
マーラーの音楽は、一口にいって重たく、暗い。
その重さ、暗さをどう受け止めたらいいのか、わたしにはこれまでよくわからなかった。
いまでも「うん、わかった!」という気分にはほど遠いものがある。
とにかくどれも“重厚長大な”音楽ばかりなので、モーツァルトに親しんだ耳で、つぎにマーラーを聴くと、なんだかいやな気分になる。
意味があまりにぎっしりつまっているので、気軽には聴き流せない。
<写真>
右列上から
1)「交響曲第3番ニ短調」
指揮:レナード・バーンスタイン&ニューヨーク・フィル(1987年 DG)
2)「交響曲第5番嬰ハ短調」
指揮:レナード・バーンスタイン&ウィーン・フィル(1987年 DG)
3)「交響曲第9番ニ長調」
指揮:レナード・バーンスタイン&ベルリン・フィル(1979年 DG)
中
「交響曲第6番イ短調“悲劇的”」
指揮:クラウス・テンシュテット&ロンドン・フィル(1991年 EMI)
左列上から
1)「交響曲“大地の歌”」
指揮:オットー・クレンペラー&フィルハーモニア管(1967年 EMI)
2)「交響曲第6番イ短調“悲劇的”」
指揮:ジョージ・セル&クリーヴランド管(1967年 SC)
3)「交響曲第9番ニ長調」
指揮:サー・ジョン・バルビローリ&ベルリン・フィル(1964年 EMI)
今日は「マーラー日和」にしようと考え、ディスクワークしながら、BGMがわりに聴くつもりでCD7枚をクルマに積んできた。
このほかにも、5枚ばかりのCDをもっている。
第6番、第9番が二枚ずつあるのは、このあたりを手がかりにしながら、登攀ルートをさがすつもりがあるから。
まだ二合目か三合目をうろうろしているのが、実態だけれど(^^;)
一昨年から昨年にかけて、マーラー生誕150年、没後100年ということで、日本でもずいぶんマーラーが演奏され、ディスクも新発売されたり、再販されたりしたらしい。
わたしは音楽雑誌はめったに読まないから、そのあたりの事情にはきわめてうとい。
マーラーが生きたのは、19世紀終わりころから、20世紀はじめの10年くらいである。日本人でいえば、夏目漱石とほぼ同時代人。
ショーペンハウエルやニーチェなどの「厭世哲学」がもてはやされた時代であり、マーラーの死後、ロシア革命や第一次世界大戦が、ヨーロッパに大きな悲劇をもたらした。
むろんハプスブルク帝国の首都ウィーンを中心に華ひらいた世紀末芸術の飛沫も、たっぷりと浴びている。
わたしはR・シュトラウスなどが盛んにつくった交響詩は、映画音楽のはしりみたいで、どうもあまり好きではないので、同時代人たるマーラーが「交響曲」にこだわったところは大いに評価したいと考えているし、“合唱”のない曲は、好きになれそうな予感がある(^-^)
合唱が入ってくると、そこだけ意味性が高くなって、聴きかたを制約される。
ことばがくわわると「この音楽には、こういう意味があるのです」となって、そこから逃れて、自由気ままに想像をふくらますことができない。
マーラーの音楽は、基本的にはBGMにはならない。そういう傾向の音楽として、ベートーヴェンのもっとも忠実な後継者なのかもしれない。
「おれの音楽を聴け」
と彼はいう。しかも「おれの音楽は、こう聴け」という。
彼は聴衆になにかを強いる。気のあった仲間とお食事しながら、ではハイドンの音楽、モーツァルトの音楽のかわりにマーラーをBGMにして・・・なんて発想をいだく人は、まずいないだろう。
「私は三重の意味で故郷がない人間だ。オーストリア人の間ではボヘミア人、ドイツ人の間ではオーストリア人、そして全世界の国民の間ではユダヤ人として」
これはマーラーが語ったとされる有名なことば。つまりとてもじゃないが、無邪気に、のほほんとは生きられなかった人間なのである。彼にはつねに「書くべきこと、語るべきこと」がたくさんあった。そのすべてを、交響曲につめ込もうとしたのである。
・・・だから、あんなに重厚で、長大なシンフォニーが生まれてきたのであると、わたしは考える。
音楽が、メロディ、ハーモニー、リズムの美しさだけでは成り立たななくなって、文学性や思想性も視野に入れながら、これまでだれも耳にしたことがない音楽をつくり出す。そこに全精力をかたむけつくし、50才で多事多難なこの世から退場していった男の書いた音楽に、わたしはしばしば圧倒される。
二合目三合目あたりをうろちょろしながら、連峰の大きさ、高さを想像している。
クリエーターとしての“志”の堅固なことといったら、あきれるばかりだから、ちょっとあやかりたい・・・という不純な動機もあるけれど(笑)。
「おいおい、このあたり、いくらなんでも深刻すぎやしないか。重いねえ」
「あんただって、カワイコちゃんのお尻を追いかけまわしたことがあるだろうし、酒を呑んで騒いだり、うまい料理に舌鼓をうったりしたじゃないか」
ともかく、マーラーが残した9曲+1曲(未完成)の交響曲は急峻であり、登攀は容易ではない。しかも、音楽として破綻しかけては、また立ち直る。
アダージェットのような甘美な癒しの音楽と、彼を終始とり巻いていた死臭が隣り合わせに存在する。
マーラーの交響曲1曲は、ハイドン、モーツァルトの交響曲4曲分、あるいは5曲分といっていいのかもしれない。単に演奏時間が長いだけでなく、恐ろしくたくさんの楽想がつめこまれている――という意味で。
いま、いちばん悩ましいのは、このマーラーをだれの棒で聴くかである。
1960年代からはじまるしずかなマーラー・ブームの火付け役は、なんといっても、同じユダヤ人であったバーンスタイン! ところが、わたしはこの人の音楽に、これまで心から感動したという体験がない(~o~)
はてさて、どうしたものだろう。