わたしはいつのころからか、TVをめったに見なくなってしまった。
「見なくても、帰宅するとまずTVのスイッチを入れる」という習慣が、かつてはあった。そのころから比べ、なんという違いだろう。
音が欲しくなると、昨年4月に買ったミニコンで、クラシックを聴く。
この10日間、いちばんよく、何度も耳を澄ませたのは、つぎの2枚。
1.「バッハピアノ協奏曲」1番ニ短調、3番ニ長調、5番ヘ短調、6番ヘ長調
ピアノ:シプリアン・カツァリス 指揮:ヤーノシュ・ローラ 演奏:フランツ・リスト室内管弦楽団(ワーナー・ジャパン)
2-1
「モーツァルト 交響曲」35番(ハフナー)、36番(リンツ)、38番(プラハ)
2-2
「モーツァルト 交響曲」39番、40番、41番(ジュピター)
指揮:カール・ベーム 演奏:ベルリンフィル
どちらも、BOOK OFFの500円の棚に置いてあった。

「カール・ベームはもう古い」
・・・といういい方がなされているのを、何かで読んだ。
古楽器による演奏が主流になり、バッハはバッハの時代、モーツァルトはモーツァルトの時代に使われた楽器を復元し、その時代の奏法で聴くのがよしとされるようになったのは、いったいいつごろからだろう。
わたしがクラシック音楽に目覚めた高校生のころ、モーツァルトのファンは、ブルーノ・ワルターか、このベームの指揮で、後期の名作シンフォニーを聴いていたものだ。そう・・・名曲喫茶なるものが、日本中の都市の津津浦々にあったころの、遠いおはなしなのだが(^^;)
野生動物の子どもには「刷り込み」という心理現象があって、「最初に見た“動くもの”」を親だと認識し、それは終生、その個体の生き方を決定してしまうものらしい。
だから、わたしにとって、ベームでモーツァルトを聴くとは、あの60年代末期から、70年代なかばあたりのわが「青春」を思い出す“よすが”としての音楽なのである。
当然、古くてあたりまえ。
たとえば、バッハのピアノ協奏曲も、そう。
わたしはこれ、はじめ、ヴァルヒャのチェンバロ協奏曲として聴いて、
その魅惑の世界に目覚めたため、長いあいだ、チェンバロ・バージョン以外では、聴く気持ちになれなかった。
ところが、ふとしたきっかけで、諏訪内晶子のヴァイオリン協奏曲に耳をかたむけてびっくり。同じ曲なのである。バッハのすごさ。主役がチェンバロであろうが、ヴァイオリンであろうが、ピアノであろうが、音楽として見事に成立してしまう。
そして、カツァリスなのである。
数ヶ月前、「ほんとうのクラシック・ファンなら、妻か妙齢のご婦人をエスコートし、演奏会へでかけなくちゃだめだよ」と、友人にいわれた。「ウィーン・フィルやN響じゃなくてもいいんだからさ」
たしかに。
CDの音は、電気的に合成された音。
「そこ」には、ピアノもヴァイオリンもなく、ナマの振動として聴く音ではない。
「いなかのコンサート・ホールでもいいからさ。じっさいにその場に足をはこんだら、10倍、いや20倍愉しいぞ」というのである。
それで、ちょっと、目が覚めたような感じになったのである。「まあ、いずれはね」とわたしは、返事しただけ。究極は、それに支払うお金と時間の問題にまでいってしまう。
「古きよき時代」という表現がある。
その感覚は人それぞれで、きわめてパーソナルなもの。
人間はだれしも、時代の空気を呼吸しながら育ち、成長し、なにものかを獲得したり、失ったりするものである。あの時代、あの場所には、もうもどれない・・・だから、ときには埃を払って、ベームにおつきあいする「価値がある」と思うのである。
「見なくても、帰宅するとまずTVのスイッチを入れる」という習慣が、かつてはあった。そのころから比べ、なんという違いだろう。
音が欲しくなると、昨年4月に買ったミニコンで、クラシックを聴く。
この10日間、いちばんよく、何度も耳を澄ませたのは、つぎの2枚。
1.「バッハピアノ協奏曲」1番ニ短調、3番ニ長調、5番ヘ短調、6番ヘ長調
ピアノ:シプリアン・カツァリス 指揮:ヤーノシュ・ローラ 演奏:フランツ・リスト室内管弦楽団(ワーナー・ジャパン)
2-1
「モーツァルト 交響曲」35番(ハフナー)、36番(リンツ)、38番(プラハ)
2-2
「モーツァルト 交響曲」39番、40番、41番(ジュピター)
指揮:カール・ベーム 演奏:ベルリンフィル
どちらも、BOOK OFFの500円の棚に置いてあった。

「カール・ベームはもう古い」
・・・といういい方がなされているのを、何かで読んだ。
古楽器による演奏が主流になり、バッハはバッハの時代、モーツァルトはモーツァルトの時代に使われた楽器を復元し、その時代の奏法で聴くのがよしとされるようになったのは、いったいいつごろからだろう。
わたしがクラシック音楽に目覚めた高校生のころ、モーツァルトのファンは、ブルーノ・ワルターか、このベームの指揮で、後期の名作シンフォニーを聴いていたものだ。そう・・・名曲喫茶なるものが、日本中の都市の津津浦々にあったころの、遠いおはなしなのだが(^^;)
野生動物の子どもには「刷り込み」という心理現象があって、「最初に見た“動くもの”」を親だと認識し、それは終生、その個体の生き方を決定してしまうものらしい。
だから、わたしにとって、ベームでモーツァルトを聴くとは、あの60年代末期から、70年代なかばあたりのわが「青春」を思い出す“よすが”としての音楽なのである。
当然、古くてあたりまえ。
たとえば、バッハのピアノ協奏曲も、そう。
わたしはこれ、はじめ、ヴァルヒャのチェンバロ協奏曲として聴いて、
その魅惑の世界に目覚めたため、長いあいだ、チェンバロ・バージョン以外では、聴く気持ちになれなかった。
ところが、ふとしたきっかけで、諏訪内晶子のヴァイオリン協奏曲に耳をかたむけてびっくり。同じ曲なのである。バッハのすごさ。主役がチェンバロであろうが、ヴァイオリンであろうが、ピアノであろうが、音楽として見事に成立してしまう。
そして、カツァリスなのである。
数ヶ月前、「ほんとうのクラシック・ファンなら、妻か妙齢のご婦人をエスコートし、演奏会へでかけなくちゃだめだよ」と、友人にいわれた。「ウィーン・フィルやN響じゃなくてもいいんだからさ」
たしかに。
CDの音は、電気的に合成された音。
「そこ」には、ピアノもヴァイオリンもなく、ナマの振動として聴く音ではない。
「いなかのコンサート・ホールでもいいからさ。じっさいにその場に足をはこんだら、10倍、いや20倍愉しいぞ」というのである。
それで、ちょっと、目が覚めたような感じになったのである。「まあ、いずれはね」とわたしは、返事しただけ。究極は、それに支払うお金と時間の問題にまでいってしまう。
「古きよき時代」という表現がある。
その感覚は人それぞれで、きわめてパーソナルなもの。
人間はだれしも、時代の空気を呼吸しながら育ち、成長し、なにものかを獲得したり、失ったりするものである。あの時代、あの場所には、もうもどれない・・・だから、ときには埃を払って、ベームにおつきあいする「価値がある」と思うのである。