漱石のあたらしい読み方を知ったのは、なんといっても江藤淳さんの「夏目漱石」で、いまの「決定版夏目漱石」(新潮社文庫)ではなく、たしか角川文庫から刊行されたものを読み、そのあと講談社の江藤淳著作集でもういちど読んだのではなかったか。
もうずいぶんと古くなって、カビが生えかけた、明治の遺産。
しかし、一方でそういった思いをふっきることができなかった。
要するについ数ヶ月まえまで、漱石に対しては、ほんとうの意味では親しみが持てなかったのであった。芥川龍之介と同じく、所詮は選ばれた知識人の文学ではないか、と。それが、いくらか風向きが変わってきた。
わたしは人の日記を読みたがる方ではないし、思春期の7~8年を別とすれば、自分で日記をつけたこともない人間である。読んだといえば、啄木の有名な「ローマ字日記」と荷風散人の「断腸亭日乗」だけ。
・ロンドン留学日記
・「それから」日記
・満韓旅行日記
・修善寺大患日記
・明治の終演日記
・大正三年家庭日記
・大正五年最終日記
岩波文庫で230ページ。編者の平岡敏夫さんによって、便宜上こう名づけられた日記がならんでいる。つまらなかったら、途中でやめてしまえと思って読み出したが、どうしてどうしてたいへんおもしろかった。むろん漱石に対してある程度の予備知識が必要だし、漱石の人間像に関心がなければ、断片的で不完全なメモの累積としか思えないだろうが、さいわいいま、漱石ウィルスにとりつかれている(笑)。
「往来にて向こうから背の低き妙なきたなき奴来たと思えば我姿の鏡にうつりしなり。我々の黄なるは当地に来て始めてなるほどと合点するなり」1901年1月5日
「『ホトトギス』届く。子規なお生きてあり」同年1月22日
「帰りて午飯を喫す。スープ一皿 cold meat一皿、プッジング一皿、蜜柑一つ、林檎一つ」同年3月4日
「ロンドン留学日記」の断片。こういった一語一語から、漱石のロンドンでの生活の一端が浮かび上がってくる。いわば探偵気分で想像力を働かせればいいのである。五十日もかかってたどりついた、遠い地の果てロンドンで、当時日本の最高の知性のひとり、のちの文豪がどういう経験をしたのか、じかに確認するのはスリリングで、手探りににた楽しさが味わえる。
また「修善寺大患日記」も有名で、死をくぐり抜けた漱石の心境に、「思い出す事など」「硝子戸の中」とは違った文脈のなかで、出会うことができる。あるいは「大正三年家庭日記」の異様さを見よ! 精神科の医師がおれの出番だといってよろこびそうな追跡妄想、関係妄想、被害妄想等がからみあった、暗い精神の淵がぽっかり口をあけている。漱石の神経衰弱については、妻鏡子はじめ、関係者の証言がいろいろとあるが、これはもう、夫婦喧嘩のレベルの問題ではない。こういった「暗い淵」は、よく読めば、発表された作品の中からもうかがい知ることはできるが、それにしても・・・。妻や子に見せる顔、世間一般に見せる顔、友人・弟子に見せる顔、漱石の多面性、重層性が如実にわかってくる。
全体でどのくらいの分量から抜粋したのかわからないが、漱石がその死の直前に書きとめた数行が、読む者をして立ち止まらせずにはおかないだろう。
「おいらん草。おしろい草。まだ咲かず。八月さく。
百合。カンナ(まだ咲かず)。咲いたのもあり。虎の尾(五寸ほど)。きりん草。」
死を数日後にひかえた漱石が、庭の草花を見ているのだ。「末期の眼」を修善寺大患のあとにも体験しているが、それはすぐに生き返った喜びへと移行していく。だから、これこそ、明治の文豪・漱石の末期の眼にうつった風景である。「まだ咲かず」「まだ咲かず」と繰り返している。わたしは深い感動につつまれた・・・。
平岡敏夫編「漱石日記」岩波文庫>☆☆☆☆
もうずいぶんと古くなって、カビが生えかけた、明治の遺産。
しかし、一方でそういった思いをふっきることができなかった。
要するについ数ヶ月まえまで、漱石に対しては、ほんとうの意味では親しみが持てなかったのであった。芥川龍之介と同じく、所詮は選ばれた知識人の文学ではないか、と。それが、いくらか風向きが変わってきた。
わたしは人の日記を読みたがる方ではないし、思春期の7~8年を別とすれば、自分で日記をつけたこともない人間である。読んだといえば、啄木の有名な「ローマ字日記」と荷風散人の「断腸亭日乗」だけ。
・ロンドン留学日記
・「それから」日記
・満韓旅行日記
・修善寺大患日記
・明治の終演日記
・大正三年家庭日記
・大正五年最終日記
岩波文庫で230ページ。編者の平岡敏夫さんによって、便宜上こう名づけられた日記がならんでいる。つまらなかったら、途中でやめてしまえと思って読み出したが、どうしてどうしてたいへんおもしろかった。むろん漱石に対してある程度の予備知識が必要だし、漱石の人間像に関心がなければ、断片的で不完全なメモの累積としか思えないだろうが、さいわいいま、漱石ウィルスにとりつかれている(笑)。
「往来にて向こうから背の低き妙なきたなき奴来たと思えば我姿の鏡にうつりしなり。我々の黄なるは当地に来て始めてなるほどと合点するなり」1901年1月5日
「『ホトトギス』届く。子規なお生きてあり」同年1月22日
「帰りて午飯を喫す。スープ一皿 cold meat一皿、プッジング一皿、蜜柑一つ、林檎一つ」同年3月4日
「ロンドン留学日記」の断片。こういった一語一語から、漱石のロンドンでの生活の一端が浮かび上がってくる。いわば探偵気分で想像力を働かせればいいのである。五十日もかかってたどりついた、遠い地の果てロンドンで、当時日本の最高の知性のひとり、のちの文豪がどういう経験をしたのか、じかに確認するのはスリリングで、手探りににた楽しさが味わえる。
また「修善寺大患日記」も有名で、死をくぐり抜けた漱石の心境に、「思い出す事など」「硝子戸の中」とは違った文脈のなかで、出会うことができる。あるいは「大正三年家庭日記」の異様さを見よ! 精神科の医師がおれの出番だといってよろこびそうな追跡妄想、関係妄想、被害妄想等がからみあった、暗い精神の淵がぽっかり口をあけている。漱石の神経衰弱については、妻鏡子はじめ、関係者の証言がいろいろとあるが、これはもう、夫婦喧嘩のレベルの問題ではない。こういった「暗い淵」は、よく読めば、発表された作品の中からもうかがい知ることはできるが、それにしても・・・。妻や子に見せる顔、世間一般に見せる顔、友人・弟子に見せる顔、漱石の多面性、重層性が如実にわかってくる。
全体でどのくらいの分量から抜粋したのかわからないが、漱石がその死の直前に書きとめた数行が、読む者をして立ち止まらせずにはおかないだろう。
「おいらん草。おしろい草。まだ咲かず。八月さく。
百合。カンナ(まだ咲かず)。咲いたのもあり。虎の尾(五寸ほど)。きりん草。」
死を数日後にひかえた漱石が、庭の草花を見ているのだ。「末期の眼」を修善寺大患のあとにも体験しているが、それはすぐに生き返った喜びへと移行していく。だから、これこそ、明治の文豪・漱石の末期の眼にうつった風景である。「まだ咲かず」「まだ咲かず」と繰り返している。わたしは深い感動につつまれた・・・。
平岡敏夫編「漱石日記」岩波文庫>☆☆☆☆