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二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

日本と日本人のエネルギー問題について考える <1>

2014年03月09日 | Blog & Photo
<1>
思いがけず長くなってしまったので、2回に分けて掲載させていただく(*・ ・*)


<はじめに>
反原発か、再稼働か、このところいろいろなところで、大きな論議を呼んでいる。
日本人の2/3以上が原発即時全面停止に賛成しているようだから、このままだと、わが国の電源のおよそ30%が失われたことになる。
わたしが考えているのは、原発を全面停止したことによって予測される、つぎの危機を、反原発を声高に叫ぶ人々の何パーセントが考慮しているか、ということである。
問題の核心は、原発推進、即時停止の二択ではなく、電力依存をさらに深める日本の今後のエネルギーをどうやって安定的に、長期にわたって確保すべきかということだろう。
はじめに結論めいたことを書いておくと、わたしの意見は、段階的な脱原発である。
日本海側にある原発のうち、比較的安全性の高い原発をいくつか再稼働させ、東京・横浜、名古屋周辺、大阪・神戸といった大都市の電源を確保したうえで、10年くらいを過渡期ととらえ、より安全性の高い電源への転換をめざしていったらどうか・・・ということである。
極端から極端へ突っ走ることが好きな日本人。
なにか大きな予測のむずかしい出来事をきっかけに、国民のすべてが黒から白へてのひらを返していく。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
ここに、「世界の原子力発電所一覧」がある。日本だけが原発の火を消したとしても、世界中の原発の火が消えるのは、いつのことだろう。

結果として不徹底かつ中途半端な意見となってしまったが、危機管理とは、本来プラグマティックなものだろうと、わたしはおもう。二重三重に保険をかけて、いざというときにそなえる。
50年に一度という大きな政策転換なので、反対派の口を封ずるような行動や発言は慎んだほうがいい。

中にはこういって、わたしを批判するひともいるだろうが、それは甘んじてお受けしよう。
「あんたは直接の利害関係人ではない。だからそんな悠長な“大局観”が語れるのだ」
たしかにそれは一理ある批判である。
人は立場、立場で判断基準がことなる。そういった違いを調整するのは、わたしの役割ではないし、すべての国民が満足するような施策はとりようがない。
これらはあくまでわたしの個人的な意見であり、他人に押し付けようとはおもっていない。
かなり長くなってしまったが、よろしかったら、しばしおつきあい下さいませ(;´-`)


1.リスク分散
リスクマネジメントの観点からは、電源は分散させておくのが常識だろう。
火力N%、原子力N%、水力N%、自然エネルギーN%、その他エネルギーN%・・・というふうに。
したがって、原発0とした場合、不測の事態が発生したとき、電力ダウンの危険度が高まる。
やがては自然エネルギーの電源にしめる割合はあがってくるだろうが、未解決の問題を多くかかえ、時間がかかる。化石燃料は、中国やインドの経済発展によって、急速に消費され、今後数十年以内に枯渇する恐れがある。しかも、産油国の動向によって、日本経済、日本人の「快適生活」ののどもとを抑えられてしまう。

2.国力の低下
何十年か昔にもどって、貧乏暮らしをすればいいではないか? という人がいる。
たしかにわたしも、パニックが起こった直後しばらくは、核燃料と放射能の恐ろしさに震え上がっていたから、そういう考えに傾いていた。
ところが、ドイツを別格とすれば、原発を放棄しようという動きは、まだ少数派。むしろ中国や北朝鮮、韓国などは、日本の「原発0」を歓迎するだろう。
産油国も大歓迎。すでに原油、天然ガスの価格は高騰している。
彼らにとって、日本を追いつめるチャンスであり、金儲けのチャンスなのである。困るのは日本人だけ。膨大な貿易赤字が今後急速にふくらみ、財政破綻へと追い込まれかねない。

3.イデオロギーとしての反原発
反原発をとなえる人の中に、それをイデオロギーとして盲信する人がいる。彼らにとって、原発再稼働を容認する者が、許しがたい人として映るようである。
フクシマの原発事故はたしかに大災害であった。しかし、いったい何人の人命がうしなわれたのか? 3年が経過したいまも、およそ10万人が避難生活を送っているのは、ゆゆしきことであろう。
だが、それによって、エネルギー問題に対する大局観を失っていいものだろうか?
平成25年交通事故の死者は全国で4373人。だからといって、そんな危険な自動車はやめてしまえという乱暴な論が成立するものだろうか?
ところがここでも、フクシマ原発の死者数万人ととなえるお方がいる。
間接的な死者をすべて合わせれば、そういう数字になるという。これはかなり強引な拡大解釈だろう。


4.不完全なテクノロジー
あるいは原発問題を、経済か倫理か・・・つまりどちらをとるのかという観点から論じようとする人がいる。
原発は当然ながら倫理の問題ではない。電力の確保という、その一点に尽きる。そして、いまだ不完全とはいえ、高度なテクノロジーと、安全管理の問題である。拡大解釈し、問題の核心を混乱させるべきではない。

5.国益か住民の利益か
国益と住民の利害が対立し、調整が暗礁にのりあげた場合、いったいどうしたらいいのだろう?
だれもが、キケンな原発の再稼働にOKを出さない。
これでは明らかに、国家レベルの利益がそこなわれると判断したとき、わたしは国益優先は当然だろうと考えている。
ところがこういういい方をすると、「その国益とはなんだ? 一部権力者と大資本の利益のことではないか」と突っ込んでくる。
たしかにそういった側面がないとはいえず、不正や不当な利益はきびしく監視し、告発する必要があるだろう。国益と住民レベルの利害は、可能な限り調整され、妥協がはかられるべきである。
それでも妥協点がみつからなければ、国益優先。
だから「原発再稼働」を“やむをえないこと”とわたしは表現したのである。
反原発をとなえている人の中には、「自分のところさえよければ、他は知ったことか」と考えている人がいる。
一つ例をあげれば、今回の震災のゴミの処分問題。どこの自治体も震災ゴミの引き受けを容認していない。「被災地だけではとてもゴミの処分が間に合わない。どうか一部でいいから、引き取ってもらいたい」
これはかなり深刻な状況らしいが「自分のところだけでせいいっぱい」といって、引き受け手はあらわれないようである。
こういうところに、近代ヒューマニズムの限界が露呈する。
いまさらいうまでもないが、キレイごとだけではすまないのが、国政の運営である。野次馬や万年野党の諸氏はなんとでもいえるけれど。

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