(現在の長門峡)
最近はじめて読んだり、読み返したりした詩を数編ピックアップし、少し感想を書いておこう。
詩論を展開するような力はもとよりないし、そのつもりもない。
写真の場合も、評論家であるより実作者、フォトグラファーでありたいとかんがえている。
その方が愉しいし、稔り豊かな時間が過ごせる・・・たぶん、そういうメンタリティーなのだ。
さて、第1回は中原中也、第2回は吉野弘、第3回は上手宰(かみておさむ)さんを取り上げる予定。
まずは中原中也。
角川書店の全集の片割れを安く買うことができたので、そのとき、何編かを読み返した。
中原の詩の中では、なんといっても「朝の歌」が好きで、これは暗唱できるほど。
「二草庵摘録」で、すでに「朝の歌」をめぐる思いは書いたことがある。
■「朝の歌」とその周辺 ~中原中也の詩に魅せられたころ
http://blog.goo.ne.jp/nikonhp/e/4a175da1100df21409fd2ef1c3265092
しかし、今回は「冬の長門峡」を取り上げよう。
* * *
「冬の長門峡」中原中也
長門峡(ちょうもんきょう)に、水は流れてありにけり。
寒い寒い日なりき。
われは料亭にありぬ。
酒酌(く)みてありぬ。
われのほか別に、
客とてもなかりけり。
水は、恰(あたか)も魂あるものの如く、
流れ流れてありにけり。
やがて密柑(みかん)の如き夕陽、
欄干にこぼれたり。
ああ! ――そのような時もありき、
寒い寒い 日なりき。
(作品全編「山羊の歌」所収)
中原は正真正銘の詩人である。詩を書くこと以外、ほとんどなにもできなかった。
そういう悲哀が、彼の生涯を染め上げている。その事実を、つねに頭に置いて、わたしは彼の詩を読む。
これが彼の代表作というのではなく、ほかにすぐれた詩がいくつもある。
なぜこれに惹かれるのか、その理由をズバリと書くのはむずかしい。
一筆書きふうの単純な構造をもっていて、詩の最大の武器である《喩》も《密柑(みかん)の如き夕陽》があるだけ。中国の詩人たちはじつによく酒(または飲酒)の詩をつくったが、日本人の酒の詩は少ない。そういう意味でも、印象に残る一編。
《ああ! ――そのような時もありき、
寒い寒い 日なりき。》
冬の料亭の窓から、長門峡を眺め、独り酒を飲んでいるという、それだけの詩なのだが、読み終わってみると、このことばに深く頷いているわたしがいる。《そのような時もありき》というからにはすでに過去の場景なのである。
こういう作品から響いてくる中原の悲傷は無垢なるものの調べをつたえている。
無垢なるものの調べ・・・それこそ、彼の詩の真骨頂ではないか?
不器用で、生活力がなく、子どもがそのまま大人になったような人物。
とはいえ、中也は現在でも多くのファンを抱えている人気詩人。
立ち位置としては、小説家では太宰治と似ている・・・とわたしはかんがえたくなる。太宰のような破滅型ではないが、結果として、その生涯は濃い憂愁の霧にとざされて、傷ついた若き人々が、なぐさめと共感を求め、つぎからつぎやってくる。
30歳の若さで亡くなったから、夭折の詩人というくくりがなされている。わたしもそのことに、異論はない。
だけど、夭折の詩人の中にあって、中也には北村透谷とならんで、悲劇的なにおいが濃くまとわりついているのはなぜだろう。
中也の短い生涯のうち、富永太郎、小林秀雄、大岡昇平、河上徹太郎ら、文学界の新星となる人物たちと親交を結べたことは、まことに幸運であったというほかない。
彼の詩の核に「うた」があることは、多くの人によって明らかにされている。
音楽団体「スルヤ」の諸井三郎は中也の生前、すでに曲をつけて歌っているということからかんがえて、早い時期からその詩の音楽性には注目が集まっていたのだろう。詩人本人の強い希望にうながされた結果であったとしても。
現代に生きることができたら、作詞家として名声を築いたかも知れない・・・と思わせる才能が、彼の作品の何編かをたしかに輝かせている。
この「冬の長門峡」には、明らかに彼の「泣き節」が聞かれる。それはもうどうしようもないことなのである。悔恨と過ぎ去った時代への哀惜。
そういった主旋律が、私小説的な味わいをも付与していると、わたしには思われる。
単純で奥行感に欠ける平明な詩といえばいえるだろう。
だが、少ないことばの中に、中也は宿命の色をおびた悲しみを封じ込めることに成功している。
時をへだてて、それが一読者たるわたしの心を抉る。そうして忘れることができない一編となった。
※ 「文学散歩」
http://blowinthewind.net/bungaku/chuya/chuya.htm
写真はこちらからお借りしています、ありがとうございました。
最近はじめて読んだり、読み返したりした詩を数編ピックアップし、少し感想を書いておこう。
詩論を展開するような力はもとよりないし、そのつもりもない。
写真の場合も、評論家であるより実作者、フォトグラファーでありたいとかんがえている。
その方が愉しいし、稔り豊かな時間が過ごせる・・・たぶん、そういうメンタリティーなのだ。
さて、第1回は中原中也、第2回は吉野弘、第3回は上手宰(かみておさむ)さんを取り上げる予定。
まずは中原中也。
角川書店の全集の片割れを安く買うことができたので、そのとき、何編かを読み返した。
中原の詩の中では、なんといっても「朝の歌」が好きで、これは暗唱できるほど。
「二草庵摘録」で、すでに「朝の歌」をめぐる思いは書いたことがある。
■「朝の歌」とその周辺 ~中原中也の詩に魅せられたころ
http://blog.goo.ne.jp/nikonhp/e/4a175da1100df21409fd2ef1c3265092
しかし、今回は「冬の長門峡」を取り上げよう。
* * *
「冬の長門峡」中原中也
長門峡(ちょうもんきょう)に、水は流れてありにけり。
寒い寒い日なりき。
われは料亭にありぬ。
酒酌(く)みてありぬ。
われのほか別に、
客とてもなかりけり。
水は、恰(あたか)も魂あるものの如く、
流れ流れてありにけり。
やがて密柑(みかん)の如き夕陽、
欄干にこぼれたり。
ああ! ――そのような時もありき、
寒い寒い 日なりき。
(作品全編「山羊の歌」所収)
中原は正真正銘の詩人である。詩を書くこと以外、ほとんどなにもできなかった。
そういう悲哀が、彼の生涯を染め上げている。その事実を、つねに頭に置いて、わたしは彼の詩を読む。
これが彼の代表作というのではなく、ほかにすぐれた詩がいくつもある。
なぜこれに惹かれるのか、その理由をズバリと書くのはむずかしい。
一筆書きふうの単純な構造をもっていて、詩の最大の武器である《喩》も《密柑(みかん)の如き夕陽》があるだけ。中国の詩人たちはじつによく酒(または飲酒)の詩をつくったが、日本人の酒の詩は少ない。そういう意味でも、印象に残る一編。
《ああ! ――そのような時もありき、
寒い寒い 日なりき。》
冬の料亭の窓から、長門峡を眺め、独り酒を飲んでいるという、それだけの詩なのだが、読み終わってみると、このことばに深く頷いているわたしがいる。《そのような時もありき》というからにはすでに過去の場景なのである。
こういう作品から響いてくる中原の悲傷は無垢なるものの調べをつたえている。
無垢なるものの調べ・・・それこそ、彼の詩の真骨頂ではないか?
不器用で、生活力がなく、子どもがそのまま大人になったような人物。
とはいえ、中也は現在でも多くのファンを抱えている人気詩人。
立ち位置としては、小説家では太宰治と似ている・・・とわたしはかんがえたくなる。太宰のような破滅型ではないが、結果として、その生涯は濃い憂愁の霧にとざされて、傷ついた若き人々が、なぐさめと共感を求め、つぎからつぎやってくる。
30歳の若さで亡くなったから、夭折の詩人というくくりがなされている。わたしもそのことに、異論はない。
だけど、夭折の詩人の中にあって、中也には北村透谷とならんで、悲劇的なにおいが濃くまとわりついているのはなぜだろう。
中也の短い生涯のうち、富永太郎、小林秀雄、大岡昇平、河上徹太郎ら、文学界の新星となる人物たちと親交を結べたことは、まことに幸運であったというほかない。
彼の詩の核に「うた」があることは、多くの人によって明らかにされている。
音楽団体「スルヤ」の諸井三郎は中也の生前、すでに曲をつけて歌っているということからかんがえて、早い時期からその詩の音楽性には注目が集まっていたのだろう。詩人本人の強い希望にうながされた結果であったとしても。
現代に生きることができたら、作詞家として名声を築いたかも知れない・・・と思わせる才能が、彼の作品の何編かをたしかに輝かせている。
この「冬の長門峡」には、明らかに彼の「泣き節」が聞かれる。それはもうどうしようもないことなのである。悔恨と過ぎ去った時代への哀惜。
そういった主旋律が、私小説的な味わいをも付与していると、わたしには思われる。
単純で奥行感に欠ける平明な詩といえばいえるだろう。
だが、少ないことばの中に、中也は宿命の色をおびた悲しみを封じ込めることに成功している。
時をへだてて、それが一読者たるわたしの心を抉る。そうして忘れることができない一編となった。
※ 「文学散歩」
http://blowinthewind.net/bungaku/chuya/chuya.htm
写真はこちらからお借りしています、ありがとうございました。