モノクロ写真を撮っていると、なんというか、逆に色に敏感になる瞬間がある。
なにに感動しているかというと、単純に「色」に感動している。
カラーチャートのような無機質な色ではなく、形と質感を備えた色。
その美しさに、眼を奪われてシャッターを押している。
ああ、いいなあ・・・ただそれだけだけれど、モノクロームの世界からカラーの世界へと気分を転じると、そこには豊麗なうるおいの世界がひろがっている。
とくに原色。あるいは原色を身にまとったものの存在感。
強烈な色彩をまとった被写体が、ほんの一瞬だが、眼に襲いかかる!
そういったら「感動」の意味がわかってもらえるかも知れない。
こういう存在は、ほとんどが人工物だが、たまには自然の世界の中でも、色が眼を射ることがある。
これは高知県で天然記念物に指定されているという金明孟宗竹(たぶん、間違いないとおもうけど)。
緑と黄の絶妙なハーモニーが、なんともいえない味わいをかもしている。
赤、青、黄、そして緑。
自然物は人間が定義することのできない、微妙な色と質感の宝庫なのかも知れない。
「松のことは松にならえ、竹のことは竹にならえ」といったのは芭蕉さんである。
このことばは、そのまま写真家の箴言になりうるだろう。先入観をもって、ものを見るのではなく、こころを空しくして、あるがままの被写体をうけいれる。
赤、青、黄、そして緑とは、人間が便宜上そう名づけているだけ。
赤は赤ではなく、青は青ではない。
・・・つまりカラーチャートのように、「そこ」にあるのではない。
そこに気がつかないと、色のある写真の愉しみが半減してしまうだろう。
そこにあるものが、人間がつくり出した塗料による色であったとしても、その色をまとったマテリアルによって質感は大きく変化するし、経年変化がその味わいを、さらに濃くしてゆく。
「見ること」は、無心にうけいれることとほとんど同じなのだ。
なにに感動しているかというと、単純に「色」に感動している。
カラーチャートのような無機質な色ではなく、形と質感を備えた色。
その美しさに、眼を奪われてシャッターを押している。
ああ、いいなあ・・・ただそれだけだけれど、モノクロームの世界からカラーの世界へと気分を転じると、そこには豊麗なうるおいの世界がひろがっている。
とくに原色。あるいは原色を身にまとったものの存在感。
強烈な色彩をまとった被写体が、ほんの一瞬だが、眼に襲いかかる!
そういったら「感動」の意味がわかってもらえるかも知れない。
こういう存在は、ほとんどが人工物だが、たまには自然の世界の中でも、色が眼を射ることがある。
これは高知県で天然記念物に指定されているという金明孟宗竹(たぶん、間違いないとおもうけど)。
緑と黄の絶妙なハーモニーが、なんともいえない味わいをかもしている。
赤、青、黄、そして緑。
自然物は人間が定義することのできない、微妙な色と質感の宝庫なのかも知れない。
「松のことは松にならえ、竹のことは竹にならえ」といったのは芭蕉さんである。
このことばは、そのまま写真家の箴言になりうるだろう。先入観をもって、ものを見るのではなく、こころを空しくして、あるがままの被写体をうけいれる。
赤、青、黄、そして緑とは、人間が便宜上そう名づけているだけ。
赤は赤ではなく、青は青ではない。
・・・つまりカラーチャートのように、「そこ」にあるのではない。
そこに気がつかないと、色のある写真の愉しみが半減してしまうだろう。
そこにあるものが、人間がつくり出した塗料による色であったとしても、その色をまとったマテリアルによって質感は大きく変化するし、経年変化がその味わいを、さらに濃くしてゆく。
「見ること」は、無心にうけいれることとほとんど同じなのだ。