二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

戦争文学の金字塔 ~伊藤桂一「静かなノモンハン」の衝撃

2022年01月31日 | ドキュメンタリー・ルポルタージュ・旅行記
恐縮ながら、極私的な心情から述べさせていただこう。

戦争文学の代表作といわれるものを読んでおかけねばならない、と思うようになったのはいつごろからであったろう。
吉村昭のノンフィクション・ノベルをつぎつぎと読み、高評価をあたえながら戦争文学への思いが少しずつ高まってきた。これまで読んだなかで、
・戦艦武蔵ノート
・陸奥爆沈
・零式戦闘機
・プリズンの満月
・戦史の証言者たち
・海の史劇

一が戦史小説にあたる。ほかにも吉村さんは、戦争そのものや、その周辺のエピソードに材をあおいだ多くの作品をお書きになっている。吉村さんが小説家吉村昭になったのが、いまさらいうまでもないが、「戦艦武蔵」であることをおもえば、これは当然のなりゆき。

そういった読書遍歴をつづけながら、わたしの中でクローズアップされてきた一冊の本がある。それが「静かなノモンハン」。
20年かあるいはもっと昔、友人にすすめられ、拾い読みした覚えがわずかにある(´・ω・)?
しかし、心覚えの本棚を物色しても見つからない。そこで新たに講談社文芸文庫版を買い直すことになった。

本書の目次を筆写しておこう。
序の章・草原での戦い
一の章・あの稜線へ 鈴木上等兵の場合
二の章・小指の持つ意味 小野寺衛生伍長の場合
三の章・背嚢が呼ぶ 鳥居少尉の場合

参考資料
対談 ノモンハン 一兵卒と下士官 司馬遼太郎/伊藤桂一

さらに、あとがき、解説、年譜、著作目録が収録され、これらすべてで283ページ(現行版)である。
「一の章・あの稜線へ 鈴木上等兵の場合」を読みはじめてすぐに、わたしの涙腺は崩壊し、多くの場面で、涙を拭ったり、嗚咽したりしながら読み終えることになった。
こんなに泣いた(泣かされた)本は、これまでなかったはず。
さて、内容紹介に移ろう。

《昭和十四年五月、満蒙国境で始まった小競り合いは、関東軍、ソ蒙軍間の四ヵ月に亘る凄絶な戦闘に発展した。襲いかかる大戦車群に、徒手空拳の軽装備で対し、水さえない砂また砂の戦場に斃れた死者八千余。生還した三人の体験談をもとに戦場の実状と兵士たちの生理と心理を克明に記録、抑制された描写が無告の兵士の悲しみを今に呼び返す。芸術選奨文部大臣賞、吉川英治文学賞受賞の戦争文学の傑作。》BOOKデータベースより

伊藤桂一さんご自身、6年間にわたる軍隊経験があるが、ノモンハンの戦闘には加わっていなかった。
したがって、本書は鈴木上等兵、小野寺伍長、鳥居少尉(階級はノモンハン戦当時)からの聞書きで、刊行されたのは昭和57年(1982)、翌年に本書によって、芸術選奨文部大臣賞、吉川英治文学賞を受賞している。
この本が上梓されたとき、伊藤桂一65歳。ということは、これらのもとになったインタビューを行うのに、37年の歳月を必要としたことになる。“ノモンハン事件”の1939年から数えれば、43年後に語られた真実である。

現在ではインターネット上に、夥しいほどの情報が掲載され、2-3日あっても、とてもとてもそれらの記事をフォロー
しきれない。
平成になってすら「隠された真実」がいくつか明らかになっているようである。戦史の研究家によって犠牲者が実態として何人だったのかが異なり、今後新史料の発見もあるかもしれない(。-д-。)

このすさまじい、一方的な敗北は日本陸軍によって固く秘せられ、戦後一般国民に知られるようになるまでずいぶんな時間を要している。
阿鼻叫喚の地獄絵図だが、涙にかき消されて文字を追い切れぬところがあって、わたし的には後戻りをくり返しながら、二日半がかりでようやく読み終えた。
さて、どこから引用したらいいのか、引用すべきなのか・・・。

「二の章・小指の持つ意味 小野寺衛生伍長の場合」(60ページ)の中につぎの記述があって胸をえぐられた。
「生田大隊八百五十名が、わずか三十六名になった」と!
これは本当の数字なのかと、眼を疑った。
部分的な引用では伝わりはしないが、ちょっと長めのここを写しておく。

《被害状況の調査がすぐ行われましたが、このときの数名の死傷者の中に、田原少尉がまじっていたのです。即死です。敵機の爆弾は田原少尉の壕に落ち、田原は四散して、どこに遺体があるのかもわかりませんでした。かりに、あと数分、私がその壕にいたら、わたしもまた、田原とともに吹き飛んでしまったのです。
千切れ飛んだ遺体をかきあつめて、埋めてやり、野の花を供えてやるのが、田原への、せめてもの、私のしてやれる心づくしでした。野の花は、私の気持ちを察して、部下のひとりがみつけてきてくれた淡桃色の野バラの花の一枝です。たまに、この花をみかけます。
遺体の処理法は、その場所、その時によって違いましたが、毛布で包んで縄をかけ、トラックの荷台に横積みにして、将軍廟に送り込めば、そこで集団火葬にしてもらえたのです。遺体はチチハルの留守部隊に送られます。
しかし、戦況がきびしくなると、そうした余裕はなくなり、砂を掘って仮埋葬をしました。そうして、もしその余裕があれば、頭部だけを掘り起こして、焼いて遺骨をつくったのです。燃料は、付近に灌木があればこれを使い、また弾薬箱をこわして薪にしたりしました。
ただ、遺体処理をする時の煙を目標にして、砲撃をうけることが多くなってからは、遺体は埋めたままになっています。
私は、田原の場合は、小指を切りとりました。のちに焼いて遺骨にして、だいじに持っていました。》(196ページ)

こういった戦慄すべきシーンがいたるところにばらまかれている。死は起こってしまったからもうどうにもならないが、遺された者の使命は、埋葬し、遺骨を親兄弟にたしかに届けることである。
ロシアの負傷兵は泣き叫ぶことが多かったようだが、日本人下士官や兵は、勇敢によく戦い黙って倒れていった。だれもそれを見て、讃える者がいなくても、靖国で会おうという合い言葉を胸に。

この小説は、ノモンハンという遠い、遠い戦場で、日本兵がいかに戦い、いかに殺されていったかのドキュメントである。この国の指導者は、言語を絶する悲惨な戦争を兵隊たちに強いたのだ。
ひと口に2万人、あるいはそれ以上の日本人が、この草原で善戦し、だれにも見守られることなく死んで、遺体すらほとんど放棄された。
「静かなノモンハン」
伊藤桂一さんの慟哭と、いつまでも癒えることのない痛苦がこの表題にこめられている。

陸軍の参謀など上層部は、この敗戦を秘匿するため、わすかに遺った兵隊を、それからのち死亡率の高い最前線の危険地帯に転属させたという。
満洲の戦車部隊で小隊長をつとめた司馬遼太郎は、
「お国のために戦ったのは下士官と兵隊ばかりだ」と、付録の対談でいっている。
また「ノモンハンを書くとしたら、血管が破裂すると思う」と、この作戦にたずさわった将官を痛烈に批判している。
準備はしたものの、司馬さんは結局ノモンハンは書かなかった。

しかし、後年その司馬さんの遺志を引き継いだ人がいる。
その人の名は、
半藤一利・・・である。「ノモンハンの夏」も手許に用意ができているので、近々読みはじめる予定。



「静かなノモンハン」は歴史書だけを読んでいたのではわからない、一見トリビアルとも見えかねない戦場の日常が、峻烈に刻み込まれた、人生永遠の書といっていい。それにしてもネタバレになるからふれないでおくが、ラストシーンの何という、何という哀切なことだろう。

黙祷!








評価:☆☆☆☆☆


下3枚はネットの画像検索からお借りしています。著作権等問題がありましたら、ご連絡下さいませ。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 現代において俳人とは? ~... | トップ | 木とその影 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

ドキュメンタリー・ルポルタージュ・旅行記」カテゴリの最新記事