見栄をはっても仕方ないから正直に書こう。
漱石について、である。
本人は夏目漱石を大いに尊敬し、愛読者のひとりのつもりでいるし、そんなことをだれかに話したり、どこかに書いたりしているけれど、じつはたいして読んではいないのである。
新潮文庫の目録でいうと、「虞美人草」「彼岸過迄」「二百十日・野分」は、いっぺんも読んだことはないし、読みたいと思ったことも、ほとんどない。「三四郎」「それから」「門」の三部作だって、学生時代に一度読んだきりだから、あらすじを思い出そうとしても、おいそれとはいかない。「猫」「明暗」も同じ。つまらない小説だと思いつつ、我慢して、なんとかおしまいまで読んだ記憶がある。いや、おもしろいところもあるのだが、それはほんのわずか。忍耐力の限界をためされているのではないか・・・と考えなくもない。
「こころ」「道草」は、学生時代に一度読み、それから、江藤淳さんの漱石論や評伝を読んだあとで、もう一度じっくりと取り組んで、そのころ仲のよかった友人と、作品について討論した覚えがある。
わたしが好きなのは、じつは「坊っちゃん」を第一とする。映画化作品、テレビ化作品も観ているから、あらすじもしっかり頭に入っている。いつか、坊ちゃん=漱石ではなく、むしろ赤シャツこそ、当時松山の中学に赴任した、夏目金之助その人である、ということを知って、「目からウロコ」の経験をしている。3回か、4回は読み返しているし、チャンスがあれば、また読み返してみたい一冊。
それとならんでわたしが愛してやまないのが、「文鳥」「夢十夜」。
新潮文庫には、ほかに「永日小品」「思い出すことなど」「ケーベル先生」「変な音」「手紙」が収録されていて、そのどれもが、つきせぬおもしろさをもっている。
『 昔《むか》し美しい女を知っていた。この女が机に凭《もた》れて何か考えているところを、後《うしろ》から、そっと行って、紫の帯上《おびあ》げの房《ふさ》になった先を、長く垂らして、頸筋《くびすじ》の細いあたりを、上から撫《な》で廻《まわ》したら、女はものう気《げ》に後を向いた。その時女の眉《まゆ》は心持八の字に寄っていた。それで眼尻と口元には笑が萌《きざ》していた。同時に恰好《かっこう》の好い頸を肩まですくめていた。文鳥が自分を見た時、自分はふとこの女の事を思い出した。この女は今嫁に行った。自分が紫の帯上でいたずらをしたのは縁談のきまった二三日|後《あと》である。』(引用は青空文庫より)
文鳥と、こころを通わせたことのある女性がアナロジーとして語られている有名なくだりである。文庫本にして20ページ(現行本)のボリュームなのに、「過去の女」は、なんと4回も登場する。漱石は明治の小説家で、いまでいう意味の「恋愛小説」は一冊も書いてはいないが、もし書いたとすれば、有島武郎の「或る女」に匹敵するほどの小説を書いたろう。ドキッとするほど、色っぽく、哀切に描かれた「文鳥」の女は、批評家や漱石研究家のあいだで、モデル問題が熱心にとりざたされている。漱石が残した私小説(こう断定していいだろう)の傑作で、いのちのあわれさ、弱く小さな生き物への労りの情が、読者の胸を打たずにはおかない。
また、「夢十夜」は取り上げるのが気恥ずかしく、ためらわれるほど、有名になってしまった。「第一夜」(百合の女)「第三夜」(百年前に人を殺した)「第六夜」(明治の木)「第七夜」(海への落下)などはとくに象徴的な完成度が高く、「道草」とは別な意味で、幻想・怪奇にも通じるロマン主義者漱石の到達点をしめしている。
「永日小品」にも、短編小説としての構想をそなえた秀作がまじっている。
いうまでもなく「こころ」「道草」はひとり漱石ばかりでなく、近代文学を代表する名編なのだが、読み応えがありすぎ、読み手の気迫が高まっているときでないと、そう気軽には読み返せない。
それに較べて、この一冊に収められた「小品」(あるときはエッセイ、あるときは短編小説、あるときはコラム)は、手許におき、少しの時間で読むことができるため、わたしにはいつのまにか「なくてはならない一冊」となってしまった。どの一編も、生と死をめぐる深い洞察と、憧れをかくし持っている。漱石がその決して長いとはいえない生涯のなかで味わったヒューマニティ。そのテイスティーは、こちらの年齢にあわせるかのように、変化していく。
49歳で死んだ漱石を、60歳を超えたわたしが、読むことのスリル・・・。
評価:★★★★★
漱石について、である。
本人は夏目漱石を大いに尊敬し、愛読者のひとりのつもりでいるし、そんなことをだれかに話したり、どこかに書いたりしているけれど、じつはたいして読んではいないのである。
新潮文庫の目録でいうと、「虞美人草」「彼岸過迄」「二百十日・野分」は、いっぺんも読んだことはないし、読みたいと思ったことも、ほとんどない。「三四郎」「それから」「門」の三部作だって、学生時代に一度読んだきりだから、あらすじを思い出そうとしても、おいそれとはいかない。「猫」「明暗」も同じ。つまらない小説だと思いつつ、我慢して、なんとかおしまいまで読んだ記憶がある。いや、おもしろいところもあるのだが、それはほんのわずか。忍耐力の限界をためされているのではないか・・・と考えなくもない。
「こころ」「道草」は、学生時代に一度読み、それから、江藤淳さんの漱石論や評伝を読んだあとで、もう一度じっくりと取り組んで、そのころ仲のよかった友人と、作品について討論した覚えがある。
わたしが好きなのは、じつは「坊っちゃん」を第一とする。映画化作品、テレビ化作品も観ているから、あらすじもしっかり頭に入っている。いつか、坊ちゃん=漱石ではなく、むしろ赤シャツこそ、当時松山の中学に赴任した、夏目金之助その人である、ということを知って、「目からウロコ」の経験をしている。3回か、4回は読み返しているし、チャンスがあれば、また読み返してみたい一冊。
それとならんでわたしが愛してやまないのが、「文鳥」「夢十夜」。
新潮文庫には、ほかに「永日小品」「思い出すことなど」「ケーベル先生」「変な音」「手紙」が収録されていて、そのどれもが、つきせぬおもしろさをもっている。
『 昔《むか》し美しい女を知っていた。この女が机に凭《もた》れて何か考えているところを、後《うしろ》から、そっと行って、紫の帯上《おびあ》げの房《ふさ》になった先を、長く垂らして、頸筋《くびすじ》の細いあたりを、上から撫《な》で廻《まわ》したら、女はものう気《げ》に後を向いた。その時女の眉《まゆ》は心持八の字に寄っていた。それで眼尻と口元には笑が萌《きざ》していた。同時に恰好《かっこう》の好い頸を肩まですくめていた。文鳥が自分を見た時、自分はふとこの女の事を思い出した。この女は今嫁に行った。自分が紫の帯上でいたずらをしたのは縁談のきまった二三日|後《あと》である。』(引用は青空文庫より)
文鳥と、こころを通わせたことのある女性がアナロジーとして語られている有名なくだりである。文庫本にして20ページ(現行本)のボリュームなのに、「過去の女」は、なんと4回も登場する。漱石は明治の小説家で、いまでいう意味の「恋愛小説」は一冊も書いてはいないが、もし書いたとすれば、有島武郎の「或る女」に匹敵するほどの小説を書いたろう。ドキッとするほど、色っぽく、哀切に描かれた「文鳥」の女は、批評家や漱石研究家のあいだで、モデル問題が熱心にとりざたされている。漱石が残した私小説(こう断定していいだろう)の傑作で、いのちのあわれさ、弱く小さな生き物への労りの情が、読者の胸を打たずにはおかない。
また、「夢十夜」は取り上げるのが気恥ずかしく、ためらわれるほど、有名になってしまった。「第一夜」(百合の女)「第三夜」(百年前に人を殺した)「第六夜」(明治の木)「第七夜」(海への落下)などはとくに象徴的な完成度が高く、「道草」とは別な意味で、幻想・怪奇にも通じるロマン主義者漱石の到達点をしめしている。
「永日小品」にも、短編小説としての構想をそなえた秀作がまじっている。
いうまでもなく「こころ」「道草」はひとり漱石ばかりでなく、近代文学を代表する名編なのだが、読み応えがありすぎ、読み手の気迫が高まっているときでないと、そう気軽には読み返せない。
それに較べて、この一冊に収められた「小品」(あるときはエッセイ、あるときは短編小説、あるときはコラム)は、手許におき、少しの時間で読むことができるため、わたしにはいつのまにか「なくてはならない一冊」となってしまった。どの一編も、生と死をめぐる深い洞察と、憧れをかくし持っている。漱石がその決して長いとはいえない生涯のなかで味わったヒューマニティ。そのテイスティーは、こちらの年齢にあわせるかのように、変化していく。
49歳で死んだ漱石を、60歳を超えたわたしが、読むことのスリル・・・。
評価:★★★★★