玉村八幡宮は群馬県佐波郡玉村町下新田に鎮座しています。
祭神は、誉田別命(応神天皇)、気長足比売命(神功皇后)ほか十六柱を合祀しています。
頼朝公が三原(吾妻郡嬬恋村)へ行く途中で角淵(つのぶち)に立ち寄ったところ烏川が由比ヶ浜によく似ていたため建久6年(1195)上野奉行安達藤九郎盛長に命じ、鶴ヶ丘八幡宮の分霊を勧請奉安させたそうです。
のち、関東郡代伊奈忠次が前橋の総社まで引かれていた天狗岩用水をはるばる玉村まで延長する新田開発にあたり事業の加護を神前に祈りました。
そして無事事業の完了させました。慶長15年(1610)神助の報賽と新田の守護として上新田、下新田境の現在地に移築修造しました。これが現在、国指定重要文化財に指定されている本殿だということです。
玉村八幡宮はその後、関東管領畠山満家、白井城主長尾左衛門尉憲景などの尽力で再建修造しています。
本殿は永正4年(1507)の造営され、慶長15年(1610)の修造と伝えられています。室町様式と江戸初期様式とを併せ持つ建造物として、明治41年(1908)国の重要文化財に指定されています。
祭神は、誉田別命(応神天皇)、気長足比売命(神功皇后)ほか十六柱を合祀しています。
頼朝公が三原(吾妻郡嬬恋村)へ行く途中で角淵(つのぶち)に立ち寄ったところ烏川が由比ヶ浜によく似ていたため建久6年(1195)上野奉行安達藤九郎盛長に命じ、鶴ヶ丘八幡宮の分霊を勧請奉安させたそうです。
のち、関東郡代伊奈忠次が前橋の総社まで引かれていた天狗岩用水をはるばる玉村まで延長する新田開発にあたり事業の加護を神前に祈りました。
そして無事事業の完了させました。慶長15年(1610)神助の報賽と新田の守護として上新田、下新田境の現在地に移築修造しました。これが現在、国指定重要文化財に指定されている本殿だということです。
玉村八幡宮はその後、関東管領畠山満家、白井城主長尾左衛門尉憲景などの尽力で再建修造しています。
本殿は永正4年(1507)の造営され、慶長15年(1610)の修造と伝えられています。室町様式と江戸初期様式とを併せ持つ建造物として、明治41年(1908)国の重要文化財に指定されています。