へんてこりんな組み合わせといわれるだろうが、これが本日の吾が輩のメニュー(。-_-。)
偶然こうなったのです。
何やらいわくあってのことではありませぬ。
ゴルトベルク変奏曲は、グスタフ・レオンハルトのチェンバロ演奏。
1か月ばかり前に手許にやってきていた。だけど、最後まできちんと聴いていなかった。
有名な曲だけに、名盤が多いけど、その割に聴いてはいないというケースの典型がこの曲かしら、まあ、わたしの場合は。
グレン・グールドは新旧両盤が手許にある。しかし、「この曲はチェンバロだろう」という思いが拭いきれない。
はじめて聴いたのが、カール・リヒターの演奏だったせいかもしれない。しかもバッハによる正式名称は「2段鍵盤付きクラヴィチェンバロのためのアリアと種々の変奏」というのです。
レオンハルトは正統派なので、解釈はいたっておとなしく、聴いているうち、眠気を催すこと請け合い。
不眠症の貴族からの要望で作曲したといういわれのある曲だから、眠くなるのもごもっとも・・・なのである♪ (不眠症の・・・というのが嘘かまことか、本当のところは藪の中だそうですが)
ところで、正岡子規。
こちらは何か月か何年か、長いあいだ寝かせてあった「俳諧大要」を引っ張り出してきたのだ。
なぜかというと、子規の「俳人蕪村」を、俳諧・俳句に関心が向かっているこの機会にぜひ読んでおきたかったから。
わたしが持っているのは、改版第13刷、2010年発行の岩波文庫。
いやはや、子規を大幅に見直した。たいへんな批評家というか、理論家である。
本書には、
1.俳諧大要
2.俳人蕪村
3.古池の句の弁
4.俳句の初歩
5.俳句上の京と江戸
の5編が収録されている。
そのうち「俳人蕪村」「古池の句の弁」を読んだだけで、いまこの記事を書いている( -ω-)
したがって、本書のぜんたいを評価するわけにはいかない。
正岡子規は病床手記「墨汁一滴」「病床六尺」「仰臥漫録」の3冊と、子規句集だけを読んで、知ったような気になっていた。
とんでもないことである。
岩波文庫の「歌よみに与ふる書」やこの「俳諧大要」は、必読書である。
ほかに、
子規歌集
飯待つ間
松蘿玉液
筆まかせ抄
獺祭書屋俳話・芭蕉雑談
子規紀行文集
・・・が文庫の目録にある。
主要な著作は、岩波文庫で、ほとんど読めるわけだ。ほかには、こういう文学者は夏目漱石以外いないだろう。
すべて買ってもってはいるが、病床日記と、2-3のエッセイしか読んではこなかった。
復本 一郎さんが編集する「子規紀行文集」は本日手に入れた。
文語文で書かれたものが多いので、集中しないと途中で迷子になってしまう。そのため、敬遠していたところがあった(^^;
しかし、批評家正岡子規の見識恐るべし。「俳人蕪村」「古池の句の弁」を卒読しただけで、その他の言説推して知るべし。
書評にはしないけれど、このところ、俳句という惑星のまわりをぐるぐる回っているのだ。
芭蕉
蕪村
一茶
子規
だれもがいうことだろうが、この人たちは、巨大惑星である。こういう巨大惑星を知ってしまうと、子規以降の近・現代の俳人は、ずっとずっと粒が小さい・・・ように思われてならない。
気分転換で、レオンハルトを聴く。そして気分一新、子規自身の著作や子規をめぐる、いくつかの言説に目をさらす。
わたしは古典や古典的なものが好きなのだが、権威主義だとは思っていない。ただいま現在で、おもしろいかどうか?
それに尽きるのである。“先生”をありがたがる、よくわからないくせに、崇拝する。
吾が輩はそういうタイプではないと、自分のことを信じているわけです(。-ω-)タハハ