夏枯れのヒマにまかせ、木陰に駐車したクルマの中で、iPhoneを弄んでいた。
このところ、クラシック音楽づいていて、昨夜、紀伊國屋でクーベリックがボストン響を指揮しスタジオ録音した「わが祖国」を手に入れ、夕食後これを聴いてから眠りについた。
90年にやったプラハの春でのライヴ盤にしようか、これにしようかとずいぶん迷った。クーベリックの「わが祖国」は、これまで6種ばかりの演奏がリリースされていて、初心者は選択がむずかしいところ・・・。
批評家の評価は、ボストン響とやった1971年盤が、圧倒的に高いようなので、まあ素直にそれをしたがったというわけである(笑)。
いままでの愛聴盤は、ノイマン指揮のチェコ・フィル。
これがスメタナの「わが祖国」だと考えていると、クーベリックとの音づくりに違いがあって、はじめはいささか戸惑う。
なぜ、いま、クーベリックなのかというと、まったく思いがけず、マーラーの「交響曲第5番」に深くこころをえぐられたからで、うーん、クーベリックって、どういう指揮者なの?
・・・と、好奇心がむくむく頭をもたげたからである。
iPhoneをいじくりまわしながら、YouTubeを閲覧しまっくっていたら、こんな動画を発見した。
■プラハの春 クベリックの帰郷
http://www.youtube.com/watch?v=uCtn-8wP5Ws
42年ぶり、チェコ・フィルを指揮するにいたったクーベリックさん(^^)/
(なんだ・・・クベリックとも表記するのかな)
わたしは感動のあまり、いささか目頭が熱くなった(~o~)
こうして聴いてみると、この楽曲は、「モルダウ」をのぞき、古典派の音楽と比べて、曲想に深い陰翳が感じられず、しばらくたつと印象がいかにも散漫となってしまうのは残念だけれど、「モルダウ」に関しては、ほんとうに美しい、稀有な音楽として、抵抗しがたく、世界中に多くのファンをかかえている理由がよくわかる。
詩人、石原吉郎さんの「サンチョ・パンサの帰郷」と、
西洋クラシック音楽の指揮者「クーベリックの帰郷」。
わたしがさっき思い出したこのふたつの“帰郷”のあいだには、眼がくらむばかりの落差が存在する。
石原さんは、「シベリア帰り」の烙印を押され、身内にすら差別されねばならないような過酷な戦後を生きて、すぐれた詩の数々を残し、最後には力つきて自死を選ぶ。
それと比較し、クーベリックの“帰郷”を待っていたのは、功成り名を遂げた人の名誉・栄光である。
それぞれの人に、それぞれの祖国がある。
祖国をめぐる「大いなる物語」は、それを見るもののこころを熱くし、“グローバル化”の虚妄とオプティミズムをあぶり出すといっていいだろう。
スメタナのこの音楽に耳をすましていると、ここではないどこか・・・はるかなる土地と時代へのあこがれが、いかにもロマン派ふうの、抒情的でロマネスク性豊かな衣装をまとってよみがえってくる。
“はるかなるもの”への、永遠の、あ・こ・が・れ。