
昨日仕事帰りにBOOK OFFに立ち寄ったところ、108円コーナーに谷川俊太郎さんの詩集が置いてあった。
「空に小鳥がいなくなった日」
1990年株式会社サンリオ 刊(1300円+税)
好きな現代詩人を一人だけ・・・となったら、わたしは躊躇なく谷川さんを挙げる。
谷川さんが好きになったのは「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」という詩集とめぐり逢ったから。
中年になった男の孤独感、悲哀、悔恨と宿命に対し、じつに驚くべき率直さをもって対決し、谷川さんにしか到達できない見事な「うた」をつむいだ、稀有な詩集である。
詩人はむろん、谷川さんだけを信奉しているわけではないから、いろいろと読んではいるが、つぎの数行も、出会っていらい、忘れたことがない。
また朝が来てぼくは生きていた
夜の間の夢をすっかり忘れてぼくは見た
柿の木の裸の枝が風にゆれ
首輪のない犬が陽だまりに寝そべってるのを
百年前ぼくはここにいなかった
百年後ぼくはここにいないだろう
あたり前なところのようでいて
地上はきっと思いがけない場所なんだ
(作品「朝」冒頭)
フォトグラファーであり、詩人であるわたしのこころの奥底に、この数行が横たわっている。
これはいわばわたしの「通奏低音」なのである。
最初出会ったのは、思潮社「続谷川俊太郎詩集」ではなかったろうか?
「朝」という、素っ気ないありふれたタイトルだった。
この作品が詩集「空に小鳥がいなくなった日」に収録された一編であることはわかっていたが、そしてその詩集を何度か本屋さんで立ち読みした経験をもってはいるが、
手許には置かないようにしていた。
その一冊が、108円の棚にあったので、わたしは救出せずにはいられなかった。
もちろんほかにも、ずん、ずーんとこころにしみ渡る作品がいくつもある。
しかし。
<百年前ぼくはここにいなかった
百年後ぼくはここにいないだろう
あたり前なところのようでいて
地上はきっと思いがけない場所なんだ>
大げさないいかたをすれば、40代のはじめころ出会ってから、このことばにはげまされて生きてきたようなもの。
最後の行まで読みおえて、ああ、こんな詩だったのかと、いま、
あらためて感心している(笑)。
(・・・つづき)
いつだったか子宮の中で
ぼくは小さな小さな卵だった
それから小さな小さな魚になって
それから小さな小さな鳥になって
それからやっとぼくは人間になった
十ヶ月を何千億年もかかって生きて
そんなこともぼくら復習しなきゃ
今まで予習ばっかりしすぎたから
今朝一滴の水のすきとおった冷たさが
ぼくに人間とは何かを教える
魚たちと鳥たちとそして
ぼくを殺すかもしれぬけものとすら
その水をわかちあいたい
(・・・以上)
あたり前なところのようでいて
地上はきっと思いがけない場所なんだ
このことばは、詩人としてでなく、フォトグラファーとしてフィールドに立ったときのわたしのメインテーマでもある。
あとで詩集全体を、ゆっくりと読んでいこう。
この詩集が刊行されたとき、わたしは弱冠38歳。
日本は年老い、わたしもそれなりに年老いた・・・そんな感慨にひたっている。
・・・最後までお読みいただき、ありがとうございましたm(_ _)mペコリ

「空に小鳥がいなくなった日」
1990年株式会社サンリオ 刊(1300円+税)
好きな現代詩人を一人だけ・・・となったら、わたしは躊躇なく谷川さんを挙げる。
谷川さんが好きになったのは「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」という詩集とめぐり逢ったから。
中年になった男の孤独感、悲哀、悔恨と宿命に対し、じつに驚くべき率直さをもって対決し、谷川さんにしか到達できない見事な「うた」をつむいだ、稀有な詩集である。
詩人はむろん、谷川さんだけを信奉しているわけではないから、いろいろと読んではいるが、つぎの数行も、出会っていらい、忘れたことがない。
また朝が来てぼくは生きていた
夜の間の夢をすっかり忘れてぼくは見た
柿の木の裸の枝が風にゆれ
首輪のない犬が陽だまりに寝そべってるのを
百年前ぼくはここにいなかった
百年後ぼくはここにいないだろう
あたり前なところのようでいて
地上はきっと思いがけない場所なんだ
(作品「朝」冒頭)
フォトグラファーであり、詩人であるわたしのこころの奥底に、この数行が横たわっている。
これはいわばわたしの「通奏低音」なのである。
最初出会ったのは、思潮社「続谷川俊太郎詩集」ではなかったろうか?
「朝」という、素っ気ないありふれたタイトルだった。
この作品が詩集「空に小鳥がいなくなった日」に収録された一編であることはわかっていたが、そしてその詩集を何度か本屋さんで立ち読みした経験をもってはいるが、
手許には置かないようにしていた。
その一冊が、108円の棚にあったので、わたしは救出せずにはいられなかった。
もちろんほかにも、ずん、ずーんとこころにしみ渡る作品がいくつもある。
しかし。
<百年前ぼくはここにいなかった
百年後ぼくはここにいないだろう
あたり前なところのようでいて
地上はきっと思いがけない場所なんだ>
大げさないいかたをすれば、40代のはじめころ出会ってから、このことばにはげまされて生きてきたようなもの。
最後の行まで読みおえて、ああ、こんな詩だったのかと、いま、
あらためて感心している(笑)。
(・・・つづき)
いつだったか子宮の中で
ぼくは小さな小さな卵だった
それから小さな小さな魚になって
それから小さな小さな鳥になって
それからやっとぼくは人間になった
十ヶ月を何千億年もかかって生きて
そんなこともぼくら復習しなきゃ
今まで予習ばっかりしすぎたから
今朝一滴の水のすきとおった冷たさが
ぼくに人間とは何かを教える
魚たちと鳥たちとそして
ぼくを殺すかもしれぬけものとすら
その水をわかちあいたい
(・・・以上)
あたり前なところのようでいて
地上はきっと思いがけない場所なんだ
このことばは、詩人としてでなく、フォトグラファーとしてフィールドに立ったときのわたしのメインテーマでもある。
あとで詩集全体を、ゆっくりと読んでいこう。
この詩集が刊行されたとき、わたしは弱冠38歳。
日本は年老い、わたしもそれなりに年老いた・・・そんな感慨にひたっている。
・・・最後までお読みいただき、ありがとうございましたm(_ _)mペコリ
