二草庵摘録

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「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する

2008年01月03日 | ドストエフスキー
 「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」という長いタイトルは、どうもしっくりこないが、内容を端的にあらわしている。
 30年ぶりの新訳という亀山郁夫さんの「カラマーゾフの兄弟」(光文社文庫5分冊)が、なんと昨年(2007年)55万部を突破した。これはこの種の本としては驚くべき数字で、マスコミで話題となった。どういった年代のどういった読者の支持をあつめたのか、そういった、いささかミハー的な興味によって読んだのである。
 
・わたし(ドストエフスキー)は、父の死に責任がある。父ミハイル・ドストエフスキーは農奴にによって殺害されたが、農奴に殺害をそそのかしたのは、このわたしである。「神がなければすべては許される」という独自の哲学のもとに、父フィヨードルの殺害をそそのかすイワン・カラマーゾフの物語こそが「第一の物語」の自伝層におけるもっとも根元的なドラマだった・・・
・イワンが描きあげた大審問官は、究極において、神とキリストの否定、すなわち父殺しにたどりついたキリスト者である。

 ふ~む、しかし、こういった指摘はさして目新しくはないな~。すでにフロイトがあの有名な論文「ドストエフスキーと父親殺し」のなかで示唆しているのを単にいい換えたにすぎないではないか・・・。
 
 「カラマーゾフの兄弟」には、続編があり「偉大なる罪人の生涯」の第一の物語にすぎないらしいという問題は、はやくから研究者によってとりざたされていた。作者自身が作品の序文で明言しているし、この一編においては、本来主人公であるはずのアリョーシャが、狂言まわし的な脇役にとどまっているから、ドストエフスキーが生きながらえていたら、アリョーシャを真の主人公とするいわば第二のカラマーゾフが書かれていたのは疑いのないところである。
 亀山先生は、翻訳を通じて、19世紀におけるもっとも偉大な小説のひとつ「カラマーゾフの兄弟」を徹底して読み込むという作業をしてこられた。そして、続編を「第二の物語」と名づけ、その物語がどういった小説になったかを想像している。
「カラマーゾフの兄弟」はうっかり読んでいると、時間的な前後関係に混乱をきたしてしまうような複雑な物語である。「読み解く」という作業をへなければ、その核心部分がよくわからない、と読者のだれもが感じるであろうような、そういう作品である。
 亀山先生は、この作品を重層的に形成するエレメントを「「象徴層」「自伝層」「物語層」の三つにまとめ、その相互間にはたらく力学を具体的に考察していて、そういったあたりから、フロイトの論文を大胆に踏み越えていく。
 わたしにとっていちばん衝撃的だと思われたのは、たとえば、つぎのような指摘である。

・このコーリャの言葉は、ほかでもない、十九世紀の前半を代表するベリンスキーがゴーゴリに宛てて書いた手紙の受け売りなのである。そればかりか、そもそもこの手紙は、ドストエフスキーがペトラシェフスキーの会で朗読し、皇帝権力による逮捕と死刑宣告のきっかけとなった手紙ではないか。

 このほかいくつかの仮説を積みあげながら、第二の物語は、アリョーシャを盟主と仰ぐコーリャらの若者グループが引き起こす「皇帝暗殺事件」が、物語の中心をなすと推理している。「空想」とか「妄想」とかいって謙遜してはいるが、ここまで大胆に踏み込んでいるとは・・・。深読みにすぎる、とか、拡大解釈にすぎぬとか、そういった批判は甘んじてうけようともいっておられる。まあ、一種の推理ゲームではあるのだろうが、これによって、謎の多い名作がまたいっそうおもしろく読めるのは確実。21世紀にはいって、ニューヨークの911事件とその後の世界の動きを見てきたわれわれには、テロルや信仰の問題は、古くてあたらしい、まことにアクチュアルかつスリリングな現実を突きつけてくる。これが、本書の書かれた動機のいちばん根元にあると、わたしは感じた。

 亀山郁夫「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」光文社新書>☆☆☆★

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