あるとき、一匹の猫と街角で遭遇した。「鏡の国へいらっしゃい。ご招待します。街角にある鏡の国へ!」そうしてわたしは鏡の国へまぎれこんだ・・・と書くと、詩かメルヘンになってしまうな。主にショーウィンドウやクルマのガラス窓に映し出された世界のことを、アリスになぞらえて、「鏡の国」と呼んでみたのだ。現実と非現実が、ごちゃまぜになった世界とでもいうのか?街角散歩しながら、気が付くと撮っている。あちこちに散らばっているから、アルバムからセレクトするのはかなり面倒(~o~)ここにピックアップした以外に、ずいぶん鏡の国の作品が置いてある。光の反射が描き出す幻想的な絵は、意外性があってわくわくさせられることが多い。そこにあるのは透明なガラスなのに、光のかげんで、少しゆがんだ現実を映し出し、外部と内部が微妙に入り混じる。
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この数年、カメラの進歩にはすさまじいものがある。プロの経験や知識の蓄積なんて関係なく、極端にいえば、カメラを買ったその日から失敗のない思い通りの写真が撮れるのだから。ビギナー、中堅、ベテランのあいだに、力の差はほとんどなく、プロとアマチュアの差も縮まっている。あまりに安易すぎるのがつまらなくて、フィルムカメラに復帰はしたものの、経済的な負担は無視できないものがあって、このところやや遠ざかっている(^^;)
1万円札があっというまに消えてしまう――。それにひきかえ、今日買ってきた16GBのSDカードは880円! この値段でわたしのカメラなら、たぶん2000枚はいけるだろう(~o~)でも、これでほんとうにいいのかしら?
1億総カメラマン・・・わたしも皆さんも、似たり寄ったりの写真を盛んに撮っているせいか、感動が以前に比べてずいぶんうすれている。わたしだけの現象かもしれないけれど。
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「過去はつねに新しい」これまで日記で何回か取り上げているけれど、森山大道さんのこのことばは、わたしをインスパイアし、インスピレーションをあたえ、いろいろな思いにさそう。わたしはなぜ「街歩き」「街撮り」をはじめたのだろう。それまで数年間、ほとんど昆虫しか撮っていなかったわたしが、もっと違った写真を撮ろうと思って高級コンパクトカメラ、ルミックスLX5を手に入れ、撮影を開始したのは「街角の写真」を撮りたかったから。あれから、はや2年がたった。これもすでに書いたように、わたしがやっていることを一語で要約すれば「過ぎ去った時との情交」ということになる。わたしにとって、昭和30年代、40年代ほど輝かしく、まばゆい時代はなかった。それはほぼ“少年期”と重なっている。その時代に外界へと眼を開かれ、フレッシュな気分で、外の世界を見回した。
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このところ、どうもしょぼくれている(=_=)わが家のどぢ猫テンちゃんのこと。このところ、ご覧のように、どうも元気がなく、たそがれている姿が眼につく。「おれって、やっぱり孤独なんだなあ。孤独な人生は淋しいものさ」なーんて、考え込んでいるのかな? 小指くらいのちっぽけな頭脳で。わたしが眼を覚まし、しばらくして玄関ドアを開けると、外で待っていて、必ず「にゃ~ご」と一声鳴いて植え込みから姿をあらわす。夕方、帰宅すると、やっぱりわたしを待っている。テンちゃんのご飯=キャッツフードは、わたしが与えているからだ。「ん、ご飯がきたぞ!」
クルマのエンジン音やドアが開閉する音に、耳をそばだてているのだろう。いたずらが激しく、毛が抜けたりするし、ノミを背負っているので、わが家には滅多に入れず、普段は母屋で暮らしている。あるいは、猫は夜行性なので、表へ飛び出して仲間たちと一晩中遊びまわっている。
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こちら北関東では、昨日日曜日は一日中どしゃぶりに近い雨降りだった。
暗くて、肌寒い、初冬のような雰囲気。わたしは終日ほとんど出かけず、ディスクワーク。マーラーの交響曲を聴いてすごした。けさはそのお天気がよくなりかけ、出勤しようと外へでたら、小糠雨が音も立てずに降っている。こういう雨のことを、「しぐれ」といったのだろう。あるいは霧雨ということばがある。しずくが植物を半透明のビーズのような粒々で飾り立て、とても美しいので、2、30分屋敷の中を歩きまわって、写真を撮った。 . . . 本文を読む
一昨年から昨年にかけて、マーラー生誕150年、没後100年ということで、日本でもずいぶんマーラーが演奏され、ディスクも新発売されたり、再販されたりしたらしい。わたしは音楽雑誌はめったに読まないから、そのあたりの事情にはきわめてうとい。マーラーが生きたのは、19世紀終わりころから、20世紀はじめの10年くらいである。日本人でいえば、夏目漱石とほぼ同時代人。ショーペンハウエルやニーチェなどの「厭世哲学」がもてはやされた時代であり、マーラーの死後、ロシア革命や第一次世界大戦が、ヨーロッパに大きな悲劇をもたらした。むろんハプスブルク帝国の首都・ウィーンを中心に華ひらいた世紀末芸術の飛沫も、たっぷりと浴びている。わたしはR・シュトラウスなどが盛んにつくった交響詩は、映画音楽のはしりみたいで、どうもあまり好きではないので、同時代人たるマーラーが「交響曲」にこだわったところは大いに評価したいと考えているし、“合唱”のない曲は、好きになれそうな予感がある(^-^)合唱が入ってくると、そこだけ意味性が高くなって、聴きかたを制約される。
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面影町はいたるところにある。あなたが住んでいる町にもきっと・・・。
ほら そこにある。記憶の波間に浮き沈みしているからうっかりしていると見過ごしてしまう。お豆腐屋さん おまんじゅう屋さん 染め物屋さんがならんでいたりする。かなりくたびれて 軒先がかたむいている店がある。東側の壁は漆喰がはがれ 土壁が露出している。そこにコムラサキが咲いているのをムクドリがきて 啄んでいく。信号が変わると なにがそんなに忙しいのか数台のクルマがおそろしいスピードでつぎの信号まで爆走していく。真っ白い雲におおわれていた空が割れて 陽ざしが顔をだす。
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11月に入ると、めっきり秋めいてくる。斜光線が浮かびあがらせる街のテクスチャーをもとめて、昨日は松井田町~中山道坂本宿をカメラ散歩してきた。この時季になると、なぜかもりもりと写欲がわいてくる。お天気も比較的安定しているから、これから初冬にかけて、昭和ロマン探索にふさわしいシーズン!コントラストが高く(ときに高すぎる)、影が濃いので、街角がステージのような光につつまれる。ただし、基本的に峠道なので、Mini Bikeはきついと判断し、クルマには積んでいかなかった。
この2年のあいだに、群馬県内の町並みはほぼ歩きつくした。残っているのは、水上町、長野原町、草津町・・・そして、この日訪れた松井田町(現安中市)。碓氷峠は中山道随一の難所として中世から知られていた。
在来線が元気だったころは、アプト式で名高い碓氷峠は、鉄道マニアには有名な地点だった。しかし、この付近には、観光資源に類するものは、ほぼ皆無。松井田町もこれといった特徴のない、沈みかけたような静かな町だった。長野県側へ越えていけば、避暑地軽井沢はじめ、北信地域の名所や旧跡が目白押しだってのにね。
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つぶやきでもふれたように、このあいだから、モーツァルト日和している一方、ひそかにグスタフ・マーラーへのアタックを開始している。
むろんはじめてのアタックではなく、3回目か4回目。そのたび、頂上を極めることができず、途中からすごすごと・・・。交響曲第1番ニ長調“巨人”〃 第4番ト長調〃 第5番ハ短調そのすばらしさのようなものがわかるのは、この3曲のみ。第2番“復活”、第6番も聴くようにはなっているが、とてもとても。しかし、「ブラボー!」と叫び出す瞬間がいつか訪れるのではないかという予感がある。昨日も夕食後、ジュリーニがシカゴ・フィルを振ったマーラーの第9番を2回聴いたけれど、まるで五里霧中というか、雲をつかむような感触しかえられなかった(^^;)はてさて、このあたりにわたしの限界のようなものがあるのか、はたまた希求するものが、まるで違うのか?
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巣を破壊されたアリたちが右往左往している。人がめったに訪れない古い沼のほとりでゴイサギが鳴いている。あれはなんのために鳴いているのだろう。ゴヤの絵から抜け出したぼくが エスキモーのようにヒゲを生やし
片足で立って こっちを見ている。いのちもこの地球の循環系のひとつだとすればこれからいく場所は決まっている。生き物たちの。ああ そこへいきつくまでのささやかな一日が去ってつぎの一日がまた去って区切りがつくようでつかないつかないようでちゃんとついている平凡な一日の空へ
ぼくは魂をさまよわせる。もし そんなものがあるとしたら・・・だけれど。 . . . 本文を読む