散歩の途中ふと眼にとまって、買ってきたなかの一冊。
おもしろくて、一気に読み、かつ見入ってしまった。
巻末に1985年研究社出版刊とある。この中公文庫版は、その改訂新版で、1995年の刊行である。全体のおよそ三分の一が出口さんのエッセイ、あとはアンドリュー・ワッツさんが長年に渡って収集した当時のロンドンの図版、写真という二部構成になっている。出口さんのエッセイもおもしろいが、注目はやっぱり豊富な図版と古写真。
漱石は1900年に国費留学生として、英文学研究のため英国に渡った。
現在のように、成田空港からジャンボジェットでシベリアの空をひとっ飛びし、十数時間後にはヒースロー空港に降り立つ時代とはわけが違う。東シナ海、マラッカ海峡、インド洋、スエズ運河を通って地中海にぬけ、マルセイユに上陸。そこから陸路イギリスに向かうという大旅行である。パリでは開催中の万博を見学し、ドーバー海峡を渡って、ようやくロンドンに入るまで40日を要している。
時は今世紀初頭、1900年。大英帝国の全盛時代といわれるようになるビクトリア女王は彼がロンドンに到着後、半年ほどで崩御し、エドワード七世時代がはじまる。そういう英国の繁栄と転換の時期にロンドンで、主にクレイグ先生の個人教授を受けながら英文学の研究を2年間行うのである。
このイギリス留学がなければ、後の文豪漱石の誕生はありえなかったろうが、この時点では、遠い極東の島国からやってきた国費留学生、夏目金之助でしかない。
出口さんのエッセイでは、ハイドパーク付近の雑踏にまぎれて、友人に肩車されビクトリア女王の御大葬を見物する金之助の印象深い姿や、知人の招待をうけて、スコットランドのハイランド地方へ旅する様子が描かれている。
彼がロンドンで5回も「下宿」(主に未亡人やオールドミスが運営する賄い付きのフラット)をかわったのは、この著書ではじめて知った。出口さんは、その場所を再訪し、現在どうなっているか、当時の様子はどんなであったか跡づけてくれる。図版や古写真はことばでは伝えきれない多くの情報を持っている。1900年のロンドンは、まさに爛熟期をむかえていたのである。
コナン・ドイルがシャーロック・ホームズシリーズ第一弾「緋色の研究」を発表したのが1887年、最後の「シャーロック・ホームズの事件簿」の刊行は1926年である。
「霧とガス燈に煙るビクトリア朝ロンドン」
まさにこの時代であった。
英文学者や気むずかしい評論家が書いた論文など、われわれにはまったく関心はないが、この本は親しみやすいヴィジュアルな案内書である。二葉亭四迷や森鴎外の存在も忘れるわけにはいかぬが、近代作家でただひとりを選べといわれたら、夏目漱石といわれるほど、明治という時代とは切り離せない、重要な存在。「こころ」からはじまる最後の三部作などは、近代作家漱石の面目躍如である。
私見によれば、文学史上、漱石のこの留学体験に比肩しうるものがあるとすれば、それは大岡昇平の戦場体験ただひとつではないか。
漱石は千数百冊もの本を買い込んで、日本に持ち帰ったという。いまのように、ペーパーバックだの、文庫本などない時代で、本はある意味贅沢品であった。生活を切りつめて、これらの本を買い、下宿の部屋にこもって、研究をつづける。のちに「文学論」として結実する論文である。
一昨年、リンボウ先生こと林望さんの英国エッセイ「イギリスはおいしい」「イギリスは愉快だ」などをつづけて3,4冊読んで、イギリスはおもしろいところだな~、との認識を深めたが、この本も、イギリスに関心のある日本人には、見逃がすことのできない好著。
図版や写真をたくさん使った本は以前は豪華大型本の独壇場であったが、岩波文庫からは、
<「十八世紀パリ生活誌 タブロード・パリ(上下巻)」メルシエ著>なども上梓されている。
出口保夫 アンドリュー・ワット編著「漱石のロンドン風景」中公文庫☆☆☆☆
おもしろくて、一気に読み、かつ見入ってしまった。
巻末に1985年研究社出版刊とある。この中公文庫版は、その改訂新版で、1995年の刊行である。全体のおよそ三分の一が出口さんのエッセイ、あとはアンドリュー・ワッツさんが長年に渡って収集した当時のロンドンの図版、写真という二部構成になっている。出口さんのエッセイもおもしろいが、注目はやっぱり豊富な図版と古写真。
漱石は1900年に国費留学生として、英文学研究のため英国に渡った。
現在のように、成田空港からジャンボジェットでシベリアの空をひとっ飛びし、十数時間後にはヒースロー空港に降り立つ時代とはわけが違う。東シナ海、マラッカ海峡、インド洋、スエズ運河を通って地中海にぬけ、マルセイユに上陸。そこから陸路イギリスに向かうという大旅行である。パリでは開催中の万博を見学し、ドーバー海峡を渡って、ようやくロンドンに入るまで40日を要している。
時は今世紀初頭、1900年。大英帝国の全盛時代といわれるようになるビクトリア女王は彼がロンドンに到着後、半年ほどで崩御し、エドワード七世時代がはじまる。そういう英国の繁栄と転換の時期にロンドンで、主にクレイグ先生の個人教授を受けながら英文学の研究を2年間行うのである。
このイギリス留学がなければ、後の文豪漱石の誕生はありえなかったろうが、この時点では、遠い極東の島国からやってきた国費留学生、夏目金之助でしかない。
出口さんのエッセイでは、ハイドパーク付近の雑踏にまぎれて、友人に肩車されビクトリア女王の御大葬を見物する金之助の印象深い姿や、知人の招待をうけて、スコットランドのハイランド地方へ旅する様子が描かれている。
彼がロンドンで5回も「下宿」(主に未亡人やオールドミスが運営する賄い付きのフラット)をかわったのは、この著書ではじめて知った。出口さんは、その場所を再訪し、現在どうなっているか、当時の様子はどんなであったか跡づけてくれる。図版や古写真はことばでは伝えきれない多くの情報を持っている。1900年のロンドンは、まさに爛熟期をむかえていたのである。
コナン・ドイルがシャーロック・ホームズシリーズ第一弾「緋色の研究」を発表したのが1887年、最後の「シャーロック・ホームズの事件簿」の刊行は1926年である。
「霧とガス燈に煙るビクトリア朝ロンドン」
まさにこの時代であった。
英文学者や気むずかしい評論家が書いた論文など、われわれにはまったく関心はないが、この本は親しみやすいヴィジュアルな案内書である。二葉亭四迷や森鴎外の存在も忘れるわけにはいかぬが、近代作家でただひとりを選べといわれたら、夏目漱石といわれるほど、明治という時代とは切り離せない、重要な存在。「こころ」からはじまる最後の三部作などは、近代作家漱石の面目躍如である。
私見によれば、文学史上、漱石のこの留学体験に比肩しうるものがあるとすれば、それは大岡昇平の戦場体験ただひとつではないか。
漱石は千数百冊もの本を買い込んで、日本に持ち帰ったという。いまのように、ペーパーバックだの、文庫本などない時代で、本はある意味贅沢品であった。生活を切りつめて、これらの本を買い、下宿の部屋にこもって、研究をつづける。のちに「文学論」として結実する論文である。
一昨年、リンボウ先生こと林望さんの英国エッセイ「イギリスはおいしい」「イギリスは愉快だ」などをつづけて3,4冊読んで、イギリスはおもしろいところだな~、との認識を深めたが、この本も、イギリスに関心のある日本人には、見逃がすことのできない好著。
図版や写真をたくさん使った本は以前は豪華大型本の独壇場であったが、岩波文庫からは、
<「十八世紀パリ生活誌 タブロード・パリ(上下巻)」メルシエ著>なども上梓されている。
出口保夫 アンドリュー・ワット編著「漱石のロンドン風景」中公文庫☆☆☆☆
きっと、また \(◎o◎)/! と思うけど・・・。
漱石と樋口一葉が、お見合いする機会があったそうです。
しかし、漱石の両親が、一葉の父親の借金癖を嫌って
実現しなかったと、どこかで読みました。
また、オコシください。
iinaさん、こんにちは~♪
たびたび書き込みいただいて、ありがとうで~す。
あ、それは初耳ですね。
一葉と漱石にそんな接点が・・・?
iinaさんのblogにはかなり膨大なデータがありますが、
検索して読ませてもらいます。
池波正太郎を愛読していたころ、
江戸時代に関心を持って、本を集めたり、
台東区やら谷中やらへ出かけたりしていました。
資料館や池波記念館へも足をはこびましたよ~。
明治という時代もおもしろそう・・・。