(写真は2014年6月、前橋)
このあいだ古書店へ立ち寄ったら、『山本健吉全集』全15巻別巻1 講談社の端本が2冊置いてあった。1冊500円、鉛筆による書き込みが少しあるため、お安くなっていたから、そのうちの1冊を買ってかえり、拾い読みで半分ばかり読んだ。
やや長くはなるが、その感想を書いておこう。
ここには「古典と現代文学」の全編と「行きて帰る」の大半が収録されている。
そのうちとくに「古典と現代文学」を読み返したかった。
本書の目次をつぎに掲げておく。
1.詩の自覚の歴史
2.柿本人麻呂
3.抒情詩の運命
4.物語における人間像の形成
5.源氏物語
6.隠者文学
7.詩劇の世界
8.座の文学
9.近松の周辺
10.談笑の世界
あとがき
網羅的な日本文学史を意図して書かれたわけではないが、結果として、たいへんすぐれた“日本文学通史”となっている。
初版の刊行は1955年、講談社。その後新潮文庫、講談社学芸文庫に収録。新潮文庫はとっくの昔に絶版だが、後者のほうは、いまでも入手可能だろう。
わたしはたしか、大学初年のころ、新潮文庫で読み、古代、中世、近世の文学について、基本的な知見をうることができた。『山本健吉全集』第一巻では丸谷才一さんが瞠目してよい解説を縷々お書きになっている。
この本のことを思い出したのは、その丸谷才一さんの本を読んでいたときのこと。
《湯川豊:日本のこの分野、文学史的批評の代表というと……。
丸谷才一:まず頭に浮かぶのは、山本健吉『古典と現代文学』。エリオットの「伝統と個人の才能」に啓発され、その前に折口信夫に基本的なことを教わっていたわけですから、この二つでできたものなんですね。僕は日本文学総論で最高のものはこの『古典と現代文学』じゃないかと思っているんですが、みんながちっとも褒めないというか、読まないというか、ちょっと不思議なんだな。題が悪いのかしらね。
湯川:うーん、手にとってみたいというタイトルではないかもしれません。
丸谷:もう一冊、山崎正和『不機嫌の時代』。これまた名著です。古典日本文学を論じては『古典と現代文学』、近代日本文学を論じては『不機嫌の時代』、これが二大名著じゃないかと思いますね。》 (「文学のレッスン」新潮社 より)
わたし自身「古典と現代文学」は忘れられない一冊だったから、わが意を得たり・・・であったのだ。あまり取り上げる人がいないから、半ば埋もれているのかも知れないが、まさに名著である。
山本健吉さんは、折口信夫門下の文芸評論家。
多少の留保は必要かも知れないが、「詩の自覚の歴史」が、この人の終生のテーマであったといっていいだろう。
「芭蕉 その鑑賞と批評」も大きな仕事であった。これまた、新潮文庫で愛読し、いずれ読み返す必要がある・・・と考えたことを覚えている。
芭蕉とその俳諧精神の展開については、その後、安東次男さん、尾形仂さんの本によって多くを教えられた。詩人大岡信さんによる一連の古典文学論も、この系譜に属する。そこには、行き過ぎた近代化に対する反省がある。
そこにおいて、山本健吉は先駆的な、重要な役割を果たした。
《俳句はかつて芭蕉の時代に、それが連句の発句として発達することのできた高さにまで、それ以後単独で到達したことは一度だってないのである。
それはちょうど、短歌が人麻呂の時代に、鎮魂の役割を担った長歌の反歌として達することのできた高さにまで、それ以後単独で到達することができなかったのと同様である》(本書「座の文学」より)
わたしは高校時代から「現代詩」を書いていたが、東京を離れ、帰郷をする決心をしたとき、詩を書くことを放棄した。いまから考えてみると、なぜ詩からはなれたのか、その理由の一つが、ここにはっきりと指摘されている。
和歌(短歌)は柿本人麻呂を、俳諧(俳句)は、芭蕉を、その誕生の経緯と、「詩の自覚の歴史」のうえから、超えることはありえないのである。
・・・とはいえ、わたしは還暦を迎えてから、ふたたび詩を書きはじめた。
五十代の終わりころから「中高年の文学」に強い関心をもつようになった。
わが国は青春の文学の秀作をさがすには手間はかからないが、中高年の文学、老年の文学の秀作をさがそうとすると、はたと困惑せざるをえない。
そのことを明確に意識したのは、鴎外の「じんさんばあさん」という傑作短編に感動したときであった。
わたしが書いている作品は、老境をテーマとしたものがほとんど。詩=青春の文学というだけでなく、詩=老年の文学たりうることを証明したいのである。・・・といってしまうと少々いいすぎだけれど、半面の真実は衝いているとかんがえる。
山本健吉はその後、近・現代俳句にすぐれた批評と鑑賞を発揮した仕事を残しているが、いまとなっては、あまり読まれている形跡はない。
わたしも丸谷才一さんの仕事につきあわなければ、忘れさっていた・・・あるいは、本はもっていても、読み返すことはなかったろう。
連句や歌仙(七部集)の世界で頂点を極めた芭蕉は、「奥の細道」によって、もう一度、文学的な頂点を極める。そのことを、山本健吉は精緻に跡づけ、検証していく。
安東さんの「芭蕉」と「七部集評釈」、尾形さんの「座の文学」や「芭蕉・蕪村」、
丸谷さんの「後鳥羽院」「日本文学史早わかり」、大岡さんの「うたげと孤心」などが、この地平線上からぞくぞくと姿をあらわす。
最初の一歩をしるしたのは釈超空・折口信夫かも知れないが、そのバトンを引き継いで、第二走者として、非常にすぐれた業績を残した。
短歌、俳句という日本の伝統的な短詩系文学は、戦後桑原武夫の「第二芸術論」によって、大きな打撃をこうむったと、わたしは認識している。しかし、桑原さんのあの本は、半分だけあたっているだろうが、半分ははずれている・・・とわたしは見ている。
そのためにも、山本さんや安東さん、尾形さんらの仕事につきあってみる価値がある。
自分では俳句はつくらないのだが、ネット上に、いろいろな俳句のサイトが店開きしていて、ときおり愉しませてもらっている。まあ、たいした読者ではないから、軽率な発言は慎んでおこう・・・というスタンスのつきあいである。
「ネット社会で俳句は見直されているのかな」と考えないでもない。
なにしろ五・七・五といえば、世界でいちばん短い詩形となる。
ツイッターだとか、つぶやきだとか、100文字で、あるいは150文字でなにがいえるのか? それは《表現》として、すぐれた価値を今後生み出す可能性をひめているだろうか?
「文台引き下ろせば即ち反故」(三冊子)と芭蕉はいったが、いまこれを書いて投稿しようとしているmixiにせよ、gooのブログにせよ、現代人にとって、文台とは多くの場合Web上の世界となる。
ああ! そういうことなんだと、めぐりめぐって、思いはそこにおよんだ。
このあいだ古書店へ立ち寄ったら、『山本健吉全集』全15巻別巻1 講談社の端本が2冊置いてあった。1冊500円、鉛筆による書き込みが少しあるため、お安くなっていたから、そのうちの1冊を買ってかえり、拾い読みで半分ばかり読んだ。
やや長くはなるが、その感想を書いておこう。
ここには「古典と現代文学」の全編と「行きて帰る」の大半が収録されている。
そのうちとくに「古典と現代文学」を読み返したかった。
本書の目次をつぎに掲げておく。
1.詩の自覚の歴史
2.柿本人麻呂
3.抒情詩の運命
4.物語における人間像の形成
5.源氏物語
6.隠者文学
7.詩劇の世界
8.座の文学
9.近松の周辺
10.談笑の世界
あとがき
網羅的な日本文学史を意図して書かれたわけではないが、結果として、たいへんすぐれた“日本文学通史”となっている。
初版の刊行は1955年、講談社。その後新潮文庫、講談社学芸文庫に収録。新潮文庫はとっくの昔に絶版だが、後者のほうは、いまでも入手可能だろう。
わたしはたしか、大学初年のころ、新潮文庫で読み、古代、中世、近世の文学について、基本的な知見をうることができた。『山本健吉全集』第一巻では丸谷才一さんが瞠目してよい解説を縷々お書きになっている。
この本のことを思い出したのは、その丸谷才一さんの本を読んでいたときのこと。
《湯川豊:日本のこの分野、文学史的批評の代表というと……。
丸谷才一:まず頭に浮かぶのは、山本健吉『古典と現代文学』。エリオットの「伝統と個人の才能」に啓発され、その前に折口信夫に基本的なことを教わっていたわけですから、この二つでできたものなんですね。僕は日本文学総論で最高のものはこの『古典と現代文学』じゃないかと思っているんですが、みんながちっとも褒めないというか、読まないというか、ちょっと不思議なんだな。題が悪いのかしらね。
湯川:うーん、手にとってみたいというタイトルではないかもしれません。
丸谷:もう一冊、山崎正和『不機嫌の時代』。これまた名著です。古典日本文学を論じては『古典と現代文学』、近代日本文学を論じては『不機嫌の時代』、これが二大名著じゃないかと思いますね。》 (「文学のレッスン」新潮社 より)
わたし自身「古典と現代文学」は忘れられない一冊だったから、わが意を得たり・・・であったのだ。あまり取り上げる人がいないから、半ば埋もれているのかも知れないが、まさに名著である。
山本健吉さんは、折口信夫門下の文芸評論家。
多少の留保は必要かも知れないが、「詩の自覚の歴史」が、この人の終生のテーマであったといっていいだろう。
「芭蕉 その鑑賞と批評」も大きな仕事であった。これまた、新潮文庫で愛読し、いずれ読み返す必要がある・・・と考えたことを覚えている。
芭蕉とその俳諧精神の展開については、その後、安東次男さん、尾形仂さんの本によって多くを教えられた。詩人大岡信さんによる一連の古典文学論も、この系譜に属する。そこには、行き過ぎた近代化に対する反省がある。
そこにおいて、山本健吉は先駆的な、重要な役割を果たした。
《俳句はかつて芭蕉の時代に、それが連句の発句として発達することのできた高さにまで、それ以後単独で到達したことは一度だってないのである。
それはちょうど、短歌が人麻呂の時代に、鎮魂の役割を担った長歌の反歌として達することのできた高さにまで、それ以後単独で到達することができなかったのと同様である》(本書「座の文学」より)
わたしは高校時代から「現代詩」を書いていたが、東京を離れ、帰郷をする決心をしたとき、詩を書くことを放棄した。いまから考えてみると、なぜ詩からはなれたのか、その理由の一つが、ここにはっきりと指摘されている。
和歌(短歌)は柿本人麻呂を、俳諧(俳句)は、芭蕉を、その誕生の経緯と、「詩の自覚の歴史」のうえから、超えることはありえないのである。
・・・とはいえ、わたしは還暦を迎えてから、ふたたび詩を書きはじめた。
五十代の終わりころから「中高年の文学」に強い関心をもつようになった。
わが国は青春の文学の秀作をさがすには手間はかからないが、中高年の文学、老年の文学の秀作をさがそうとすると、はたと困惑せざるをえない。
そのことを明確に意識したのは、鴎外の「じんさんばあさん」という傑作短編に感動したときであった。
わたしが書いている作品は、老境をテーマとしたものがほとんど。詩=青春の文学というだけでなく、詩=老年の文学たりうることを証明したいのである。・・・といってしまうと少々いいすぎだけれど、半面の真実は衝いているとかんがえる。
山本健吉はその後、近・現代俳句にすぐれた批評と鑑賞を発揮した仕事を残しているが、いまとなっては、あまり読まれている形跡はない。
わたしも丸谷才一さんの仕事につきあわなければ、忘れさっていた・・・あるいは、本はもっていても、読み返すことはなかったろう。
連句や歌仙(七部集)の世界で頂点を極めた芭蕉は、「奥の細道」によって、もう一度、文学的な頂点を極める。そのことを、山本健吉は精緻に跡づけ、検証していく。
安東さんの「芭蕉」と「七部集評釈」、尾形さんの「座の文学」や「芭蕉・蕪村」、
丸谷さんの「後鳥羽院」「日本文学史早わかり」、大岡さんの「うたげと孤心」などが、この地平線上からぞくぞくと姿をあらわす。
最初の一歩をしるしたのは釈超空・折口信夫かも知れないが、そのバトンを引き継いで、第二走者として、非常にすぐれた業績を残した。
短歌、俳句という日本の伝統的な短詩系文学は、戦後桑原武夫の「第二芸術論」によって、大きな打撃をこうむったと、わたしは認識している。しかし、桑原さんのあの本は、半分だけあたっているだろうが、半分ははずれている・・・とわたしは見ている。
そのためにも、山本さんや安東さん、尾形さんらの仕事につきあってみる価値がある。
自分では俳句はつくらないのだが、ネット上に、いろいろな俳句のサイトが店開きしていて、ときおり愉しませてもらっている。まあ、たいした読者ではないから、軽率な発言は慎んでおこう・・・というスタンスのつきあいである。
「ネット社会で俳句は見直されているのかな」と考えないでもない。
なにしろ五・七・五といえば、世界でいちばん短い詩形となる。
ツイッターだとか、つぶやきだとか、100文字で、あるいは150文字でなにがいえるのか? それは《表現》として、すぐれた価値を今後生み出す可能性をひめているだろうか?
「文台引き下ろせば即ち反故」(三冊子)と芭蕉はいったが、いまこれを書いて投稿しようとしているmixiにせよ、gooのブログにせよ、現代人にとって、文台とは多くの場合Web上の世界となる。
ああ! そういうことなんだと、めぐりめぐって、思いはそこにおよんだ。