二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

ドビュッシーに向かって歩く ~フランス音楽聴きかじり

2020年05月09日 | 音楽(クラシック関連)
フランス音楽が、よくわからない。
とくに印象派といわれる、ドビュッシーやラヴェル。
「おれにゃあ、所詮縁のない音楽だよ」とこれまで何度かんがえたことか|*。Д`|┛
というわけで、四苦八苦しながら、懲りずにしつこく、ディスクから響いてくる音楽に耳をかたむける。
なぜわからないかというと、全音音階や平行和音といった音楽の特徴が十分飲み込めていないせいだと見当はついている。ただし、理屈で理解できても、感覚的に受容できるとは限らない。

そんなことを、3ヶ月4ヶ月やっている。独墺系の音楽は、大抵は数回聴いただけで耳になじんくる。ところが、ドビュッシー、ラヴェルあたりになると、まるで勝手が違う。
ドイツ・オーストリア系、モーツァルトやベートーヴェン、ブラームスとは別なイディオムで書かれているのだ。

ようやく近ごろになって、ドビュッシー、ラヴェルの音楽へおよばずながらアプローチできるようになった。
ドビュッシーの紹介者としては、わたしの目に映じたところでは、青柳いづみこさんの存在が一番大きい。


  (現在読んでいる「ドビュッシーとの散歩」中公文庫)

わたしもいづみこさんに見習って「ドビュッシーとの散歩」と書きたいところ。だけど、まだそんな生意気なことは書けないのだ。いづみこさんのドビュッシー本3冊目となるが、わかってきたことより、わからないことの方がはるかに大きい(=_=)



  (ドビュッシーの室内楽CD ERATO)


1.神聖な舞曲と世俗的な舞曲
2.フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ
3.チェロ・ソナタ
4.ヴァイオリン・ソナタ

ディスクにはこの4曲が収録されている。1962年とあるが俗にいう歴史的名盤。
「フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ」あるいは「チェロ・ソナタ」が聴きたくなったら、この名盤をあげる批評家が圧倒的に多い。

「フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ」を聴いたときわたしが連想したのは、武満徹の音楽。おっと、とのけぞってしまうくらいそっくりにきこえた。
なんとも東洋的な響きがして、フルートが尺八に、ハープが琴に化けてしまいそう|;゚ロ゚|
石造建築物のように、構造的に、堅固につくられているドイツ系の音楽からは、こういう東洋風味の音楽はきこえてこない。
ところがドビュッシーには印象派の画家に通じるような、東洋趣味、日本趣味があったのだ。


  (ドビュッシーの管弦楽集。「海」「牧神の午後への前奏曲」などを聴くことができる)


  (ドビュッシーのピアノ曲集。右下はクラウディオ・アラウの演奏)

わたしがたまたま買ったアラウのCDには、「プレリュード 第2巻」「映像 第2集」が収められている。PHILIPSのこれはすでに廃盤となっているはず。


  (前奏曲第1巻は、ギーゼキングとミケランジェリで聴く。それぞれのよさがある)


いづみこさんは、「ドビュッシーとの散歩」のあとがきに、つぎのようにしるしておられる。
少し長くなるが引用しておこう。

《ドビュッシーは自ら恃むところが大きかったと言われている。
それまでの、長調と短調だけの音楽ではなく、喜びの中の悲しみ、絶望の中の不思議な歓喜、意地悪な皮肉、焼けつくような欲望と、悦楽のあとのむなしさ。ドビュッシーは、人間のマイナスの感情まで音と響きに託そうとした。
自らを「幸福の偏執狂」と呼んだように、おいしい料理を食べたときのセンセーション、かぐわしい花の香り、耳に心地よい響き、美しい女性たちの髪の感触。浮き立つような五感の喜びも爆発させた。
抽象芸術にも近づいたが、同時にとてもロマンティックな音楽も書いた。高尚な趣味も持っていたが、ミュージックホールやヴォードヴィルのショーにも夢中になった。
文学も美術も彫刻も、すべての芸術が「音楽の状態に憧れる」という、ウォルター・ペイターの有名な言葉の、その憧れられる音楽をつくりたいという強い願望と、つくることができるという自負。
夢はすべて実現できたのだろうか。実現できたとしても、理解されたのだろうか。》(本書188ページ)

わたしのように、ピアノが弾けない、音符が読めない人間がドビュッシーにアプローチするためには、こういった“ことば”は欠かすことができない。
悪戦はまだつづくんだろうなあ。そのうちあきらめて、匙を投げてしまうかもしれない。
聴いているうちわかってきたのは、ドビュッシーには、たいへん上質なユーモアがあるということ。

悲しがって少し顔をゆがめたり、壁に沿って、滑稽な素振りでいったりきたりするチャップリンの姿が思い浮かんだりする。
むろん、そのユーモアは、フランス人ならではのエスプリ(これは定義が難しい精神だが)に色濃く縁取られている。

日本人には理解しがたいことかもしれないが、笑いと涙は親戚同士なのだ。
《実現できたとしても、理解されたのだろうか》といずみこさんはおっしゃっている。
そうなのだ、わたしも、そうかんがえるようになった。
ショパンを聴きたがる人たちばかりではなく、ドビュッシーの音楽だけで構成された一夜に、日本でもいずれ大勢の人たちが集まってくる。
そんな日がやがて、やってくるだろう。

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