
鬼海弘雄さんという写真家をご存知だろうか?
わたしが鬼海さんのポートレイトに出会ったのは、2-3年まえのこと。
「ぺるそな」の存在はそれ以前から知ってはいたが、なにか理由のハッキリしない強い嫌悪感のようなものを感じ、書店の店頭でパラパラ立ち読み(立ち見)する程度、それ以上近づきたいとは思わなかった。
鬼海さんは、「ぺるそな」だけの写真家ではなく「インド」や「アナトリア」など、多くの写真集が刊行され、近年高い評価をかちえている。人のいない、街角の“肖像”を撮った作品群もある。
大部分中判モノクロフィルムで撮影され、グラデーション豊富なすぐれたプリントを、ご自分で仕上げる。
わたしがはじめに買ったのは「東京ポートレイト」(クレヴィス刊)であったが、やっぱり「ぺるそな」が欲しくなって、こちらもまもなく手に入れ、小説を読むように、一ページ一ページ丹念に読んでいった。
そんなに昔の経験ではない・・・そのときの衝撃は、いまでもよく覚えている。
鬼海さんのポートレイトには、情緒的なものはほとんど混入していない。
本のオビに付された表現を使えば、撮影されたひとの「むき出しの存在感」が、色濃くただよっている。
あえて比較すれば、たとえばハービー・山口さんのポートレイトとは対極にあるように、わたしには見える。
ハービーさんも好きだけれど、なんというか、甘口なので、ときおり物足らなくなる。
それに較べ、鬼海さんのは辛口。しばしば“激辛”と評してもいいだろう。
名前、住所、年齢、職業などをはぎ取られた人間のすごさ。その存在感は圧倒的である。
以前は橋口譲二さんのファンで、写真集は何冊ももってはいるが、橋口さんの人間へのアプローチともまったく違う。
「なぜこの瞬間にシャッターを押すことができたのか」
そこには、畏怖すべき人間たちが写っている。こういういい方は不適切かもしれないが、大部分は、どのようにして日常生活を送っているのかわからない下層民といえるような人たち。その男や女が放つ存在のオーラが、見事に・・・じつに見事に写っている。
このあいだ文芸春秋社から刊行された「誰をも少し好きになる日」という本を手に入れた。
よくある写文集なのだが、これもまた辛口で、鬼海さんの持ち味が十分発揮されている。
わたしは昨夜、この本の中で、もう一度「ぺるそな」の衝撃と向き合った。
そこから二つ例をあげる。

まずはこれ。
「物をくれたがるひと」の最初の一枚。
そしてページを繰ると、もう一枚。

「へええ」と思いながら見ていたが、わたしはこの二枚が、同一人物のものだと気がつくのに、一分ほどかかった。「わぉ、なんだ・・・これ!?」
鬼海さんの淡々とした語り口にのせられたのだ。
「初めて撮らせてもらってから十三年が経っていた」という最後の一行を読んだとき、ガンと殴られたような衝撃がやってきた。

つぎはこれ。
「一番多く写真を撮らせてもらったひと」
この女性は写真集「ぺるそな」にもよく登場するいわば常連さんだった。
鬼海さんは、「誰をも少し好きになる日」の最後に、番外編としてこの女性のことを書いている。それが、第二の衝撃。

これが最後の写真。このひとの名はさくらさんという。
職業は「たちんぼ」(知らない方は検索してほしい)。
鬼海さんがさくらさんが倒れた場所に花束をもって弔いにいくシーンは、読むものの心をゆさぶらずにはいないだろう。
無名の人間に向けられた、鬼海さんの透徹したまなざし。
それは、なんと残酷な“真実”を語っていることだろう。わたしがはじめ、「ぺるそな」から眼を背けたくなったのは、それである。異形の人間を意図して撮っているのではないが、鬼海さんのカメラアイは、そのへんにいる普通の人間から、“異形なるもの”を暴きださずにはいない・・・と、いまのわたしならいうことができる。
そして「人間とはなにか」を、淡々と寡黙に、長い歳月をかけて追究していく鬼海さんもまた、「ぺるそな」の一登場人物たるにふさわしいのではないだろうか。
畏怖すべき人間とは、まさに「あなたの隣りにいるひと」なのである。
これらのポートレイトは、おそらく浅草寺、宝蔵門あたりを舞台に撮られているのだろう(わたしの推測)。浅草寺界隈は、過去にわたしも十数回は歩いているし、mixiアルバムにそのときのスナップをアップしてある。
大きな建造物の壁の前に立ってもらうことで、背景が単純化され、被写体が際立つ。
それにしてもだれもがこうも孤独感をただよわせているのは、ただごとではないようにおもえる。孤独・・・というより、むしろ“孤絶感”と表現するほうがふさわしいかもしれない。
鬼海さんは、これぞと思ったひとを見つけると、お声をかけ、了解を得て撮影している。おしゃべりはあまりしないとのこと。「そのあたりに立ってて下さい」という程度で、ポーズもつけないらしい。
しかし・・・わたしのささやかな経験でいえば、これはおもいのほか、カメラマンは心身の消耗が激しいのである。エネルギーあるいは魂の一部を、被写体に吸い取られる。
鬼海さんの履歴を参照すると、カメラマンになるまえ、いろいろな職業を転々としておられる。鬼海さんはそこで、ここに写し取られたような人物を、畏怖すべき人間たちを、たくさん見てきたのだろう。
さらにいうなら、畏怖すべき人間とは、名前、住所、年齢、職業などをはぎ取られた人間のことなのである。
あるとき鬼海さんはそのことに気がつき、そしてフォトグラファー鬼海弘雄が誕生したのである。
■ペルソナとはなにか? (心理学用語として)
《ペルソナとは、自己の外的側面。例えば、周囲に適応するあまり硬い仮面を被ってしまう場合、あるいは逆に仮面を被らないことにより自身や周囲を苦しめる場合などがあるが、これがペルソナである。逆に内界に対する側面は男性的側面をアニマ、女性的側面をアニムスと名付けた。
男性の場合にはペルソナは男らしさで表現される。しかし内的心象はこれとは対照的に女性的である場合があり、これがアニマである。逆に女性の場合ペルソナは女性的な側面で表現される。しかし、その場合逆に内的心象は男性である場合があり、これがアニムスである。ペルソナは夢の中では人格化されず、一般に衣装などの自分の外的側面で表されることが多い。》(エンサイクロペディアより)
■動画
https://www.youtube.com/watch?v=b-AAXVTDeC0&index=5&list=PLiKgkSaG2C_TKToig50b5-XmBjWV82Qb3
https://www.youtube.com/watch?v=KNhjc_zaxko&list=PLiKgkSaG2C_TKToig50b5-XmBjWV82Qb3&index=2
わたしが鬼海さんのポートレイトに出会ったのは、2-3年まえのこと。
「ぺるそな」の存在はそれ以前から知ってはいたが、なにか理由のハッキリしない強い嫌悪感のようなものを感じ、書店の店頭でパラパラ立ち読み(立ち見)する程度、それ以上近づきたいとは思わなかった。
鬼海さんは、「ぺるそな」だけの写真家ではなく「インド」や「アナトリア」など、多くの写真集が刊行され、近年高い評価をかちえている。人のいない、街角の“肖像”を撮った作品群もある。
大部分中判モノクロフィルムで撮影され、グラデーション豊富なすぐれたプリントを、ご自分で仕上げる。
わたしがはじめに買ったのは「東京ポートレイト」(クレヴィス刊)であったが、やっぱり「ぺるそな」が欲しくなって、こちらもまもなく手に入れ、小説を読むように、一ページ一ページ丹念に読んでいった。
そんなに昔の経験ではない・・・そのときの衝撃は、いまでもよく覚えている。
鬼海さんのポートレイトには、情緒的なものはほとんど混入していない。
本のオビに付された表現を使えば、撮影されたひとの「むき出しの存在感」が、色濃くただよっている。
あえて比較すれば、たとえばハービー・山口さんのポートレイトとは対極にあるように、わたしには見える。
ハービーさんも好きだけれど、なんというか、甘口なので、ときおり物足らなくなる。
それに較べ、鬼海さんのは辛口。しばしば“激辛”と評してもいいだろう。
名前、住所、年齢、職業などをはぎ取られた人間のすごさ。その存在感は圧倒的である。
以前は橋口譲二さんのファンで、写真集は何冊ももってはいるが、橋口さんの人間へのアプローチともまったく違う。
「なぜこの瞬間にシャッターを押すことができたのか」
そこには、畏怖すべき人間たちが写っている。こういういい方は不適切かもしれないが、大部分は、どのようにして日常生活を送っているのかわからない下層民といえるような人たち。その男や女が放つ存在のオーラが、見事に・・・じつに見事に写っている。
このあいだ文芸春秋社から刊行された「誰をも少し好きになる日」という本を手に入れた。
よくある写文集なのだが、これもまた辛口で、鬼海さんの持ち味が十分発揮されている。
わたしは昨夜、この本の中で、もう一度「ぺるそな」の衝撃と向き合った。
そこから二つ例をあげる。

まずはこれ。
「物をくれたがるひと」の最初の一枚。
そしてページを繰ると、もう一枚。

「へええ」と思いながら見ていたが、わたしはこの二枚が、同一人物のものだと気がつくのに、一分ほどかかった。「わぉ、なんだ・・・これ!?」
鬼海さんの淡々とした語り口にのせられたのだ。
「初めて撮らせてもらってから十三年が経っていた」という最後の一行を読んだとき、ガンと殴られたような衝撃がやってきた。

つぎはこれ。
「一番多く写真を撮らせてもらったひと」
この女性は写真集「ぺるそな」にもよく登場するいわば常連さんだった。
鬼海さんは、「誰をも少し好きになる日」の最後に、番外編としてこの女性のことを書いている。それが、第二の衝撃。

これが最後の写真。このひとの名はさくらさんという。
職業は「たちんぼ」(知らない方は検索してほしい)。
鬼海さんがさくらさんが倒れた場所に花束をもって弔いにいくシーンは、読むものの心をゆさぶらずにはいないだろう。
無名の人間に向けられた、鬼海さんの透徹したまなざし。
それは、なんと残酷な“真実”を語っていることだろう。わたしがはじめ、「ぺるそな」から眼を背けたくなったのは、それである。異形の人間を意図して撮っているのではないが、鬼海さんのカメラアイは、そのへんにいる普通の人間から、“異形なるもの”を暴きださずにはいない・・・と、いまのわたしならいうことができる。
そして「人間とはなにか」を、淡々と寡黙に、長い歳月をかけて追究していく鬼海さんもまた、「ぺるそな」の一登場人物たるにふさわしいのではないだろうか。
畏怖すべき人間とは、まさに「あなたの隣りにいるひと」なのである。
これらのポートレイトは、おそらく浅草寺、宝蔵門あたりを舞台に撮られているのだろう(わたしの推測)。浅草寺界隈は、過去にわたしも十数回は歩いているし、mixiアルバムにそのときのスナップをアップしてある。
大きな建造物の壁の前に立ってもらうことで、背景が単純化され、被写体が際立つ。
それにしてもだれもがこうも孤独感をただよわせているのは、ただごとではないようにおもえる。孤独・・・というより、むしろ“孤絶感”と表現するほうがふさわしいかもしれない。
鬼海さんは、これぞと思ったひとを見つけると、お声をかけ、了解を得て撮影している。おしゃべりはあまりしないとのこと。「そのあたりに立ってて下さい」という程度で、ポーズもつけないらしい。
しかし・・・わたしのささやかな経験でいえば、これはおもいのほか、カメラマンは心身の消耗が激しいのである。エネルギーあるいは魂の一部を、被写体に吸い取られる。
鬼海さんの履歴を参照すると、カメラマンになるまえ、いろいろな職業を転々としておられる。鬼海さんはそこで、ここに写し取られたような人物を、畏怖すべき人間たちを、たくさん見てきたのだろう。
さらにいうなら、畏怖すべき人間とは、名前、住所、年齢、職業などをはぎ取られた人間のことなのである。
あるとき鬼海さんはそのことに気がつき、そしてフォトグラファー鬼海弘雄が誕生したのである。
■ペルソナとはなにか? (心理学用語として)
《ペルソナとは、自己の外的側面。例えば、周囲に適応するあまり硬い仮面を被ってしまう場合、あるいは逆に仮面を被らないことにより自身や周囲を苦しめる場合などがあるが、これがペルソナである。逆に内界に対する側面は男性的側面をアニマ、女性的側面をアニムスと名付けた。
男性の場合にはペルソナは男らしさで表現される。しかし内的心象はこれとは対照的に女性的である場合があり、これがアニマである。逆に女性の場合ペルソナは女性的な側面で表現される。しかし、その場合逆に内的心象は男性である場合があり、これがアニムスである。ペルソナは夢の中では人格化されず、一般に衣装などの自分の外的側面で表されることが多い。》(エンサイクロペディアより)
■動画
https://www.youtube.com/watch?v=b-AAXVTDeC0&index=5&list=PLiKgkSaG2C_TKToig50b5-XmBjWV82Qb3
https://www.youtube.com/watch?v=KNhjc_zaxko&list=PLiKgkSaG2C_TKToig50b5-XmBjWV82Qb3&index=2