲いている街角と同じように、自転車があると、立ち止まって観察する。
「ああ、これは撮影し、あとでまたじっくりと眺めたい光景だなあ」
わが家には、子どもたちが通学で乗った自転車、母親の自転車がある。
街角に止められた自転車は、ほとんどが「ママチャリ」のたぐい。
そういう自転車に親近感を感じる。人間的だなあ、と思う。
自転車がそこにあることで、なんの変哲もないただのつまらない街角が、少し意味をもって、わたしの注意をひく。
だから撮影する。
自転車は街角を飾る大切なオブジェとなる。
いろいろな想像をかきたてる。とっくの昔に忘れてしまったはずのものを、かすかに呼び覚ます。自転車のある風景は、なぜかこころがくつろぐ。
ネコを見かけると写真を撮る。花を見かけると、やっぱり写真を撮る。
建物の窓やドア。それらが、それぞれの物語をひそめている。
では、自転車がもっているキーワードってなんだろう?
「それがそこにあることによって聞こえてくるせせらぎのような音がある」
・・・そんなふうに考えてみる。
ほんとうは小道具なんだろうけれど、自転車を主役に据えてみる。
するとそこに、微笑みのようなものが生まれる。
あえて表現すれば、失われてはじめて気が付くような平穏な日常感覚がいいのだ。
そんなふうに考えながらシャッターを押すのは、きっとわたしだけではないだろう。