このあいだから区分けしていた本を、今日軽トラに積んで、最寄りのBOOK OFFに搬入することにした。しだいにふえて、眼見当でおよそ600冊。あるいはもっと多いかも知れない。
1)かつて海外ミステリの書評サイトを運営していた。そのころ集めた本の約1/2を叩き売る。D・フランシスなどはほぼ全巻もっていた。これは初期の「本命」から「飛越」までと、代表作「利腕」など数作を残したのみ。
2)海外ミステリのあとは、わが国の時代小説に熱中していた時期がある。山本周五郎、司馬遼太郎、池波正太郎、藤澤周平等々。これは大半を残すことに決めた。数ヶ月間考えて、いよいよとなったら、これも1/2は処分したい。
3)第3のジャンルは官能小説。恥ずかしながら、かつて官能小説作家を目指したことがある。このジャンルだけで、6、70冊の“参考書”を集めた(笑)。これらは名作と思われるもの数冊を残し、あとはすべて処分。そしてあとはノンジャンルというか、ノウハウ本だとか、入門書だとか、実用書等々ということになる。
一口に本といっても、60年のあいだに、ずいぶんと遍歴を重ねている(^^;)
今回手をつけることを躊躇したのは、古典的、あるいは半古典的ないわゆる名作や、近代文学作品、詩集、写真集など。
ミステリや官能小説を「読み返す」などということは、めったにない。というか、わたしの場合、99%ありえない。
だから、蔵書としてかかえ置く必要がないのである。それに比べると、古典やお気に入りの文学作品は、今後読み返す可能性がある。健康を損ねるとかしないかぎり、斜め読みする本をふくめ、10冊/月は読みつづけるだろう。
映画やTVには関心が向かないから、1500~2000冊程度は、つねに手許に置いて、必要に応じ、すぐにでも手にとれるようにしておきたい。
自宅にある本のほかに、母屋の二階には、中学・高校のころ買った本が、およそ1000冊はある。また西の物置には、かなり廃棄はしたものの、東京暮らしをしていたころに集めた詩集や評論集が、これまたおよそ1000冊は眠っている。
これらはその気になれば、8割は捨てられるだろう。黄ばんでぼろぼろになったり、ほこりまみれになったりして、買い取り不可かもしれないが――。
写真の関連本もかなりあるが、これは雑誌のバックナンバーのみ処分。かつてライカ・ウィルスに取り憑かれていたので、ライカ本もかなりある。
いささか迷いはあるけれど、これは当面、すべて残すことにする。
まあ、年内に、あと1000冊ほどは処分して、身軽になろう。
コメディアンで、冒険小説の書評家だった内藤陳さんに「読まずに死ねるか!」という有名な著書がある。わたしも当然のごとく、もっている。ミステリといっても、冒険小説、ハードボイルドのほうが好きだった。
その内藤さんも、2011年12月にお亡くなりになってしまった。友人と新宿ゴールデン街にあった内藤さんの酒場まで出かけていったことがあった。
ご本人にはお会いできなかったが、あのとき飲んだサントリーホワイトの水割りの味だけは思い出に刻まれている。
・・・そうそう。「読まずに死ねるか!」という思いが、かつてのわたしにもあったのだ(^^;)
トルストイ「戦争と平和」やメルヴィル「白鯨」は、新訳が出たので、もういっぺん読んでおこうと、書棚に備えてある。しかし、このさき、いったい何冊の書物が読めるのだろう?
老いが身の値ぶみをさるるけさの春
ちる花や巳におのれも下り坂
かすむやら目が霞やらことしから
寝(いね)あまる夜といふとしにいつか成り
六十に二ツふみ込む夜寒哉
くやしくも熟柿仲間の座につきぬ
六十年踊る夜もなく過しけり
すべて小林一茶の句である。彼は64才(満年齢)で亡くなっている。
どの句も身につまされたり、苦笑を禁じえなかったりする。彼の場合も、ここへたどり着くまで、人にはいえぬ苦労や紆余曲折があったのだ。
六十年踊る夜もなく過しけり
一茶は生涯「踊る」ことはなかった人だろう。俳聖芭蕉を仰ぎ見ながら、おのれの「非才」を十分承知していた。凡夫の歎きが、なんともいえないユーモアと「ゆるキャラ」的な味わいをかもし出し、いまでも多くのファンを喜ばせている。
わたしもむろん、その一人。