
なにをするあてもなくぼくはこの世にやってきて
いつのまにか六十年がすぎていった。
「あてもなく」と「いつのまにか」のあいだに
無数の栞がはさみこまれている。
それをたよりに 過去のページをめくって
きみがいた街角をたずね歩く。
むろんぼくだけでなく
ぼくの友人も この地球も
六十年分 歳をとったのだ。
きみはきみの耳を信じているんだろうね。
そして眼を。
そういった感覚器官を杖にして
ぼくはいまことばの探査船を その六十年の
茫漠とした海の向こうへ送り出す。
思い出したくないものをきれいさっぱり消してしまえる
魔法の消しゴムを手に入れたから
いつかわけてあげよう きみに。
どこだったか
たぶんブラームスか ブルックナーの音楽の中から拾ったんだ。
無色透明な 不思議な消しゴム。
あ もろくてこわれやすいから
あつかいには十分注意して。
使いすぎると すぐに終ってしまうし。
こうしてぼくらは
思い出したいものだけを
茫漠とした海の彼方から呼び戻すことができる。
ほら バラの香りがする?
それとも 汗くさい労働の記憶?
ベッドの中でもつれあって愛した髪の長い女の体臭?
「あれはなかったことにしよう。これも」
人生はリセットできないし
飛び立っていったキセキレイはもうもどらないだろう。
消しゴムは 消しゴムそれ自体を消すことだってできる。
そこが不思議な消しゴムのすごいところなのさ。
ほら ね。