二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

俳句練習帳のこと  ~2024年秋の「備忘録」

2024年11月02日 | 写真集、画集など
父は数えでいうと、100歳まで生きて、総理の名で銀杯までもらったので、一口にいえば仕合せこのうえない一生であった・・・とわたしはかんがえている。
人生100年時代といわれる世相。

大正
昭和
平成
令和

和暦でいえば、これだけの歳月が、父の上に降り積もった。
大正14年生まれ。ということは西暦1925年、つまり1945年、敗戦のとき20歳だったことになる。おそらく父の同級生は、半分(または1/3)くらい戦死、あるいは戦病死したのではないか?
大正10年代生まれの男子がどのくらいの確率で生き延びたものか、調べてみると興味深いかもしれない。

学歴がないことを悔やんでいたが、高等小学校を卒業しただけなのだ。
それから高崎で組織された15連隊に
召集されるまで、どのくらいの期間があったのか?
召集されて、北支へ送られたのだ。写真が出てきたため、父が所属した“部隊名”が判明した。それを現在ネットで調べはじめたところ。

■北支派遣甲1268部隊
独立鉄道第13大隊

これが父が所属した部隊であることが、ついさっきわかった。

よくもまあ、生き延びたものだ、と、あらためて感慨にわたしはふける。
北支、いわゆる滿洲を転戦したあと、天津あたりからアメリカ軍の上陸用舟艇に家畜さながら積み込まれ、東シナ海の浪をざんぶざんぶと頭からかぶりながら、山口県の仙崎港(現在は長門市)に上陸を果たしたのだ。
「生きた心地がしなかった」と、のちに語っている。
これが父の、そしてわが家の“運命の分かれ目”であった。

父が眠る骨壺は黄色い菊の花(大好きだった菊)があしらってある。

とはいえ、親父はネットの上の友人には関係がないから、書くまいと思っていた。
そうはいっても、自分の備忘録の意味合いがあるから、ちょっとだけ書いておこう・・・と(^^;;)
それはこの「俳句練習帳」のこと。
上の妹がどこかの文房具店で買ってきた、和紙の薄い手帳が気に入り、約2年間ここに日記やらへたな俳句やらを書いていた。
それを、買い与えた妹が探しあてたのだ。



ここが冒頭部分。
いろいろなことが綴られている。
NHKの「NHK俳句」をたのまれて買ってきたのはわたし。平成28年から30年までが、この一冊に封じ込められている。

わたしは葬儀の反動というか、3~4日前から“うつ”に沈んでいる。市役所やら銀行やらへいって、相続の手続きをしなければいけないというのに。
頭も体も動かないのだ。
一週間くらいで、ここから脱し、いつもの自分に復帰しなければならない。

ああ、あ。農地。
大型の物置、納屋もある。
さきのことをかんがえると、本当に頭が破裂しそう・・・。
それがわかっているから、追憶の浪裏に沈んでしまわないうちに、この備忘録を綴っておく気になった。
妹に話し、「俳句練習帳」を撮影させてくれと、たのんだのだ。
表紙はカメラ、本文はキヤノンのスキャナでスキャン♬
晩年の父の日常が、びっしり埋め込まれてある。

ほかにも99年の埃のようなものが、あきれるほど残っている。われわれ兄弟のあいだで「開かずの間」と俗にいわれている部屋が、二部屋あるのだ。
開けるのが恐ろしいから、15年か、それ以上開けてはない。どうする?
どうするお前、これから(ノω・、)


※何度か質問したことがあったが、父はほとんど戦争のことを語ろうとはしなかった。口が重いというか、「そんなこともあったっけ・・・」という雰囲気なので、それ以上は訊ねることができなかった。




/// 以上おしまい。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 甲虫の王様 | トップ | 美麗種といえばタマムシ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

写真集、画集など」カテゴリの最新記事