ここに収められた写真が撮られたのは、1954年、55年のことである。
価値が高いのは、まだ開発の途上にあったはずのカラーフィルムを思い切りよく使った「パリ写真」だからだろうと、わたしは考えている。
フジフィルム株式会社のヒストリーを参照すると、
1958年
3月:映画用35mmフジカラーネガティブフィルム(タイプ8512)発売
6月:フジカラーネガティブフィルムによる最初の長編劇映画作品「楢山節考」(松竹作品)を公開
10月:フジカラーネガティブフィルム(35mm判,ロール),フジカラーペーパー発売
ということになる。
まだ市販されるまえのカラーネガを、伊兵衛さんは、外遊するにあたって、フジフィルムから無償で提供され、それをもってパリへ旅立ったと、どこかに書いておられる。
フィルムの感度がモノクロでISO(ASA)25、カラーで10という時代に、
よくもまあ、こんなスナップを・・・といまのわれわれは、感心せずにいられない。
わたしが買った写真集は、2014年12月に刊行されたポケット版1600円+税。
本書は2006年に刊行された大部な「木村伊兵衛のパリ」を定本とし、そこから抜粋して“ポケット版”に編集しなおしたもの。
オリジナル版は大きく、重く、とても一般人が買えるようなお値段ではなかった。
わたしは10年ばかりに以前に一度、昨年一度、そのオリジナルの写真集を県立図書館から借りてきて見ている。
多少の褪色はあるだろうが、オリジナルのカラーがよく保存され、時代の空気が“色”をまとって蘇ってくる心地がする。
伊兵衛さんは、1901(明治34)年に東京下谷に生まれている。
20歳のころから写真を撮りはじめ、パリへ旅立ったときすでに巨匠としての地位を築いていた。1950年代半ば、復興期にあった日本にとって、パリは遠いとおい異国の都市であった。
本書を読んでいて、このとき伊兵衛さんを招待したのが、すでに世界的な名声を確立していたアンリ・カルチェ=ブレッソンであったことを知った。そしてブレッソンから友人として紹介されたのが、ロベール・ドアノー。
二度目の外遊ではそのドアノーに教えられ、同行したりしてもらいながら、パリの下町をスナップしている。
「未知のパリに出かけて、いきなりこれだけの写真が撮れるとはすごいものだ」
とわたしはかつて感心していた。しかしじっさいには、パリ写真の巨匠ドアノーのアシストがあったことになる。
そしてブレッソン、ドアノーに学んでそのカメラ・アイにさらに研きをかけ、のちに「秋田」としてまとめられる作品群を生み出していく。
ふたたびモノクロームへと返っていくのだが、それはカラー写真の里程標、「木村伊兵衛のパリ」の価値を少しも減ずるものではないとわたしはかんがえる。
撮影した人も、撮影された人もすでに死んでしまった。
そして「木村伊兵衛のパリ」が、いまも生きいきと呼吸している。写真でしかふれることのできない1950年代の空気が・・・人と街のたたずまいがそこに、ある。
「伊兵衛さんが撮ったブレッソン」
シニカルでシャイだったブレッソンは、自身の写真を撮られることを好まなかったという。
有名人となり、顔を知られることを嫌った。
ブレッソンの撮影ぶりを見て「おいおいあれを見ろ! まるでブレッソン気取りだぜ」
といわれたというエピソードは伝説と化している。
ブレッソンのライカは両手の中に半ば隠れている。動きの一瞬をとらえた表情の妙、鋭いがなごやかなまなざし。
人物スナップの傑作といっていいだろう。
「伊兵衛さんが撮った永井荷風」
文芸雑誌のグラビア用にでも撮影したのだろうか? 紳士然としてめいっぱいめかしこんでいる。ステッキではなく、雨傘をもっているのが、いかにも荷風さんだ。
左手にさげた小さなバッグには、かの預金通帳もきっと入っていただろう。この時代の人としては、荷風さん自身もよく写真を撮った。ローライ(むろん初期)の二眼レフが、彼の愛用のカメラだった。
鴎外や漱石ならば、かりに町で見かけても、恐れ多くてとてもことばはかけられない。
ところが荷風さんであったら、
「荷風さんですよね? あのう、写真を撮らせてもらえますか」と訊ねることができただろう。もちろん撮らせてもらえたかどうかはわからないけれど*´∀`)ノ
※ブレッソンと荷風のフォトは「別冊太陽 木村伊兵衛」から引用しています。
価値が高いのは、まだ開発の途上にあったはずのカラーフィルムを思い切りよく使った「パリ写真」だからだろうと、わたしは考えている。
フジフィルム株式会社のヒストリーを参照すると、
1958年
3月:映画用35mmフジカラーネガティブフィルム(タイプ8512)発売
6月:フジカラーネガティブフィルムによる最初の長編劇映画作品「楢山節考」(松竹作品)を公開
10月:フジカラーネガティブフィルム(35mm判,ロール),フジカラーペーパー発売
ということになる。
まだ市販されるまえのカラーネガを、伊兵衛さんは、外遊するにあたって、フジフィルムから無償で提供され、それをもってパリへ旅立ったと、どこかに書いておられる。
フィルムの感度がモノクロでISO(ASA)25、カラーで10という時代に、
よくもまあ、こんなスナップを・・・といまのわれわれは、感心せずにいられない。
わたしが買った写真集は、2014年12月に刊行されたポケット版1600円+税。
本書は2006年に刊行された大部な「木村伊兵衛のパリ」を定本とし、そこから抜粋して“ポケット版”に編集しなおしたもの。
オリジナル版は大きく、重く、とても一般人が買えるようなお値段ではなかった。
わたしは10年ばかりに以前に一度、昨年一度、そのオリジナルの写真集を県立図書館から借りてきて見ている。
多少の褪色はあるだろうが、オリジナルのカラーがよく保存され、時代の空気が“色”をまとって蘇ってくる心地がする。
伊兵衛さんは、1901(明治34)年に東京下谷に生まれている。
20歳のころから写真を撮りはじめ、パリへ旅立ったときすでに巨匠としての地位を築いていた。1950年代半ば、復興期にあった日本にとって、パリは遠いとおい異国の都市であった。
本書を読んでいて、このとき伊兵衛さんを招待したのが、すでに世界的な名声を確立していたアンリ・カルチェ=ブレッソンであったことを知った。そしてブレッソンから友人として紹介されたのが、ロベール・ドアノー。
二度目の外遊ではそのドアノーに教えられ、同行したりしてもらいながら、パリの下町をスナップしている。
「未知のパリに出かけて、いきなりこれだけの写真が撮れるとはすごいものだ」
とわたしはかつて感心していた。しかしじっさいには、パリ写真の巨匠ドアノーのアシストがあったことになる。
そしてブレッソン、ドアノーに学んでそのカメラ・アイにさらに研きをかけ、のちに「秋田」としてまとめられる作品群を生み出していく。
ふたたびモノクロームへと返っていくのだが、それはカラー写真の里程標、「木村伊兵衛のパリ」の価値を少しも減ずるものではないとわたしはかんがえる。
撮影した人も、撮影された人もすでに死んでしまった。
そして「木村伊兵衛のパリ」が、いまも生きいきと呼吸している。写真でしかふれることのできない1950年代の空気が・・・人と街のたたずまいがそこに、ある。
「伊兵衛さんが撮ったブレッソン」
シニカルでシャイだったブレッソンは、自身の写真を撮られることを好まなかったという。
有名人となり、顔を知られることを嫌った。
ブレッソンの撮影ぶりを見て「おいおいあれを見ろ! まるでブレッソン気取りだぜ」
といわれたというエピソードは伝説と化している。
ブレッソンのライカは両手の中に半ば隠れている。動きの一瞬をとらえた表情の妙、鋭いがなごやかなまなざし。
人物スナップの傑作といっていいだろう。
「伊兵衛さんが撮った永井荷風」
文芸雑誌のグラビア用にでも撮影したのだろうか? 紳士然としてめいっぱいめかしこんでいる。ステッキではなく、雨傘をもっているのが、いかにも荷風さんだ。
左手にさげた小さなバッグには、かの預金通帳もきっと入っていただろう。この時代の人としては、荷風さん自身もよく写真を撮った。ローライ(むろん初期)の二眼レフが、彼の愛用のカメラだった。
鴎外や漱石ならば、かりに町で見かけても、恐れ多くてとてもことばはかけられない。
ところが荷風さんであったら、
「荷風さんですよね? あのう、写真を撮らせてもらえますか」と訊ねることができただろう。もちろん撮らせてもらえたかどうかはわからないけれど*´∀`)ノ
※ブレッソンと荷風のフォトは「別冊太陽 木村伊兵衛」から引用しています。