種田山頭火のつぎは、尾崎放哉を読んでみようと決めていた。
はじめに印象に残った俳句を引用しよう。
■定型句
鯉幟を下して居るやにはか雨
炬燵ありと障子に書きし茶店哉
冬の山神社に遠き鳥居哉
■自由律
あらしがすつかり青空にしてしまつた
一日物云はず蝶の影さす
鐘ついて去る鐘の余韻の中
こんなよい月を一人で見て寝る
咳をしても一人
つくづく淋しい我が影よ動かして見る
考えごとをしている田螺が歩いている
つめたく咲き出でし花のその影
一人の道が暮れて来た
いれものがない両手でうける
海風に筒抜けられて居るいつも一人
春の山のうしろから烟が出だした(辞世)
この岩波文庫に付された池内紀さんの解説はまことに簡にして要をえたすぐれものである。それによると、
1926年 放哉の死
1976年 荻原井泉水の死
1996年 井泉水の物置から眠っていた放哉の31冊の句稿が発見される
尾崎放哉がその全貌を現わすまで、こういう経緯をたどったのだ。
定型句を書いていた時代のものもあるが、のちによく知られるようになったのは、最後の3年間に書かれた。さらに、最後の1年あまりのあいだに、秀句といわれるものが集中している。末期の眼に映った心象風景と池内さんがいうのは、そういう理由に基づく。
放哉はつくった句を、できるそばからかつての友人荻原井泉水に送りつけていた。それに対し、井泉水は丁寧に添削をくわえ、すぐれた句は「層雲」に掲載していったようである。
池内さんが、その興味深い添削のあらましを書いている。
下が原句である。
壁の新聞の女はいつも泣いている
(いつも泣いて居る女の絵が気になる壁の新聞)
お粥煮えてくる音の鍋のふた
(お粥をすゝる音のふたをする)
一つ二つ蛍見てたづぬる家
(一つ二つ蛍見てたずね来たりし)
これは二人三脚とでもいうほかない、師弟の無言の“会話”であろう。こういう会話を通じ、井泉水は放哉にとってかけがえのない“井師”となってゆく。
俳句は、茶道や華道とならんで、習うものであった。免状をもらうため、大抵はお金も支払われた。
そういう結社、組織のなかでの師弟である。日本人はこういうものが江戸の昔から大好きで、「道を究める」ことに情熱を燃やした。
吉村昭さんに「海も暮れきる」という、放哉を主人公に据えた小説があり、以前から気になっているが、まだ読んでいない。
障子あけておく海も暮れきる
この句は、原句は「すっかり暮れきるまで庵の障子あけて置く」だそうである。“井師”の添削によって新たないのちを吹き込まれた。
年齢は一年しか違わないが、大学の先輩であった荻原井泉水と出会ったことが、放哉の生涯にとっては決定的であったのだ。
放哉の死に際して、井泉水はつぎのような句を手向けている。
■放哉を葬る
痩せきつた手を合わしている彼に手を合わす
一ずにふる雪となりて竹にふる
生きていれば逢えることの旅で萩さく
ところで、放哉はなぜ、生きる意欲をなくしたのであろうか。エリート・コースを歩いてきた人物が、あるときを境に、人生を投げ出してしまった。
性格に甘えがあったとはいうものの、離婚したからといって、あるいは一度や二度失職したからといって、生きる意欲をなくすものではない、とわたしは思う。
おそらく返済不能な借金でも抱えてしまったのだろう。現在なら自己破産(当時この制度があったかどうか)ということになる。
放哉の作品すべてを知ったうえでいうわけではないのだが、彼を理解するためには「入庵雑記」は必読の書であろう。そのうち「鉦叩き」「石」「風」は反読するにたる秀逸なエッセイである。
《瞑目してジッと聞いておりますと、(鉦叩きの)この、カーン、カーン、カーン、という声はどうしてもこの地上のものとは思われません。どう考えて見ても、この声は、地の底、四、五尺の処から響いてくるようにきこえます、そして、カーン、カーン、如何にも鉦を叩いて静かに読経でもしているように思われるのであります。
これは決して虫ではない、虫の声ではない、・・・坊主、しかも、ごく小さい豆人形のような小坊主が、まっ黒い衣をきて、たった一人、静かに、・・・地の底で鉦を叩いている、その声なのだ、何の呪詛か、何の因果か、どうしても一生地の底から上には出る事が出来ないように運命づけられた小坊主が、たった一人、静かに、・・・鉦を叩いている、(以下略)》(「鉦叩き」より)
お読みになればわかるように、彼はここでも「たった一人」ということに取憑かれている。
放哉が心を奪われたカネタタキ(鉦叩き)とは、ちなみにこういう昆虫。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8D%E3%82%BF%E3%82%BF%E3%82%AD
だけど、彼はこれらの手記で、弱音をはいているのである。ドロップアウトした過去を赤裸々に吐露しているわけではない。井師つまり井泉水と、西光寺の住職杉本師にたびたび言及し、南郷院(庵)に落ち着けたことを感謝している。
咳をしても一人
最晩年のこの一句が、彼を有名人の一人に押し上げた・・・とわたしは思う。
一人の道が暮れて来た
いれものがない両手でうける
このあたりも秀句のなかに入る。
考えごとをしている田螺が歩いている
これもアイロニカルな味わいを持った、インパクトのある作品。
無縁社会の到来ということが取沙汰されるようになって久しいが、現在なら、放哉はワンルームのアパートで孤独死していた一人かもしれない。
個人的な経験をいわせてもらえば、わたしはアパート・マンションの管理を13年ばかりやっていた。そのなかには、ワンルーム、もしくはそれに近い狭苦しい一室で暮らす独身者が、10人ほどいた。
職がない、
お金がない、
たよれる身内、友人知人がいない、
むろん資産などあるわけもない、つまりないない尽くし(=_=)
すべて中年もしくは初老の男性。市の生活保護受給者である。
咳をしても一人
そんなこと、あたりまえ。
ときおり、心配になって、部屋を訪ねたことがあった。身内も友人知人もいないのだから、だれもやってこない。死んで何日もたって、腐乱死体で・・・というケースもある。わたしの甥は刑事なので、仕事柄そんな場面にも遭遇する。
SNSの進展だって無縁社会の別な一側面。
かんがえようによっては、放哉も山頭火も時代の先駆者だといえる、無縁社会のなかの先駆者。本当はそんなふうには生きたくなかったのかもしれない。しかし、気がついたら、もう戻れなくなっていたのだ。
運命とは、そういうものであろう。
亡くなってしまった人にとやかくいっても仕方ないので黙々と鑑賞するわけだが、山頭火や放哉のことをかんがえていたら、なんだかやりきれない気分になってきた。
そもそも人は、自分の一生を決めることができる存在なのだろうか?
半分はできるが、半分はできない。あるところから先は、運を天にまかせるしかないのだ・・・と、いまのわたしはかんがえざるをえない。
一人の道が暮れて来た
障子あけておく海も暮れきる
(ネット画像を拝借しています)
(終焉の地・小豆島の記念館。かつての南郷庵近くか)
晩年になって、心にひりひり沁みてくる作品をいくつかあとにのこし、41才でさっさと死んでいった放哉・尾崎秀雄。この二句は彼の絶唱といっていい。
中世の隠者・西行や兼好にはまったく似てはいない。
身を磨り減らしてゆき場を失い、最後には若き日に出会った“井師”にすがらざるをえなかった落魄の軌跡が、これらの俳句の背後に息づいている。
彼は一人でいるやすらぎばかり強調するが、その生と死は、“井師”その他大勢の人びとに見守られたうえのものであったことは疑う余地がない。
(放哉の墓。好きだった日本酒やビールが供えてある。ネット上の画像を拝借しました。)
※ 書き忘れていた、というわけではないが、尾崎放哉の終焉の地が小豆島であったことには意味があるとわたしはかんがえる。弘法大師信仰の島で、四国と同じく八十八か所の札所があり、現在も霊場めぐりの巡礼がたえない。
その五十八番札所の西光寺の草庵が、放哉終焉の地。
「入庵雑記」に、ときおり集まって念仏を唱えるおばあさんたちの姿が、エッセイのワンシーンとして描かれている。このなかのお一人が、放哉の看取りをしたのだろうが、まだ十分調べがついていない。
したがって、本文には書かず、註としてここに書き添える。セーフティネットなどなかった時代。こういう人たちによって、41才の放哉は、一人永遠の眠りにつくことができたのである。・・・もって瞑すべし。
※ すでにどこかに書いているが、goo-blogのタイトル「二草庵摘録」の二草庵は、種田山頭火の「一草庵」にあやかったものです。
尾崎放哉については岩波文庫で読んだだけの怠惰な読者なので、記事に誤り等がありましたらご指摘下さい。
はじめに印象に残った俳句を引用しよう。
■定型句
鯉幟を下して居るやにはか雨
炬燵ありと障子に書きし茶店哉
冬の山神社に遠き鳥居哉
■自由律
あらしがすつかり青空にしてしまつた
一日物云はず蝶の影さす
鐘ついて去る鐘の余韻の中
こんなよい月を一人で見て寝る
咳をしても一人
つくづく淋しい我が影よ動かして見る
考えごとをしている田螺が歩いている
つめたく咲き出でし花のその影
一人の道が暮れて来た
いれものがない両手でうける
海風に筒抜けられて居るいつも一人
春の山のうしろから烟が出だした(辞世)
この岩波文庫に付された池内紀さんの解説はまことに簡にして要をえたすぐれものである。それによると、
1926年 放哉の死
1976年 荻原井泉水の死
1996年 井泉水の物置から眠っていた放哉の31冊の句稿が発見される
尾崎放哉がその全貌を現わすまで、こういう経緯をたどったのだ。
定型句を書いていた時代のものもあるが、のちによく知られるようになったのは、最後の3年間に書かれた。さらに、最後の1年あまりのあいだに、秀句といわれるものが集中している。末期の眼に映った心象風景と池内さんがいうのは、そういう理由に基づく。
放哉はつくった句を、できるそばからかつての友人荻原井泉水に送りつけていた。それに対し、井泉水は丁寧に添削をくわえ、すぐれた句は「層雲」に掲載していったようである。
池内さんが、その興味深い添削のあらましを書いている。
下が原句である。
壁の新聞の女はいつも泣いている
(いつも泣いて居る女の絵が気になる壁の新聞)
お粥煮えてくる音の鍋のふた
(お粥をすゝる音のふたをする)
一つ二つ蛍見てたづぬる家
(一つ二つ蛍見てたずね来たりし)
これは二人三脚とでもいうほかない、師弟の無言の“会話”であろう。こういう会話を通じ、井泉水は放哉にとってかけがえのない“井師”となってゆく。
俳句は、茶道や華道とならんで、習うものであった。免状をもらうため、大抵はお金も支払われた。
そういう結社、組織のなかでの師弟である。日本人はこういうものが江戸の昔から大好きで、「道を究める」ことに情熱を燃やした。
吉村昭さんに「海も暮れきる」という、放哉を主人公に据えた小説があり、以前から気になっているが、まだ読んでいない。
障子あけておく海も暮れきる
この句は、原句は「すっかり暮れきるまで庵の障子あけて置く」だそうである。“井師”の添削によって新たないのちを吹き込まれた。
年齢は一年しか違わないが、大学の先輩であった荻原井泉水と出会ったことが、放哉の生涯にとっては決定的であったのだ。
放哉の死に際して、井泉水はつぎのような句を手向けている。
■放哉を葬る
痩せきつた手を合わしている彼に手を合わす
一ずにふる雪となりて竹にふる
生きていれば逢えることの旅で萩さく
ところで、放哉はなぜ、生きる意欲をなくしたのであろうか。エリート・コースを歩いてきた人物が、あるときを境に、人生を投げ出してしまった。
性格に甘えがあったとはいうものの、離婚したからといって、あるいは一度や二度失職したからといって、生きる意欲をなくすものではない、とわたしは思う。
おそらく返済不能な借金でも抱えてしまったのだろう。現在なら自己破産(当時この制度があったかどうか)ということになる。
放哉の作品すべてを知ったうえでいうわけではないのだが、彼を理解するためには「入庵雑記」は必読の書であろう。そのうち「鉦叩き」「石」「風」は反読するにたる秀逸なエッセイである。
《瞑目してジッと聞いておりますと、(鉦叩きの)この、カーン、カーン、カーン、という声はどうしてもこの地上のものとは思われません。どう考えて見ても、この声は、地の底、四、五尺の処から響いてくるようにきこえます、そして、カーン、カーン、如何にも鉦を叩いて静かに読経でもしているように思われるのであります。
これは決して虫ではない、虫の声ではない、・・・坊主、しかも、ごく小さい豆人形のような小坊主が、まっ黒い衣をきて、たった一人、静かに、・・・地の底で鉦を叩いている、その声なのだ、何の呪詛か、何の因果か、どうしても一生地の底から上には出る事が出来ないように運命づけられた小坊主が、たった一人、静かに、・・・鉦を叩いている、(以下略)》(「鉦叩き」より)
お読みになればわかるように、彼はここでも「たった一人」ということに取憑かれている。
放哉が心を奪われたカネタタキ(鉦叩き)とは、ちなみにこういう昆虫。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8D%E3%82%BF%E3%82%BF%E3%82%AD
だけど、彼はこれらの手記で、弱音をはいているのである。ドロップアウトした過去を赤裸々に吐露しているわけではない。井師つまり井泉水と、西光寺の住職杉本師にたびたび言及し、南郷院(庵)に落ち着けたことを感謝している。
咳をしても一人
最晩年のこの一句が、彼を有名人の一人に押し上げた・・・とわたしは思う。
一人の道が暮れて来た
いれものがない両手でうける
このあたりも秀句のなかに入る。
考えごとをしている田螺が歩いている
これもアイロニカルな味わいを持った、インパクトのある作品。
無縁社会の到来ということが取沙汰されるようになって久しいが、現在なら、放哉はワンルームのアパートで孤独死していた一人かもしれない。
個人的な経験をいわせてもらえば、わたしはアパート・マンションの管理を13年ばかりやっていた。そのなかには、ワンルーム、もしくはそれに近い狭苦しい一室で暮らす独身者が、10人ほどいた。
職がない、
お金がない、
たよれる身内、友人知人がいない、
むろん資産などあるわけもない、つまりないない尽くし(=_=)
すべて中年もしくは初老の男性。市の生活保護受給者である。
咳をしても一人
そんなこと、あたりまえ。
ときおり、心配になって、部屋を訪ねたことがあった。身内も友人知人もいないのだから、だれもやってこない。死んで何日もたって、腐乱死体で・・・というケースもある。わたしの甥は刑事なので、仕事柄そんな場面にも遭遇する。
SNSの進展だって無縁社会の別な一側面。
かんがえようによっては、放哉も山頭火も時代の先駆者だといえる、無縁社会のなかの先駆者。本当はそんなふうには生きたくなかったのかもしれない。しかし、気がついたら、もう戻れなくなっていたのだ。
運命とは、そういうものであろう。
亡くなってしまった人にとやかくいっても仕方ないので黙々と鑑賞するわけだが、山頭火や放哉のことをかんがえていたら、なんだかやりきれない気分になってきた。
そもそも人は、自分の一生を決めることができる存在なのだろうか?
半分はできるが、半分はできない。あるところから先は、運を天にまかせるしかないのだ・・・と、いまのわたしはかんがえざるをえない。
一人の道が暮れて来た
障子あけておく海も暮れきる
(ネット画像を拝借しています)
(終焉の地・小豆島の記念館。かつての南郷庵近くか)
晩年になって、心にひりひり沁みてくる作品をいくつかあとにのこし、41才でさっさと死んでいった放哉・尾崎秀雄。この二句は彼の絶唱といっていい。
中世の隠者・西行や兼好にはまったく似てはいない。
身を磨り減らしてゆき場を失い、最後には若き日に出会った“井師”にすがらざるをえなかった落魄の軌跡が、これらの俳句の背後に息づいている。
彼は一人でいるやすらぎばかり強調するが、その生と死は、“井師”その他大勢の人びとに見守られたうえのものであったことは疑う余地がない。
(放哉の墓。好きだった日本酒やビールが供えてある。ネット上の画像を拝借しました。)
※ 書き忘れていた、というわけではないが、尾崎放哉の終焉の地が小豆島であったことには意味があるとわたしはかんがえる。弘法大師信仰の島で、四国と同じく八十八か所の札所があり、現在も霊場めぐりの巡礼がたえない。
その五十八番札所の西光寺の草庵が、放哉終焉の地。
「入庵雑記」に、ときおり集まって念仏を唱えるおばあさんたちの姿が、エッセイのワンシーンとして描かれている。このなかのお一人が、放哉の看取りをしたのだろうが、まだ十分調べがついていない。
したがって、本文には書かず、註としてここに書き添える。セーフティネットなどなかった時代。こういう人たちによって、41才の放哉は、一人永遠の眠りにつくことができたのである。・・・もって瞑すべし。
※ すでにどこかに書いているが、goo-blogのタイトル「二草庵摘録」の二草庵は、種田山頭火の「一草庵」にあやかったものです。
尾崎放哉については岩波文庫で読んだだけの怠惰な読者なので、記事に誤り等がありましたらご指摘下さい。