モノクロームフォトを集めた「モノクローム気分」というアルバムがスタートした。
なにか特別なコンセプトがあってはじめたわけではなく、デジタルの「モノクローム」モードで撮ったというだけのアルバムなのだけれど、わたしはぼんやりした予感めいたものを感じてはいる。
暗室作業から生まれる写真が写真だと、ずいぶん長いあいだ、そう考えられていた。
それがプロの写真家の仕事だと。本人が仕上げた「オリジナルプリント」は、人気のあるフォトグラファーのものは、何万円、何十万円という価格で、取引されたのだ。
いまでも「モノクロこそ、本当の写真」
そんな風潮が残っているかも知れない。
いわゆる古典的な“名作”なるものは、すべてモノクロによる写真である。
そういったメインストリームとでもいうべき写真群を横目でちらちら眺めながら、
わたしはj-pegで、コンテンポラリーフォトを撮る^w^
コンテンポラリーフォトとは、なにげない日常を、なにげなく撮った写真のこと。
トップの写真をよく見て欲しい。
これは信号待ち。
真っ白い髪をした猫背のおじいさんが、横断歩道をゆっくりわたりはじめる。
そこに自転車にまたがった若い男女。
わたしは老若の対比だけしか、意識していなかった。
ところがPCのディスプレイでこの一枚を拡げてみたら、左端のガラス戸に、このおじいさんの後姿がちゃんと映り込んでいるではないか!
ささやかな小品とはいえ、偶然の女神が微笑んだ一瞬( ゜∀゜)
モノクロは、カラー写真から色を抜き去ったもの。
しかし、単にそれだけではないだろう。
白から黒へ、なだらかなグラデーションによって作りだされる世界。
わたしは粒子を荒らし、あるいは高コントラストにして誇張した視覚的インパクトを手に入れたいのではなく、いまは、むしろ豊富なグラデを愉しみたいという気分に傾いている。
そこにあるものが、そこにあるように・・・そんなふうに、身の回りを凝視する。
これは前橋市にある古刹龍海院の一隅で見かけた木の切り株。
ここは150年に渡って前橋藩主をつとめた酒井氏の菩提寺であるが、この杉の切り株は長期間風雨にさらされ、まるで恐竜の骨のように白くなっている。
こういう被写体は、モノクロがじつによく似合う。
最後四枚目はこのショットをあげておこう。
これは信号待ちで、運転席から撮った二枚のうち、一枚。
昔はこういった「煙突のある風景」はめずらしくもなんともなかった。
この煙突の下には、“町の銭湯”がある。
煉瓦づくりの煙突、先のほうが傷み、ステンレスか銅板を巻いたものらしい(わたしの想像)。
分厚い雨雲がのしかかるように拡がって、印象的な光景を作りだした。
ややグルーミーな、こういったモノクローム写真に、わたしの心が、すうっと寄り添う。
好奇心ではない。
確認のための作業のように思えるが、そういい切ってしまうと、また少し「違うな」と感じる。
写真は見るものだが、同時に“感じる”ものでもある。
なにをどう感じたのか、それをことばにはできそうにない。
だから・・・写真を撮る。
なにか特別なコンセプトがあってはじめたわけではなく、デジタルの「モノクローム」モードで撮ったというだけのアルバムなのだけれど、わたしはぼんやりした予感めいたものを感じてはいる。
暗室作業から生まれる写真が写真だと、ずいぶん長いあいだ、そう考えられていた。
それがプロの写真家の仕事だと。本人が仕上げた「オリジナルプリント」は、人気のあるフォトグラファーのものは、何万円、何十万円という価格で、取引されたのだ。
いまでも「モノクロこそ、本当の写真」
そんな風潮が残っているかも知れない。
いわゆる古典的な“名作”なるものは、すべてモノクロによる写真である。
そういったメインストリームとでもいうべき写真群を横目でちらちら眺めながら、
わたしはj-pegで、コンテンポラリーフォトを撮る^w^
コンテンポラリーフォトとは、なにげない日常を、なにげなく撮った写真のこと。
トップの写真をよく見て欲しい。
これは信号待ち。
真っ白い髪をした猫背のおじいさんが、横断歩道をゆっくりわたりはじめる。
そこに自転車にまたがった若い男女。
わたしは老若の対比だけしか、意識していなかった。
ところがPCのディスプレイでこの一枚を拡げてみたら、左端のガラス戸に、このおじいさんの後姿がちゃんと映り込んでいるではないか!
ささやかな小品とはいえ、偶然の女神が微笑んだ一瞬( ゜∀゜)
モノクロは、カラー写真から色を抜き去ったもの。
しかし、単にそれだけではないだろう。
白から黒へ、なだらかなグラデーションによって作りだされる世界。
わたしは粒子を荒らし、あるいは高コントラストにして誇張した視覚的インパクトを手に入れたいのではなく、いまは、むしろ豊富なグラデを愉しみたいという気分に傾いている。
そこにあるものが、そこにあるように・・・そんなふうに、身の回りを凝視する。
これは前橋市にある古刹龍海院の一隅で見かけた木の切り株。
ここは150年に渡って前橋藩主をつとめた酒井氏の菩提寺であるが、この杉の切り株は長期間風雨にさらされ、まるで恐竜の骨のように白くなっている。
こういう被写体は、モノクロがじつによく似合う。
最後四枚目はこのショットをあげておこう。
これは信号待ちで、運転席から撮った二枚のうち、一枚。
昔はこういった「煙突のある風景」はめずらしくもなんともなかった。
この煙突の下には、“町の銭湯”がある。
煉瓦づくりの煙突、先のほうが傷み、ステンレスか銅板を巻いたものらしい(わたしの想像)。
分厚い雨雲がのしかかるように拡がって、印象的な光景を作りだした。
ややグルーミーな、こういったモノクローム写真に、わたしの心が、すうっと寄り添う。
好奇心ではない。
確認のための作業のように思えるが、そういい切ってしまうと、また少し「違うな」と感じる。
写真は見るものだが、同時に“感じる”ものでもある。
なにをどう感じたのか、それをことばにはできそうにない。
だから・・・写真を撮る。